【本編】第31話:記そうとする者
グラヴィオは、しばらく沈黙していた。
その沈黙に、わたしの鼓動だけが重なっていく。
そして、ようやく──彼は顔を上げ、静かに言った。
【グラヴィオ】
「……あなたが、私を罰したいというのなら」
彼は胸の前で手を重ねた。まるで、何かを祈るように。
【グラヴィオ】
「その筆を、私は拒みません」
「どんな言葉でも。どんな沈黙でも──」
視線が、わたしの目をまっすぐに捉える。
【グラヴィオ】
「……ただ、こんな気持ちは、初めてなんです」
「書くことも、記すこともできない」
「あなたを、と思ってしまうこの想いは──」
少しだけ、口元に苦笑が浮かぶ。
【グラヴィオ】
「だからこそ、怖い」
「こんな感情に、名前を与えられるのなら──」
「せめて、それが咎であってほしいと……どこかで、願っていたのかもしれません」
【グラヴィオ】
「でも……あなたが選ぶなら、私はそれをも美しいと思うでしょう」
「咎として。あなたの記録に咲く、小さな花として」
沈黙が、またひとつ満ちていった。でも、その沈黙は重くなかった。
むしろ、何かが解けていくような、やわらかさがあった。
―――
修道院の私室に戻っても、部屋は静まり返っていた。
その静けさの中で、私は──自分の胸のうちだけが、ざわざわと音を立てていた。
記すことが、また怖くなっていた。
でも、同時に──記したくて仕方がなかった。
机の前に座り、記録帳を開く。
ふと、頁の端に、小さく残った過去の記録が目に入った。
──「文化人グラヴィオ・カルネヴァレについて:過去、記録局に所属していたことが確認された」
かすれたインクが、あのときの決意を思い出させる。
この帳には、時折、現実がすり抜けていく。
それすら、本当に「自分が書いたもの」だったか不安になるほどに。
(でも……わたしは、記したい)
(彼の咎でもなく、自分の咎でもなく──本当に、ここに、在ったものを)
(神の問いへの"答え"ではなくとも)
記録がすべてではないことだけは、きっと確かだ。
記されなくても、残るものがある。
たとえ、また消されるのだとしても。
たとえ、"いなかったこと"にされてしまうとしても。
わたしは、この世界にいた。確かに、誰かを想って、心を動かしていた。
──彼が、本当の名前を呼んでくれたから。
そのたったひとつの声が、この胸の奥に、"わたしが生きている"という実感を残していた。
だからわたしは、もう一度ペンを取る。
咎として咲きかけた、あの夜の記憶。
言葉にならなかった痛みと、それでも愛しかったぬくもり。
まだ名前にはできない想い。でも、確かに在った感情。
それを、そっと書き留めた。
『今夜、私は本当の名前を呼ばれた
それは、咎の声だったかもしれない
でも、愛の声でもあった
記録にはならない。でも、確かに咲いた
私という花が』
ペンを置くと、インクの染みが、ゆっくりと紙に広がった。
……けれどその染みが、わずかに滲みすぎて見えたのは、ただの気のせいだろうか。
それとも、"記してはいけない何か"がまた、静かに頁の奥へ沈もうとしていたのか──
(また、消えてしまうかもしれない)
(……それでも、いい)
(それでも──)
たとえ記録が拒んでも、咲いた。わたしの胸の奥で。
たったひとつの名を、抱いたまま。
―――
そのとき、窓の外から微かな足音が聞こえた。
夜更けの修道院に、誰かがいる。
私は記録帳を閉じて、そっと窓辺に近づいた。
月光の下に、一つの影があった。
立ち去ろうとして、立ち去れずにいるような。
(……グラヴィオ?)
彼は、まだ帰っていなかったのか。それとも、戻ってきたのか。
私は窓を開けようとして──手を止めた。
(どうして? なぜまだ?)
でも、答えはわかっていた。私と同じように、彼も決められずにいるのだ。
この想いを、どうすればいいのか。
咎として受け入れるのか、愛として育てるのか。
記録帳を抱いたまま、私は静かに考え続けた。
長い、長い夜だった。
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




