【本編】第30話:名と咎のあいだ
怒りと涙のあとに残ったのは、自分でも持て余すような感情のかたまりだった。
(……名前を、呼ばれたとき)
(わたしが、本当に欲しかったものは──きっと、それだったんだ)
言葉ではなく、記録でもない。
誰にも呼ばれず、誰にも思い出されなかったわたしが、ただひとりの声で、たしかにこの世界に"いた"と証明されること。
それだけで、胸の奥が、どうしようもなく苦しかった。そして、悔しいくらいに、嬉しかった。
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「……あなたを、憎めたらよかったのに」
「そうしたら、こんなふうに苦しまなくて済んだのに」
声が途切れる。
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「でも……本当のわたしを、見つけてくれたのが、あなたで」
「それが、どうしようもなく、嬉しかったの」
唇が震えた。涙に濡れた頬で笑ってしまいそうな自分が、いちばん悔しかった。
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「……咎にされたはずなのに」
「……どうして、こんな気持ちになるの……?」
「わたし……どうしたら、いいの……?」
その問いに、グラヴィオは何も言わなかった。
ただ、視線を落とし、ひとつ息をのんだ。
彼の手が、そっと持ち上がる。
けれど、わたしの頬に触れる直前で──その手は止まり、そっと下ろされた。
触れてしまえば、すべてが壊れてしまう気がした。
あるいは──すべてを赦してしまいそうで。
沈黙のなか、彼は静かに言葉を落とす。
【グラヴィオ】
「……私は、記録官には戻れません」
「あなたを記そうとしたとき、気づいたんです」
「それは、"咎を定める筆"になるのだと」
彼の声が、ただの説明ではなく、懺悔になっていく。
【グラヴィオ】
「"名を与える"ということは、存在を肯定すること」
「でもこの世界では、それは"記録"と同義であり、"裁き"でもある」
「だから私は、記せませんでした」
琥珀色の彼の瞳が揺れる。
【グラヴィオ】
「あなたが咲こうとするのを、ただ……見ていました」
「それが、一番美しいと思ってしまった」
「私だけが知る、あなたの存在が──」
一瞬、目を伏せる。その瞳の奥にあるのは、罪悪感ではなかった。
それは、どうしようもなく静かな、愛しさの形だった。
【グラヴィオ】
「……でも本当は、ただ怖かった」
「この想いに名前をつけたら、筆が持てなくなると思った」
「あなたに触れたら、もう詩も、沈黙も──すべてが崩れてしまうと」
私は、胸の奥を掴まれたように黙っていた。けれど、言葉が浮かんできた。
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「……それでも、わたしは──記されたいと思ってた」
「誰かに、わたしを呼んでほしかった」
「……この痛みごと、誰かに知ってほしかったの」
涙がひとしずく、胸元に落ちた。
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「でも……あなたが私の名前を呼んでくれた」
「それだけで……それだけで……」
言葉にならなかった。でも、彼には伝わったと思う。
その夜。名前と咎のあいだで揺れた想いは、まだどこにも記されないまま残されていた。 でも、確かに在った。ふたりの間に、咲いた花のように。
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




