【本編】第24話:沈められた蕾へ※グラヴィオ視点
彼女は、もう気づいている。
朝の月影亭は、夜の余韻を引きずるように静まり返っていた。
昨夜も結局、真実を告げることができなかった。
机の上の詩稿の束——渡せなかった言葉たち。
私はその束の中から、一枚のざらついた紙に指を滑らせた。
少し色褪せた、古い詩。
『沈められた蕾へ』
書き出しの行が、朝の光に浮かび上がる。
「家門は、嵐に散らされた」
「死の中に記した」
その言葉の跡をなぞる指先に、記憶が滲む。
(あれは──十三年前の、秋の夜だった)
神殿の記録帳に、私は"死"を書いた。名を伏せられた少女の、存在ごと。
「全員が処された」──それが、唯一記された言葉。
(赦しだった、と自分に言い聞かせていた)
(あれが、せめてもの温情だったのだと)
でも、違う。本当は、恐れていた。
あの子が生きていると知った瞬間、この手が運命を定めてしまうことを。
記録する者としての責任から、逃げたのだ。
言葉を覚え始めたばかりの、幼い蕾。
ジェンシアの記録室で、大人たちの背後からちらりと覗いた、あの視線。
誰も気づかなかったはずのその一瞬を──私は、見てしまった。
あの時、誰かが囁いた声がある。
「……咎人の娘と記せば、裁きは下る。記さねば、すべてが沈む。
それでも──どちらかを選ぶ覚悟は、君にあるのかい?」
それは、神の声のようでもあり、悪魔の誘いのようでもあった。
私はその言葉を、信じた。救いだと信じ込もうとした。
(けれどあれは、ただの抹消だった)
(守ったつもりで、彼女からすべてを奪っていた)
そして今、彼女は"アメリア"という名で、私の前にいる。
昨日の彼女の目には、ためらいのない意志が宿っていた。
(……私の咎を、知ろうとしていた)
次に彼女がここを訪れたとき、もう逃れられないだろう。
この詩を読んだなら、あの夜の沈黙を、私の罪を──彼女は知ってしまう。
そしてきっと、記すだろう。この私を、"罪人"として。
(……それで終わるのなら、それでもいい)
それでも私は、どこかで願ってしまっている。
彼女の手が、咎ではなく、赦しを記すことを。
そんな身勝手を、心の底から捨てきれないまま。
私は詩の束をそっと閉じた。
言葉よりも先に、告げなければならない。詩ではなく、自分自身の声で。
「……あなたが記す前に、私が語らなければならない」
「詩人ではなく、かつて記録官だった私の言葉として」
窓辺に微かに残る香りに、昨夜の彼女の気配を感じた。
それは記録されていない、ただの痕跡。
けれど、それだけで十分に痛むほどに、深く残っていた。
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




