【本編】第10話:選択の前で
翌日、修道院の一室。
月明かりが差し込む机に、記録帳を広げたまま、私はただ座っていた。
──ノックの音。扉の向こうから、低くやわらかな声が届く。
【エルノア】
「アメリア。少し、いいだろうか」
私は慌てて記録帳を閉じ、椅子から立ち上がった。
扉を開けると、月を背にしたエルノアの姿。
いつもと変わらない穏やかさの奥に、心配の色が宿っていた。
【エルノア】
「夜の外出が続いているようだな……"月影亭"、という場所だったか」
【アメリア】
「はい。任務として……文化人の動向を」
【エルノア】
「知っている」
「けれど、どんなに任務であっても……心は、影響を受ける」
言葉は淡々としていた。けれど、含まれた温度は、温かかった。
【エルノア】
「君は今……誰かに、見つけられているのだろう」
「それを、まだ名前にしなくてもいい。ただ……心の奥で、もう気づいているはずだ」
(見つけられた)
グラヴィオの瞳と声が、思い出のように胸をよぎる。
【エルノア】
「"アメリア"としてここにいることは、守るためだった」
「記されなければ、神の目から逃れられる」
「この修道院も……そのための、静かな場所だった」
【エルノア】
「けれど……人の心は、閉じたままではいられない」
「誰かに触れ、名もないまま、咲こうとしてしまう」
【アメリア】
「それは、いけないことなのでしょうか」
【エルノア】
「咎ではない。ただ……それは、危うさと隣り合っている」
「名を与えられ、誰かの記録に載った瞬間──君の正体もまた、照らされる」 「その時、修道院の祈りも、私の手も…きっと届かなくなる」
月の光が、エルノアの顔に影を落としていた。
【エルノア】
「私は、君が再び危険にさらされることを望んでいない」
「記されないまま生きていてほしいと……そう願っている」
長い沈黙があった。
【エルノア】
「だが、それは私の願いだ。君の望みとは、違うのかもしれない」
【アメリア】
「私は……分からないんです」
【エルノア】
「今は分からなくていい。ただ、いつかは選ばねばならない」
「名を隠したまま生きるか──記される覚悟とともに、咲くか」
【エルノア】
「私はどちらでも、君を祈り続ける」
「けれど……咲くことを選ぶなら」
「君が最も、君でいられる場所で……その人の隣で、咲いてほしい」
その言葉が、胸に深く響いた。
―――
月が高く昇っていた。
けれど、胸の中にはまだ、夜の続きを引きずるような波があった。
(記されるということは、危険を受け入れること)
(でも、あの人の隣にいると、時々忘れてしまいそうになる)
(この感情に、名をつけてはいけないのだと)
それでも。
私は、ゆっくりと記録帳を開いた。
今度は、白い頁を恐れなかった。そして、震える手で、小さく書き始めた。
『私のこの想いに、名前はつけられない。
でも、確かにここにある。
記されなくても、消えないもの──』
(名前じゃない)
(名前を書いてしまえば、すべてが終わる)
(でも、この想いだけは……記したい)
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




