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【本編】第21話:形見の重み

「本日休業」

月影亭の扉に、札がかかっていた。


(……やっぱり、帰ろう)


母の形見である羽根ペンを返してもらいに来たのに。

今は、誰にも会いたくなかった。


(私が、記したから……)


あの夜、連れていかれた詩人の姿が焼きついている。

記録が原因かは分からない。でも、"あること"を記したのは事実だった。

踵を返しかけた時、声がかかった。


【使用人】

「お探しの物、お預かりしております。……どうぞ、裏から」


案内されたのは、いつもの華やかなサロンではなく、控えの部屋。

そこには少数の常連客と、グラヴィオの姿。詩の朗読が静かに続いていた。


(……責められないのが、いちばんつらい)


展示台には、見覚えのある詩があった。


―――

名を呼ばれぬまま消えるくらいなら

あなたに見つけられて終わりたかった

―――


(……あの詩人の)


【常連A】

「……分かるよ。誰にも知られないまま、死ぬのも怖いんだ」


【常連B】

「結婚も、籍も、遺すものすらない」


【常連C】

「"いなかったこと"になってるから、罰すら受けられない」


(わたしも……そうだった)


記されたいと願ったこと。

けれど、名前を持つことの危うさも、記されない苦しみも知っている。


(本当は、わたしにも名前があった。呼ばれたい名前が)


そのとき、グラヴィオが歩み寄ってきた。手にあるのは、銀の羽根ペン。


【グラヴィオ】

「……これを。あなたが忘れていったものです」


(……!)


家門の意匠が刻まれた、大切な形見。私は手を伸ばす。だが彼は少しだけ、その手を留めた。


【グラヴィオ】

「……この意匠を見た時、分かりました。青い花の家門の……生き残り」


(やっぱり、気づいてた)


【グラヴィオ】

「……あなたは、記されたいと思っていたのでしょうか? 

名を呼ばれたい、見つけられたい。

それが、罪になるとしても――それでも」


私は答えられなかった。ただ、ペンをしっかりと握っていた。


【グラヴィオ】

「私は、詩で彼らの痛みを描いてきたつもりでした。

記さないことで、存在を守れると。

……でもそれは、見て見ぬふりだったのかもしれません」


彼の声は震えていた。

昨日まで見せたことのない痛みが、その顔に浮かんでいた。


(この人は……どこまで知っているの?)

(わたしの家族のこと? あの夜のこと?)


私は詩の紙片を見つめる。

『名を呼ばれぬまま消えるくらいなら、

 あなたに見つけられて終わりたかった』


(わたしも、そうだったかもしれない)


その願いは、誰かの人生を、たしかに動かしてしまう。


(記すということは、その重さを引き受けることなんだ)


母から受け継いだ羽根ペン。

その銀の重みが、胸の奥に沈んでいく。


(この羽根ペンで私は記録官として働いている。

でも、記している私は記録に存在しない)

(それでも……)

(いつか、この名前で、生きる日が来るのだろうか)


私は羽根ペンを鞄にしまい、静かに立ち上がった。


部屋に戻ってから、机に向かう。

羽根ペンを取り出し、頁をめくる。

一度だけ、そっと書いてみた。


「わたしは──」


けれど、その言葉の先が続かなかった。

ペンを置き、静かに記録帳を閉じた。


(まだ、これ以上は)


それでも、もう引き返すことはできないと感じていた──

※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。

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