【本編】第29話:閉ざされた扉
詩を渡された、あの夜から──いくつかの日が、静かに過ぎていた。
月影亭は完全に閉鎖され、彼の消息は断たれた。
その事実が、私の中にも、ひとつの沈黙を落としていた。
詩は、まだ読めていない。──家門について綴られていた、あの一篇を除いては。
夜になるたび胸の奥がざわついて、記録帳すら開くことができなかった。
問いも、感情も、何もかもが、宙ぶらりんのまま。
(……この沈黙が、いちばんつらい)
日が暮れて祈りを終え、静かな時間が流れていた。
修道院の回廊に、長い影がさしている。
ふと立ち止まって顔を上げると──そこに、彼がいた。
(……グラヴィオ)
(どうして……ここに)
(解放……されたの?)
(わたしが、彼の咎を記していないから?)
彼は何も持たず、ただ、そこに立っていた。
けれど、その足取りは目的のないものには見えなかった。
まるで、会いたくて来たのに、会ってしまったことを後悔しているような──そんな眼差しで、私を見ていた。
【グラヴィオ】
「……本当に、ここにいらしたのですね」
月明かりの下、痩せた頬にだけ、夜の影が残っていた。
(……あなたが"来た"のに、その言い方はずるい)
(わたしはずっと、ここにいたのに)
【アメリア】
「ええ。修道院にいます。……ずっと」
彼は目を伏せた。まるで、その事実が、どこか痛むかのように。
風が吹き抜け、石柱の隙間を抜けるたび、回廊の空気が揺れる。
(あの夜、渡された詩の束)
(まだ、全部は読めていない。でも……)
(一篇だけで、すべてがわかってしまった)
【グラヴィオ】
「……あの詩の束、すべては──まだ、読めていませんね?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。
(なぜ、それを聞くの)
(読まれたくないの? それとも……読んでほしいの?)
【アメリア】
「……はい。少しだけ。でも……それ以上が、怖くて」
それは、本音だった。でも、嘘でもあった。
本当は──一篇だけで、もう、すべてを理解してしまったから。
【グラヴィオ】
「それで構いません。……読む時が来たら、それで」
私は頷けなかった。言葉も、動きも、どこかで止まっていた。
(なんで、今さら来たの)
(言わなくても、わかってる。……でも、それでも、言ってほしかった)
【アメリア】
「……"返す言葉もない"って、そういう意味なんですね」
彼は苦笑のようにわずかに表情をゆがめた。
でも、そのまま、そっと背を向けた。
(……何も言わずに帰ろうとするつもり?)
(……そんなの、あんまりよ)
柱の影に溶けていくその背中に、私は声を投げかけていた。
【アメリア】
「……待って」
足音が止まる。
(咲かないって決めてた)
(何も言わずに見送るはずだったのに)
(でも──もう、無理)
【アメリア】
「来て、何も言わずに……帰ろうとして」
「そんなの、ずるいじゃないですか」
【グラヴィオ】
「……こんなはずじゃなかった。けれど……気づけば、あなたを探していた」
「姿が見えなくても、心があなたを捉えてしまう」
「……どうしてなのか、自分でも……わからないのに」
その言葉に、胸の中で何かが弾けた。
【アメリア】
「わからない? 本当に、そう思うの?」
声が震えていた。でも、もう止められなかった。
【アメリア】
「わたしは、生きているかもしれないのに、記録の中で殺された」
「確かめもせずに、死んだことにされた」
「家は咎として記されて──その中に、わたしの名前だけがなかった」
(それが、どうしようもなく苦しかった)
【アメリア】
「誰にも呼ばれず、誰にも見つけてもらえなかった」
「"誰でもないわたし"を、記録の外に置いたのは……あなたよ」
怒鳴った瞬間、グラヴィオの表情がこわばった。
眉間に皺が寄り、唇がわずかに震える。
【アメリア】
「全部……全部、あなたのせいじゃない!」
「でも……あなたの苦しみが、わたしの痛みより深いような顔をしてる」
「……そんなの、許せるわけないのに」
深く、冷たい沈黙。でもその中で、彼の声が届いた。
【グラヴィオ】
「……リア」
ただ、それだけだった。
それでも、その名前は──世界でいちばん、重かった。
(……ほんとうの名前を、呼ばれた)
(消されたはずの"わたし"が、そこにいる)
その瞬間、涙があふれた。
怒りも、悲しみも、すべてが一気にこみ上げてきた。
でも、何より強かったのは──喜びだった。
(赦せないのに、赦されたいと思ってしまう)
(……そんな自分が、いちばん悔しい)
(でも、いちばん……リアと呼ばれた今の私が、たしかに"咲いた"と感じてしまった)
【リア・ジェンシア(アメリア)】
「……ひどい」
「こんなふうに、名前を呼ぶなんて」
「わたしを消しておいて……今さら……」
「……それでも、嬉しかった」
それ以上は言えなかった。彼の瞳の奥に、同じ痛みがあったから。
私は、ただ立ち尽くしていた。
記録帳を抱きしめながら、咲いてしまった想いを、胸の奥で必死に押しとどめながら──
でも、もう遅かった。彼の声で、わたしの名前が咲いた。
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




