【序章】共通1話:記されぬ名
『咎の上に咲く花』
この物語は、「罪とは」「赦しとは」「記録とは何か」を問う、
恋愛×ファンタジー×構造ミステリ。
乙女ゲーム形式のマルチルート構成で、
主人公は6人の登場人物と出会い、
それぞれの“咎”と“記録”に向き合っていきます。
最後には、全ての真実が収束する“構造の中枢”に至ります。
石造りの回廊に、私の革靴の音が静かに響いていた。
(今日で、すべてが変わる)
修道院に差し込む朝の光が、やけに眩しく感じた。部屋の扉の前に立つと、鼓動がひとつ、大きく跳ねる。
(大丈夫。私が、選んだこと)
手に持った羽根ペン──記録官見習いとして学んできた証を、そっと握りしめて扉をノックした。
リンドウの意匠が刻まれた銀の柄。
母が残してくれた、ただひとつの記憶。
幼い記憶の中で、あの人がそっと手渡してくれた時の言葉が蘇る。
「言葉には力がある。真実を残す者になりなさい」
微笑んだ横顔。けれど、その人の名前も、私の本当の名前も──すべて記録から消された。
(あの頃のことは……ほとんど、残っていない)
(でも、これだけは、ずっと手の中にあった)
家族と、私を繋いでくれる、唯一のもの。
【アメリア】
「失礼します」
院長室の空気は、いつもよりわずかに重たかった。机の上には、封筒と神殿の印が押された公文書が広げられている。
【エルノア】
「来たのか」
声音は穏やかだった。けれど、その奥には、揺るがぬ何かが潜んでいる。
【エルノア】
「神殿より──王政経由で、記録官の派遣要請が届いた。修道院の名で受けるべき務めだが……」
【エルノア】
「修道院は、古い王政の認可の名の下に、今もこうして務めを果たしている。
だが、その存在自体が常に薄氷の上だと、知っているだろう」
私は記録官見習い。
それでも、手にした羽根ペンには、消せない想いがある。
(お母様……あなたなら、どうしていた?)
【アメリア】
「行かせてください。私の手で、記したいんです」
【アメリア】
「もしかしたら、王都で……家族のことがわかるかもしれない。なぜあの人たちが消されたのか」
一瞬、胸の奥が熱を帯びる。
(怖い。でも、知りたい)
(このまま何も知らずにいるのは、もう嫌だ)
【エルノア】
「それを、本当に記すために使う日が来たんだな」
私は黙ってうなずいた。それが、答えだった。
【アメリア】
「母が、くれたものです。名前も、すべてを失う前に」
エルノアの目が細められる。私には読み取れない何かを、静かに思い返しているようだった。
【エルノア】
「名を継がなかったのは、正しかったのだろう。だが、名を隠しても、咲く花までは隠せない」
【エルノア】
「王都は、見た目ほど安全ではない。それでも、記すというのなら、私は止めない」
その声には、判断でも命令でもなく、ただ静かな了承があった。私は静かに礼をして、扉へと向かう。
(私は、アメリア。けれど、その名前さえ、私が選んだものではない)
(本当の名前も、本当の過去も──すべて、取り上げられた)
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。残された静けさの中で、エルノアは低く、ゆっくりと告げる。
【エルノア】
「アメリア。ひとつだけ、覚えておいてほしい」
「君が誰かを記すとしても、どうか、君自身が"記されること"の意味を見失わぬように」
修道院の門を出た瞬間、空気が変わった気がした。
馬車のそばで、御者が無言で控えている。
(……寒い)
背筋にひやりとしたものが走る。 まるで誰かに“見られている”ような──
振り返る。けれど、そこには誰もいない。
(気のせい……だよね)
馬車に乗り込むと、扉が静かに閉まる。
揺れる革張りの座席に身を沈めながら、羽根ペンを強く握りしめた。
記録帳は、まだ白紙のまま。
(でも、きっと──すぐに何かが始まる)
※本作は架空世界の記録制度を主題とした恋愛劇です。実在の宗教・政治とは関係ありません。