【本編】第23話:酔いと詩の夜
その夜の月影亭は、かつての喧騒が嘘のように静まり返っていた。
扉をそっと押し開けると、控えめな灯りとワインの香りが漂ってくる。
(……人が少ない)
奥のソファに、グラヴィオの姿があった。
グラスを手に、ゆるやかに身を預ける彼は、どこか遠くを見つめているようだった。
【グラヴィオ】
「……来てくれたのですね」
琥珀色の液体が、彼の瞳に重なって揺れていた。
(……少し、酔ってる?)
私は静かに彼の向かいに腰を下ろす。
【アメリア】
「こんばんは。今日は、詩人らしい夜ですね」
【グラヴィオ】
「詩人は、言葉に酔って生きているようなものです」
「……時に、それが救いにもなる」
彼の声は、どこかふわりと空気に溶けていった。
【グラヴィオ】
「咲かないままの蕾には、蕾なりの意味があるのかもしれません」
【アメリア】
「……それは、どういう意味ですか?」
【グラヴィオ】
「咲いた花は、見られて、語られて、終わってしまう」
「でも……咲かなければ、心の中で生き続けることができる」
(それは──)
まるで、私たち自身のことを語るようで。
【グラヴィオ】
「咎を孕んだ花でも、咲いてしまえば美しいと言われる」
「そう言われたくないから、咲かせない。……そんな詩も、あります」
その語りは懺悔のようにも聞こえた。
【アメリア】
「それでも、誰かに見てほしいと思ったことは?」
【グラヴィオ】
「見せたいわけじゃない。……ただ、抑えきれないんです」
「感情が、形を求めてしまう。詩は、その抜け道のようなもので」
彼の目が揺れていた。
【グラヴィオ】
「あなたのような人が現れると、詩人は困るんです」
「言葉が、本音になってしまうから」
グラスを持つ手がかすかに傾き、私は咄嗟にその腕を支えた。
触れた指先の温度が、深く肌に残る。
(……近いのに、遠い)
彼は静かに姿勢を戻し、視線を逸らした。
【グラヴィオ】
「……詩に酔いすぎたかもしれません」
「あなたの前では、抑えていたものが溢れてしまいそうで」
「……詩は、ときに罪よりも残酷なんです」
短い沈黙のあと、彼は目を伏せたまま言った。
【グラヴィオ】
「……今日は、帰ったほうがいいと思います」
静かだけれど、はっきりとした拒絶。私も、それ以上は踏み込まなかった。
【アメリア】
「……ええ、そうですね」
【グラヴィオ】
「あなたがいる夜は、不思議と詩が浮かぶ」
「でも……あなたに、咎を背負わせたくはない」
その言葉を残して、彼は立ち上がった。
背を向けたその背中は、不器用なほどにまっすぐだった。
彼の胸に去来していたものが、悔いなのか、それとも――。
ただ私は、その夜に残された余韻の中で立ち尽くしていた。
(……わたしも、少しだけ酔っていたのかもしれない)
(彼が何かを隠していることに気づきながら、それでも)
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




