【本編】第5話:甘い記憶の残り香
『咎の上に咲く花』
名前を奪われたヒロインと、記録に囚われた人々の物語。
女性主人公 × 恋愛要素あり × 感情と記録をめぐる構造劇。
「記されること」とは何か。「赦し」とは何か。
咎と祈り、そして“記録されなかったもの”に向き合う物語を、
ノベルゲーム形式で制作中です。
(少しだけ、なら。目立たないはず)
広間の隅にあった、灯りの届きにくい机。
椅子に腰かけて、記録帳を開く。
(もう“任務”は終わっている)
だけど、記したいと思ってしまった。
花弁の香り。月明かり。そして彼の言葉──
それらすべてを、咎かもしれないと知りながら、インク壺にペン先を浸した。
あの声の余韻が、手の動きを曇らせていた。
彼の言葉が、頭の中で響く。
(記録は"正しさ"を刻むもの。詩は"美しさ"に溺れるもの)
あの言葉は、ほんとうのことなのだろうか。
それとも……ただの、諦めみたいなもの?
紙の上に触れたままのペン先が、かすかに震える。
視線が、自然と彼を追っていた。静かに人々のあいだを抜けていく影のような姿。──ふいに。視界の端に、赤の残響のような揺らぎがよぎった。
空気が、すこしだけ甘く変わった気がした。
(……まさか)
顔を上げる。すぐそばに、彼がいた。
【グラヴィオ】
「これを」
ふいに現れた気配。声の音色は、熱を帯びた呼気のように短く、静かだった。差し出されたカップから、あたたかな香りが立ちのぼる。
(ホットチョコレート?)
修道院では一度も口にしたことのないもの。けれど──
(知ってる、この香り)
ふいに胸の奥が、静かにざわめいた。
遠い記憶。寒い夜の母の手。
【アメリア】
「……ありがとうございます」
やっと絞り出した声が、少し掠れていた。
グラヴィオは、何も言わず、ただ目を細めた。その視線には、やわらかくも、どこか壊れかけたものを見るような寂しさがあった。
目を伏せたまま、一口だけ口に含む。
甘くて、少しだけ苦い味が、舌から喉へ、そして胸の奥へと染みこんでいく。
(……忘れたと思ってたのに)
この味は、私が"まだわたしだった"頃のもの。名前があって、温もりがあって、ただ、そこにいることが許されていた日々。
少しだけ記憶に浸ったあと、私は、少しだけ視線を上げた。
【アメリア】
「この場所、お好きなんですね」
問いかけると、グラヴィオは少しだけ目を伏せた。
【グラヴィオ】
「……ここは、誰に名を問われることもない場所です。
それだけでも、救われる夜があるんです」
短い言葉。けれど、その奥に、祈りと孤独が滲んでいた。
(名を問われない……)
私は、カップを両手で包み込む。その温度だけが、今の私を支えていた。
【グラヴィオ】
「あなたも……名前を隠して、生きているのでしょう?」
静かな問いかけ。けれど、それは責めるためのものではなかった。
【アメリア】
「……どうして、そう思うんですか?」
【グラヴィオ】
「記されなかった者は、時に花より強い匂いを放つ」
「……あなたも、その香りを纏っている」
その言葉に、胸が小さく震えた。
(記されなかった者……)
ふと、グラヴィオが視線を向けてくる。
【グラヴィオ】
「……また、来るといい。詩は、ひとりで読むより、誰かと分かち合った方が、美しいから」
それは、とても自然な口調だった。けれど──胸の奥に灯るような、言葉だった。私は、そっと微笑んだ。
【アメリア】
「……はい」
その答えと一緒に、何か小さなものが、胸の奥で芽吹く気がした。
──その夜。私は、修道院への帰り道をひとり歩いていた。
手に残る、かすかな甘さ。胸に残る、あたたかいざわめき。
(あの人のそばなら、少しだけ、わたしのままでいられる気がする)
(……もう、知らなかった頃には、戻れない)
夜風が、髪を揺らす。私は、静かに目を伏せた。
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。




