一歩目 彌彦にいる貴女と
「お~~い!」
また、この声だ。
最近、毎日のように聞こえてくるこの声。
「はいはい……。」
私は、その声が聞こえてくる方向へ振り返った。和服に身を包んだ、黒髪の少女。
その子が目に入った。
「ねぇねぇ、聞いてよ。今日はね……。」
少女が言った。彼女はいつもこうだ。すぐに自分の世界に入ってしまう。付き合わされるのは決まって毎回私。
「あのね、毎日来てるけど……。」
新潟のとある地に、一人の活発な少女がいた。少女の家は遠いにも関わらず、いつも、私の元に遊びに来ていた。そして、一日中私の傍で話すのが決まりだった。会う場所は変わっても、二人の距離は変わらない。ずっと、隣で肩を並べて話していた。
「あなた、護り神なんでしょ? 役目を果たさないと。大体、神社の管理や神事だって、後回しにしてるんじゃないの。」
私がそう聞くと、彼女はすぐに否定した。
「そんなことないってば! しっかりとやってるよ。私の所は大きくないし、神事だって、そんなにたくさんやらないし。」
本当に……?
「だとしても、日頃から備えておかないと。あなたの“力”だって、こんなことのためにあるわけじゃないでしょ。」
「それは、そうだけど……。」
正しいことを言ったのは、私なはずだ。少女はしどろもどろになって、私の目をチラチラと見つめてきた。分かりづらいが……彼女なりの、ごめんの合図だ。
「……私も悪かったよ。でも、いつでも役目は果たせるようにね。神社の管理だって、神事の準備だって。全部、おろそかにしないように。」
私がそう諫めてやると、少女は寂しそうに言った。
「はい……。」
言うのはこのくらいにしておこう。これ以上言えば、彼女だって可哀想だ。
越後平野に春が芽吹いていた季節のことである。新しい春が姿を現し、もうすぐ新潟は忙しい季節に入る。そのために、人々はせわしく動いている。
極寒の冬を越し、春が訪れたのだ。直に田植えの時期になる。この時期になれば、暫くは安心だ。
「元気~~?」
大きく手を振って駆け寄ってきたのは、またあの少女だった。
「また来た……。今は忙しいんじゃないの?」
「いいのいいの。気にしない!」
それで困るのは、一体誰であろうか。
全く、仕方の無い子だ。
「それで、今日は何?」
「見せたいものがあるの。今度は私の所に来てよ。」
「え~……。」
この子は少々元気すぎる。私には不釣り合いなくらいに。
「たまにはこっちにも来てよ! 見せたい景色も、ものもいっぱいあるの!」
しかし、なんと言っても彼女の家は遠い。ゆっくりと歩けば、四時間はかかる。
「でも、あなたの家って遠いでしょう……?」
「でもでも、見せたいものだってあるんだよ!」
歩いて四時間。実に困る。もちろん歩けないというわけではないが、帰るのだって大変だ。そもそも、彼女が毎日のようにこの道を来ているのがおかしいのだ。
「お願い!」
少女は両手を合わせて私にねだってきた。
「えぇ……。」
嫌だ、とここで断ったら? でも、彼女が話し相手になっているのは、最近悪い気もしなくなってきたし。彼女がそこまで言うのなら、相当何かがあるのだろう。……仕方が無い。
「分かったよ……。でも今日じゃなくて、また今度ね。」
「やった~!」
彼女は飛び上がって、全身で喜びを表している。そこまで喜んで貰えるなら、行っても良い気がしてきた。
「詳しくはお楽しみなんだけどね、見せたい景色があって。お花が綺麗なんだよ!」
「へぇ。」
彼女は楽しそうに話している。もう言っているよ。なんて事は言わないでおく。
そんなに楽しみだと言われると、少し気になってきた。一体、どんな景色なのだろうか。
「という訳で、お邪魔しま~す!」
少女は万遍の笑みを浮かべている。元気すぎる声で、私の家に入ってきた。
行こうとは言った。しかし、家に泊めるとは言っていない。
「どうしてこんなことに……。」
と、思わず心の声を漏らしていると、少女は鞄に詰められた一泊分の荷物を置きながら私へ言った。
「だって、歩いたら時間かかるし。一人は寂しいでしょ。それに、早く家を出たいし。」
「だからってわざわざ来なくても……。」
そもそも、あなたはいつも一人で来ているじゃないか。何が寂しいだ。
「良いじゃない! 私もお泊まりしてみたかったし。」
「そういう問題じゃなくてね。」
別に私は乗り気ではない。確かに最初だけは楽しみだったが、時が経つと共にやる気も無くなってしまった。でも断る気はさらさら無い。口では嫌だと言いつつも、案外、この振り回される状況を楽しんでいる自分もいるのかもしれない。
その日は簡単に食事を作ってやって、それを食べさせた。
「美味しいね。」
なんて言って、少女は笑っている。私としても、手作りの料理を褒めてもらえたのは嬉しい限りだ。悪い気はしない。
「それで、どこへ行くの?」
聞いてみる。
「え、聞きたい?」
彼女はじっと目を見つめてくる。
「う、うん。」
じっと目を見られたのは初めてだ。恥ずかしいというかなんというか。私は目を逸らしつつそう答えた。
「秘密秘密!」
気になる? とか聞いといて、結局秘密なのかよ。なんて突っ込みたくなるが、まぁ、そんなことは良い。
「明日は早いんでしょ。早くお風呂に行って、早く寝よう。」
私がそう言って食器を片付けようとすると、少女はあからさまに残念そうにして言った。
「もう寝るの!? 早いよ~。」
「まずはお風呂。ほら、お風呂行く準備しよう。」
明日が早いなら、早めに寝るのは当たり前だ。そもそも彼女は「護り神」。自分の神社にもおらず、ましてや自分の土地をほったらかすのはあまりにも危険すぎる。
いつ何時、何処に「奴」が現れるかも分からないのに。
二人で食事を済ませ、近くの温泉に行く準備に取りかかった。
家の近くにある温泉は、昔からの老舗の宿。
街の景色が見える温泉は、疲れを癒やすには最適だ。
「ここが温泉!」
少女は無邪気にはしゃいでいる。
「こら、騒がないの。」
「誰かと温泉に入るの初めてだよ。嬉しい!」
彼女の境遇には思いやられる。いや、私も同じようではあるのだが。
……それに、護り神の仕事も全然していないように見受けられるし。
「それじゃ、入ろう。」
私たちは体を洗った後、温泉に浸かった。
「いい湯だね~。」
少女が言った。
「まぁね。」
露天風呂だった。その日の空は晴れていて、夜空が見えた。星々が煌めき、こちらを見ている。
「ところで、こっちに来て良かったの? あなたは護り神。役目があるって前にも……」
「大丈夫。」
先ほどまで遠い彼方を見つめていた彼女は、私の方を向いて言葉を遮った。
「……少し真面目すぎるよ。肩の力を抜いて、もっと気楽に生きなきゃ。」
「そういう話をしているわけじゃ……。」
私はそう言ってこの会話を打ち切ったつもりだったが、構わず彼女は続けた。
「今を楽しまないと。役目だ役目だって言われても、心が壊れちゃうだけだよ。私に課せられたことは分かってる。それでもね。護り神は物じゃない。そして、完全に神格化されたものでもない。意志があって、命があって。だからね。」
彼女はもう一度、夜空を見た。目を瞑り、感傷に浸るようにしながら、静かに言った。
「自分の好きなように生きて、良いんだよ。縛られすぎずに生きて、良いの。」
しばしの沈黙が流れた。
私はその間、驚きのあまり硬直していた。彼女なりに、自分という存在についてずっと考えていたのか。ず~っとぼけっとしていたような彼女からそんな言葉が出てくるとは。そうは思わなかった。
そこからは、何も言えなかった。彼女はちゃぷちゃぷとお湯を叩いてはしゃいでいる。
静寂を切り裂いたのは彼女だった。
「気持ちが良いね!」
「う、うん……。」
思えば、今まで彼女に言っていたのは、ずっと護り神としての責任や心構えについてのこと。私の思う「護り神」とは、与えられた役割を、なんとしてでも果たすものだと思っていた。そのためなら、たとえ命に代えてでも。でもそれは、私の中での思いを彼女に押しつけていたに過ぎない。それは彼女の中でどれだけ迷惑で、どれだけ苦しかったのだろう。
人格を否定するようなものかもしれない。存在を否定するようなものだったかもしれない。
「ごめんね。今まで……色々言っちゃって。」
素直に謝った方が良いと思い、私は言った。
「良いよ。別に、その意見だって間違ってはないし。ただ、私の考え方は少し違っただけだよ。でもね。私は、護り神は本来、人と同じべきであると思うの。」
「そう、だね……。」
また、気まずい空気が流れた。
「そろそろ、上がろっか。」
「……うん。」
服を着て、髪を乾かして……。それからは、少女はまたいつもの調子に戻った。
「ここ、お食事も出来るの!? 凄いね!」
彼女はずっと、一人ではしゃいでいる。
「ちょっと待ってよ。」
楽しむのは良い。しかし、置いていかれるのは困る。私のことには目もくれずに走って行く少女を、私は駆け足で追った。
「早いってば……。」
「ごめんごめん、楽しくて。」
何とか追いついた。横に並んで、館内を巡る。
「ちょっとゆっくりしよ~。」
「うん、そうしよっか。」
広間に移動して、少しだけ休むことにした。
「温泉って良いね、また入ろうよ!」
「……まぁ、余裕があったらね。これからは忙しいし、暫くは無理だよ。」
「うぅん……。」
彼女は本当に残念そうにしている。もう少しこの感傷に浸っても良いが、ゆっくりし過ぎるとまた身体が冷えてしまう。早めに帰った方が良い。
「さ、帰ろっか。湯冷めしない内に。」
「もう? 早いよ~……。まぁ、良いけど。」
少女は頬を膨らませ、不服そうだった。
冬を越えたとはいえ、やはり夜は冷え込む。「寒いね」なんて話しながら、私たちは小走りして帰った。
家に帰ると、私は彼女の布団を敷いてやり、私はその隣で眠ることにした。
布団に入って、身体はまだ起こしながら、二人で話した。
「これ、皆がよく言ってたやつに似てるね~。」
よく言ってたやつ?
「……修学旅行、のこと?」
「そうそう、それそれ~。私は、一度も行ったことがないからさ。」
「そうだよね。」
少女は、また悲しげである。こんなことを言うのは、本人を傷つけてしまうだろうか。それでも、私は聞いてみたい。
「もし、もしだよ。人間として生まれる事が出来るなら……貴方はそれが良かったの?」
少女は考え込んだ。また、真剣な表情をしている。
「分からないよ。私は今、こうして生きてる。これは、多くの人が出来ない『役目』でしょ? 私がやるべきことは、私がやりたいんだ。だから、普通の人間よりも、こっちの方が良かったかも。でも……」
「でも?」
やはり諦めきれない様子で、彼女は少し溜めてから言った。
「もしもう一度人生を送れるなら、人間も経験してみたいかな。」
「…………」
少女はいたって真面目である。
「馬鹿馬鹿しくなってきた。寝よ。」
私はそう言って、半ば強行的に会話を切った。今まで優越感に浸っていたが、その相手が急に真面目なことばかりを言い出すと、私だけが子供のように感じられる。もう彼女と真面目な話はしたくない。
「もう寝るの!? 早いってば~。」
「良いじゃない。ほら、寝るよ。」
「お願い~。」
彼女はずっとねだっている。確かに彼女の立場を考えると、誰かと寝泊まりすることも出来ていなかった。そう思うと、少しくらい、彼女の願いを聞いたって良いかもしれない。
「じゃあ、良いけど。明日起きられるように、ちゃんと時間を考えてよ。」
「やった~!」
両手を広げて、彼女はたいそう喜んでいる。
「なんの話しよっかな~。」
彼女はずっと、楽しそうでいる。そこらの学生とまるで一緒じゃないか。
結局小一時間話した後、彼女が先に話し疲れて寝てしまった。私は、横で寝ている彼女を見ながら考えていた。
私が考えていた役目と、彼女の考えていた役目。それぞれの違いと、彼女がいかに大人であるか。それをしみじみと感じる。
私は、一体……。
そんなことを考えながら、私も静かに眠りについた。
「おはよう……。」
隣から聞こえる高い声……が、何故か聞こえなかった。てっきり彼女から起こしてくれるものかと思ったが、まだ寝ているのか。呑気な奴め。
まだ眠いが、隣を見た。
―――少女はそこにいなかった。しわの付いた布団が、静かに横たわっているだけだ。彼女の姿は無い。もしや、もう起きているのか。呑気な奴だと笑ったが、実は私の方が呑気だったか。
しまったと思って、私は布団から出た。
「どこにいるの~?」
声を上げても、返答がない。
ここに来て、ようやく頭が回ってきた。そもそも、ここは私の家だ。彼女は私の家の構造をあまり知らないはずだし、土地勘も無いだろう。それでいてこの家は、いつも一人の時と同じ顔をしている。
何かがおかしい。
血の気が少しずつ引くのを感じた。
「ちょっ……どこ!」
家の中を見て歩くが、どこにも姿は見つからない。ショートボブのその少女は、どこにもいない。慌てて外へ出るが、彼女がいそうな所に心当たりはない。
「どこにいるの……!?」
周辺を見て回った。しかし彼女の姿は、一向に見えない。
彼女の名前を言ったことは、今まで一度とて無かった。私、あなたで呼び合った関係だ。どうしてもの時は名字で呼ぶこともあったが、私からはしたことがないし、少女にも殆どさせなかった。少女は私の名前を呼ぼうとしたこともあるし、何度か「名前で呼んでよ」と言ってきたが、私は全て断ってきた。今このような瞬間が来るのが怖かったからだ。彼女は護り神。「その様な時」が来る可能性も、十分に考えられた。いついなくなるか分からない。その時、必要以上に仲が良ければ、彼女を失ったときに悲しんでしまう。隣にいない喪失感に、悩まされてしまう。だから、私はよそよそしく接していた。でも、今思えばそれは間違いだった。会える時間が有限だからこそ、仲良く接するのだ。忘れられないように。また思い出して貰えるように。そのために、仲良くするのだ。
ひたすらに走った。町を走り回る。息が上がった。構わない。私は走り続ける。
少女は今どこにいるか分からない。
今一度、名前を呼んでみるときなのかもしれない。彼女に会いたい。
彼女を失いたくなど、無い。
届け、届け。あなたに届け。
私は目いっぱい叫んだ。
「―――香子っ!!」
「美澄~! 起きなさい!」
「あと、五分だけ……。」
母の声がする。まだ開ききっていない瞼を擦り、少し気怠い体を無理やり引き起こすようにして、ベッドから出た。
今日もまた、何気ない日々が始まる。
どうせまた、どうということもない当たり前の一日が始まるのだ。
特にこれと言った才能もない。とはいえ、何かに向かって努力をする気も無い。私には特技もなく、部活も、趣味と言えるようなものにも打ち込めるものもなく、どれに関しても平均的な結果を残して、まさに凡人と位置づけられて、ただただ暇をもてあます日々を過ごしていた。
私が住むこの新潟も、それぞれに美しい四季があるのは確かだ。だが都会に比べれば、やはり娯楽施設などの面白みが少し欠けている。都会には首が痛くなるほどの高いビルがわんさかと建っていて、雲の上までそびえ立つ東京スカイツリーもある。東京には東京タワーも。他の都市と言えば、大阪の通天閣。京都の京都タワー。
では、新潟といえば?
展望室という意味で言えばBefcoばかうけ展望室がある。しかし、新潟タワーはもちろん、◯◯タワーといったシンボルがないのがこの県だ。
強いて言うならば、今は無きレインボータワーとでもいったところだろうか。それも、あまり記憶にはないが……。
街中賑やかで夜まで栄え、全てが美しい都市。遊ぶところもたくさんあって、新しい人 々にすぐに出会える。
週末は自分の足で、何処へでも。車社会のこことは違って、自らの力だけで、何処へだっていける。
それが、私の憧れだった。
成長したら、すぐに上京でもして、こんな所は脱出してやる。
そう、思っていた。
あの時までは。
私は、また当たり前の日々を過ごしていた。
新潟市の西端に位置する西蒲区。
特に目的も志もなく、一番近いからという理由で選んだ高校に通う。とはいえ、最寄りながらもかなり遠い。なんでこんな場所に生まれたのか、最寄りの高校ですら徒歩だと一時間半。あまりにも非現実的な距離だ。
学校から許可を貰い、誕生日が来たら原付バイクの免許を取ってバイク通学が出来る……。が、今はまだ15歳。あと何ヶ月かの辛抱だった。正直辛いが、他の高校だともっと辛くなるので仕方が無い。
毎日歩く神社の前と、毎日見るたんぼ道を通る。
神社と言っても、そう大きなものじゃない。周囲に茂った木々の陰に、薄暗く本殿がある、少し不気味な神社だった。神社の鳥居や本殿を見れば、人の手がまるでついていないように感じられた。いわゆる、廃神社。そのようなものにも見える。しかし、それにしてはやけに原形を留めている。
小さい時に一度、一人でこの境内の中に入ったことがある。しかし、それ以降は行っていない。
皆から忘れ去られたかのように、静かに、寂しげに。なれども確かに、ここに佇む。
どうしたものか。この様子は余りに可哀想なのだが、私はこの神社の神主でも巫女でもないし、ましてや知り合いにそう言った職の人がいるわけでもない。そもそも私にはどうすることも出来ないのは目に見えて明らかだったので、無視するほか無かった。
高校一年の夏。
私は、とある場所へ行くことになった。
「えっ、弥彦村?」
「そうよ。おばあちゃん、そっちに住んでるでしょう。腰を痛めたから、って。」
「えぇ~。弥彦かぁ……。」
新潟県西蒲原郡弥彦村。弥彦村は小学生の時に行ったっきりだ。全く、嫌いではない。かと言って好きかと言われるとそうじゃない。そもそも、全然知らないのが現状だった。分かっていることと言えば、やはりここと同じで、都会と言えるほどに栄えているわけではいないということ。そして、全国的も名の知れる弥彦神社のこと。小学生の頃のぼんやりとした記憶は、今やさっぱり靄の中である。
スマホで調べてみると、出てきたのは人口約七千人の村。スマホの画面に写ったのは、弥彦神社の本殿? であった。
別に、家に一人でも良かったが、今は夏休みだ。どうせなら弥彦村でも良いので、出かけたいところ。
部活動があると思ったが、これから丁度お盆休みに入る。私は運動部だったが、お盆にはちゃんとお休みが貰える。部活もない。ならば、行っても良いか。
弥彦村へ向かうことにして、すぐに準備を整えた。
「着替えも持ったし、あとは、こいつ……。」
宿題を前に、私は渋る。
どうせやることも無いだろうが、いつも持っていってしまう。
いつかやるかもしれない、やる機会が生まれるかもしれない。
そう思って持っていき、結局やらないまでが私のいつもの流れだ。しかし、まぁ良いだろう。旅行用のボストンバッグの中は、スペースに困っているわけではない。
私はボストンバッグの中に、折れ曲がらないよう慎重に宿題を詰め込んだ。
「忘れ物無いわね?」
「多分~。」
「多分って何よ……。ほら、行くわよ。」
「はいはい。」
そう言って、荷物を後ろに乗せた後、私は車の助手席に乗り込んだ。
「それじゃあ、家の方は任せろ。」
「えぇ。ちゃんと寝て、食事しなさいよ」
「分かってるよ、心配性だな。」
家のことは、父に任せている。今回行くのは母方の祖父母の家なので、父だけが行くわけにもいかない。そもそも父は近くの工場で働いていて、手が離せないのが現状だ。ごつごつとした手は、どれほど父が努力してきたかを静かにも見せつけている。
とはいえ男手がなく母一人は辛いので、私も着いてこさせられた。本音としては、父と二人が気まずいというのもある。
夏休み中には帰ってくる。まぁ、特に何も心配は無い。唯一の心配といったら、生活習慣がきちんとしておらず、だらしのない父の方だろうか。
「それじゃあ、行ってきます。」
窓を開けると、母は父に向けて車の扉越しに言った。
「あぁ、気をつけて。美澄もな。」
「分かってるってば。」
父も優しいが、その優しさが少し厚かましい時さえある。
心の底から、心底恨んでいるわけではない。しかし、やはりそこは反抗期。
恥ずかしい、というよりも、何か生理的に受け付けられない、というか。別に嫌いなわけではないのだ。それでも、何故か体が受け付けない。私はそっぽを向きながら、少し素っ気なく返した。
車はエンジンを吹かせて、微動を繰り返しながら進んでゆく。
あっという間に家は遠くなって、周りが住宅街からたんぼ道へと移り変わっていった。
ハンドルを握る母が、横に見える。
普段は凜々しく、若々しく見えるその顔は、今日は少ししわがれて、違った様子に見えた。
そんな母を横目に、私はスマホで調べ物。
弥彦神社についてだ。元々は弥彦村がどんなところかを調べていたが、結局ここに行き着いた。流石に私でも、なんとなくは知っている。どうやら、越後開拓の神を祀っており、それに伴って弥彦村は越後文化発祥の地とも言われているそうだ。毎年、年末年始には二、三万人ほどが訪れる越後随一の神社。
特に何を願掛けするでもないが、新潟でトップクラスに大きいとされるご加護がある神社だ。行ってみても良いかもしれない。
吐き気のような違和感があるというか。少しだけ酔ってきてしまった。やはり、車では調べ物をするべきではない。だがそうこうしているうちに、もう祖父母の家はすぐそこだった。
私の家から弥彦村へは、県道2号を通ってなんと約二十分。この両地区は隣接しているから、渋滞さえなければここまで早く着ける。しかしこれは車での話であって、徒歩で行くとなれば三時間半もかかるのだ。これは、新潟県が車社会であることをよく現していると思う。
バイパスから降りてからすぐに、祖父母の家に到着した。
「おぉ、静穂。すまんな。」
家の前で、祖父がわざわざ出迎えてくれた。
「いやぁ、今日は道が空いてたから良かったわ。それで、お母さんの具合は?」
などと、母が荷物を下ろしながら言う。
私も助手席から降りて、自分の荷物を持った。
とても家から近いので、いざとなったらすぐに帰れるのが心に余裕を持たせた。
まだ高一。受験に追われるわけでもない。特にやることこそ無いが、祖母の看病もしつつ、どこかに行くことだって出来るだろう。新たな発見があるかもしれない。
今年の夏は、暇ではないかもしれない。
そんな予感がした。
幸い、祖母の状態は酷くなく、悪化もしていなかった。初日こそ病院にも行ったが、かかりつけの医者に寄れば、「しばらく痛み止めと薬を飲んで安静にしていれば大丈夫です。」だそうだ。手術などの心配はなさそう。様子を見つつ、定期的に通院。
今のところ、それだけで済むらしい。
大事がなくて、何より悪化する恐れも低いことから、私には自由に動いて良いと許可が出た。何もなくて、良かった。
「よし、行こう!」
思い立ったが吉日。県内、しかも隣接しているとはいえども、そう毎回のように来られるわけではないのだ。
ならば、楽しむほか無いだろう。
都会に憧れる私だって、別に新潟が嫌いなわけではない。今を楽しむのが、私の人生だ。
早速、車の中で調べた弥彦神社に向かうことにした。
家を出てしばらく道を歩き、県道29号線に出た。
すると、この目当てである弥彦神社の中で有名な場所の一つでもある、大鳥居が見えてくる。
とても大きな赤い鳥居が、青い空と対比して美しさがより溢れている。流石新潟の夏、この時期だけは快晴である。
私は肩に提げたショルダーバッグからスマホを取り出し、感嘆の声を上げた。
「ん~。」
普通の女子高生ならば被写体に自分を映し、自撮りでもするのかもしれない。だが、私は違う。人が入っていては、美しくない。人がいない、その自然ありのままの景色だからこそ、美しく、幻想的で、素晴らしく感じられるのだ。これが私のこだわり。これを前に同級生に話したら、変わってるね。とか言われたのにはムカつくが。
私は人が入らないように工夫しつつ、スマホを縦画面で構え、写真に収めた。
パシャリ。
青空の下、シャッター音が鳴った。
「ふふ、きれい。」
自分が見た景色が、そして撮った景色が思ったよりも綺麗だったので、思わず気分が高揚する。少し足取りも軽くなって、私は弾むように歩みを進めた。
矢作駅から、弥彦駅まで一駅電車に乗ることにした。歩いても良いのだが、ここからだと、なんと徒歩約三十分。電車を使えば約三分だ。あと十分もすれば電車が来るので、乗った方が良いと見た。
徒歩で約三十分。これを往復するほど、私もタフじゃない。もちろん出来ないことはないのだが、夏の暑い中これをやるとなれば、帰る頃には汗で全身びっしょりだ。
それは流石に嫌だ。誰でも当たり前に、汗だくになんてなりたくない。
E129系の電車も、乗り心地は悪くなかった。あいにく鉄道ファンではないので詳しいことは分からない。オレンジ色の、二両編成。これが普通だ。二両が普通。
誰にも文句は言わせない。
たった一駅だが、30分の短縮になる。
まぁ、たった一駅といえども2.4km。
都会の。例えば、東京駅から隣の有楽町駅なんて300mなのだ。山手線はこれを2分で走っている。
300mを2分。しかし、こっちは2.4kmを3分だ。
都会め、新潟を舐めるなよ。
これには、そう言ってやりたくなる。
弥彦線、なんとありがたいことだろうか。
まぁ、弥彦線は一時間に一本な上に、都会のように重要な施設が密集していないだけでもあるのだが。
そうこうしている間に、もう終点、弥彦駅に着いた。
「着いた~!」
青い空を見上げ、声を張り上げた。
ここまで147円。
先ほど例に出した東京、有楽町駅間は146円と、2.1km分を1円で得したことになる。
どうだ、東京の者どもよ!
これは、新潟の自慢できる点だ。
冷静に考えると、そもそも需要が違うし、本数が少なすぎる点ではどうかと思うが。
ここからは簡単。後は参宮通りに沿って歩き、社家通りを左に曲がるだけだ。
そうすると、右に弥彦神社の一の鳥居が見えてくる。
「ここなんだ……!」
当たり前ながら大鳥居ほどではない。だがそこにあるのは、大きく赤い、美しい鳥居。
鳥居には金色の字で、「彌彦神社」と書いてあった。そういえば、ホームページも弥彦ではなく彌彦だったな。ここに来る前に見た大鳥居にしても、「彌彦神社」と書かれていた。弥彦村は「弥彦」だが、神社の場合は、正式にはこっちなのだろうか。
私は心を躍らせて、鳥居の前で一礼してから足を踏み入れた。
風が私を撫でるように、涼しさを伴い吹いていく。強すぎず、されど弱すぎず。
風は確かに吹いていて、木々を優しく揺さぶった。木々は応じるように優しく葉を揺らめかせ、歩くたびに自然が奏でる優しさの音が聞こえてくる。
なんと、心地の良い空間だろうか。
思わず、ますます勢いよく、走ってしまうのではないかと思うくらいに私は進んでいった。
歩みを進めていくと、「御身礼授与所」。いわゆる、お祓いが出来る場所が右手に見えた。別に厄年でも無いし、そもそも気軽にするものでもないので、私はこれを横目に進んでいく。厄年になったら、またここに来ようかな。なんてことを思いつつ。
それを通った直後、左へと体を向ける。すると、そこには手水所があった。お清め、これは大切だろう。
ここは慣習にならって、
右手、左手、そして口。また左手。
と、心身を清めた。
これで、良いのだろうか。
多くの観光客が行き交う中で、私はまた足を進めた。右には神馬舎があって、中には木馬が飾られていた。よくは見えないが、木馬には装飾品がたくさんついているようだ。色もある。
これを更に進むと、すぐに二の鳥居が見えてきて、それもくぐった。
これをくぐれば、後は一本道。
もう本殿が見えてきた。
いや、それにしても綺麗だ。
私の心は、弾むに弾む。
もう止められないほど気分が上がって、私の心は最高潮へと達した。
もともと、神社が大好きだった訳でもない。
待ち遠しくしていた訳でもない。
ただの思いつきで来ただけだ。
しかし、しかし。
それでも、ここまで気分が高揚する。
なんと不思議なことだろう。
しかし、自然に囲まれ、風に吹かれて、夏の少し暑い空の下、こうやって歩くのがとても嬉しい。とても楽しい。
私は、早歩きで本殿へと向かった。
本殿前に構える、随神門。
なんとも強そうで、どっしりと。
まだ百年も経っていないらしいが、何百年もこの地を見守ってきたような風格が……貫禄が、それにはあった。
軽く一礼してからそれをくぐって、前へと進む。
「ーーーーっ!」
言葉が出ない。圧巻だった。
御本殿。
周りを緑に囲まれ、上には雲一つ無い青空が広がる。茶色の本殿が幻想的な風景を醸し出している。
なんと、美しいことだろう。
風の音、揺らめく木。透き通った空。
鳴いている蝉の声。
そしてそのもとにどっしりと構える、ずっとこの地を見守ってきたであろう神社の本殿。
涙が出そうになるほど、美しかった。
ここに来て良かったと、そう思わされた。
良かった、良かった。
ここに来られて、本当に良かった。
ただ本殿の前に立ち尽くし、そう思う。
しかし、それを続けても神様には失礼か。急がなくては。
二礼四拍手一礼。
拍手が二つ多いのは、彌彦神社特有だ。別に二礼二拍手一礼でも良いらしいが、ここは彌彦神社の慣例に従っておくのが無難。流石に参拝の仕方くらい、事前に学んである。
私はお賽銭を済ませ、おばあちゃんが早く良くなりますようにと願ってから、立ち去ろうとした。
「あの~。」
「うわっ!? は、はいっ!」
振り向くとそこには、一人の女性がいた。
さっきまで見かけなかったのに、一体どこから現れたのだろうか。
まるで巫女さんが着ているような和服の上に、花が描かれた黄色の布地の、袴のようなものを身につけている。
ショートボブの黒髪は風に揺られて可愛らしく、大人らしさもあった。
「……初めまして、ですかね? 観光ですか?」
「えっ、あ、はい。まぁ、そんなところです。」
「そう、ですよね。弥彦村は初めて?」
ぐいぐいと迫ってくる。
なんというか。誰にでも距離が近い、犬のような雰囲気。そんな感じさえする。
「初めてではないんですけど、弥彦村は久しぶりです。」
「久しぶり? 弥彦の魅力に気づきました? それとも、親戚さんがいるとか。」
「あ、そうです。この村に祖父母がいて。」
凄い洞察力だ。
すぐに見透かされた。どうして分かったのか。
「久しぶりってことは、ここについてはあまりよく知らないって事かな?」
「まぁ、そうですけど……。」
「この後は暇? 良ければ、彌彦神社を案内するよ。」
彼女は笑顔で言った。
裏がないような、まっすぐした目と、その笑顔、その口調。
彼女ならきっと、詐欺でもなんでもないだろう。だが、急に話しかけてきて、いかにも怪しげである。着いていくのは、少し怖い。
「え、えっと。」
私が言葉を詰まらせていると、すぐさま女性は返した。
「ごめん、まだ名前も言ってなかったね。私は弥彦 泉って言います。よろしくね。」
私も、
「長原 美澄です、よろしくお願いします。」
と返した。弥彦さんは随分と驚いている。
「わっ、よく似てるね。美澄ちゃんね。よろしく。どうせなら、私が案内するよ。弥彦村ここらへんには詳しいからさ。もしよければどうかな?」
「そんな。わざわざ案内なんて、いいですよ。」
「別にお金もいらないしさ。弥彦村での思い出をいっぱい作って欲しいの。駄目かな?」
「え、でも…… わざわざ私にして貰って良いんですか?」
「うん、もちろん。相手が美澄ちゃんだから、やるんだよ。」
随分積極的に勧めてくるな。何だ、この人は。優しい声で信用を稼ぐ、一種の人垂らしか? 少し怪しいが、どうせやることも無い。しばらく迷ったが、信頼してみることにしよう。
「じゃ、じゃあ。お願いします。」
「やった! よろしくね!」
こうして、私は弥彦さんに着いていくことにした。
境内を歩く弥彦さんは、常に迷いなく歩いていた。ここは決して小さくない神社だ。経路も、決して単純なわけではない。
なのに、迷いなく歩いている。
服装もそうだが、やはりここの巫女さんなのだろうか。しかし、服装が少し皆とは違うんだよな。民間のボランティア?
「美澄ちゃん。」
「は、はい! 何でしょう!?」
「私のことは、泉って呼んでね。彌彦神社に弥彦村に。私の名字、同じ者が多いからさ。色々と勘違いされちゃうし。」
本人が気にしているのだろうか。いきなり名前呼びは少し勇気がいるが、もしそうなら弥彦さんと呼び続ける方が帰って失礼だろう。
「……じゃあ、泉さん。でお願いします。」
「……うん。あとさ。」
彼女は少し照れくさそうにして言った。
「私に対しては、別に敬語じゃなくても良いからね?」
「あ、はい……。」
いやいや。敬語じゃなくて良いと言われても、私には無理だ。会ったばかりで心を開いているわけでもない人に、急にタメ口を使うわけにもいかない。それが出来るのは、距離感が異常に近い、泉さん。貴女だけだ。
「鹿でも、見に行こっか。」
「鹿ですか!?」
「鹿だよ。うちの神社では、鹿を飼育してるの。静岡からも譲り受けて、今は13頭いるんだよ。」
「へ~。」
鹿か。
「これはね、万葉集にある短歌からきているんだ。
『伊弥彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣きて 角つきながら』
そう詠んだ和歌があってね。
『伊夜彦の神山の麓に、今日も鹿が伏しているだろうか。毛皮をつけ、角をつけたままで。』
っていう意味なんだけど、それにあやかって、神社が飼育してるんだ。」
「そうなんですね。」
そうなんだ。いや、そうなんだ?
「ちょっと待ってください。」
「だから、敬語じゃなくて良いってば。それで、どうしたの?」
「さっきの和歌って、五七五七七じゃないですよね?」
彼女はくすっと笑って答えた。
「その話ね、皆よく言うの。実はこの和歌は、五七五七七に加えて一つ七。五七五七七七の組み合わせなんだ。一般的によく知られているものとは少しだけ違うから、違和感を覚える人も多いんだ。」
「はい。なんか、違和感……」
それにしても、神の山、か。
泉さんの名字も弥彦だったよな。そして和服って。弥彦村に代々続く、神主や大地主的な、凄い家の人なのかな?
そんなどうでも良いことを思っている間に、泉さんは草履で地面の石を踏み鳴らしながら歩いていく。
それにしてもその格好、疲れないのだろうか。
「さて、着いたよ。」
「おぉ~。」
別に、放し飼いな訳ではない。
しかし、柵の向こうには確かに鹿がいた。
スリムなフォルムと、茶色い毛。
雌を見ていれば可愛らしいが、雄を見れば神聖さが見受けられる。
神の使いと言われる訳だ。
風に揺らめく緑の葉、すっと吹きゆくそよ風。その下に佇む“使い”達に、辺りに響く蝉の大合唱。
何もかもが幻想的で、また美しい。
「あの……泉さんって、」
率直な疑問だった。他意は無い。
「普段は何をされてるんですか? その、巫女さんって訳でもなさそうですし。でも近所の学生さんって事は無いですよね? それに、さっきも急に現れたし……。」
「………………」
その場が急激に静まり返った。
先ほどまで吹いていた、そよ風も止まる。
その場が静まりかえり、凍ったようで、とにかく悲しい雰囲気というような、冷たい時間が流れた。蝉の声すらなくなって、夏の暑い気温も忘れて。ただ静かで寒い空間が、その場に広がっていた。
「私は……ね。」
先ほどまでの泉さんの笑顔は変わり、微笑を浮かべていた。その笑顔には、少々威圧感がある。
じっとこちらを見つめ、何かを考えているようだった。少し怖さも感じて、思わず目を逸らした。
世界が止まったような、長い時が流れる。
静かで、この世の全てがこの空間と同じように止まっている気がした。
彼女は、ぼそりと言った。
「秘密、かな。」
私が目をやると、彼女はまた優しい笑顔を取り戻した。身長などから幼いようにも見えるが、やはり中身は大人だ。なんというか。言い表せない威圧感……というか、風格というか。
とにかく、到底敵わないような何かがある。
この人は、あまり怒らせてはいけないタイプだ……。
そして同時に、やはり敬語の方が良いと私は察した。
「重軽の石でも持ってみる?」
泉さんは、笑って言った。
「重軽の石?」
「そう、重軽の石。願い事をしながら持って、それが予想より重かったら叶わない。でも、軽かったら叶うって言われてる石なんだけどね。運試しに、やってみたら?」
「そうですね、やってみます……。」
向かうと、そこには二つの石が置いてあった。
大きすぎないが、決して小さくはない。
私は、その石を前にして考えた。
「あれ、何を願おう……?」
ふとした疑問だ。どうしたものか、私は受験するような年でもないし、かといって部活で願うようなことも……。
「何でも良いんだよ。些細なことでも良いから、願ってみなよ。」
「そうですね……。うぅん……。」
じゃあ、これくらいにしておくか。
この夏、何かに巻き込まれることがありませんように……。
泉さんが怪しいので、これを祈ってみる。
私は両手でしっかりと持ち上げた。
「……重たい。」
確かに石は大きいものの、もう少し軽いものを想像していたのだが。
「あらら、一体何を願ったの?」
「あぁ……それは、秘密です。」
流石に泉さんの前でこれを言ったら、信用していないと言っているようで失礼だ。人の心を傷つけるのだけはごめんだ。
「え~? 何々?」
「秘密ですってば!」
泉さんがぐいぐいと迫ってくる。私も、後ずさるようにして距離を取った。
そんなとき。お腹からぐぅ~という、なんとも情けない音が鳴った。
「……お腹空いた?」
泉さんが優しく、伺ってきた。
「いえ、そんなことないです。」
きっぱりと断った。少し裏返った、これまた情けない声で。
人前で予想以上に大きな音を出してしまった。情けない。そしてそれ以上に、恥ずかしい。
「隠さなくても良いのに。…………私お腹空いてるからさ、ちょっと後で寄りたい所があるんだ。オススメの場所があって。」
「はい……。」
「そんなに恥ずかしがらなくても。美澄ちゃんのために行くんじゃなくて、私のわがままで付き合って貰うだけだから、さ。」
泉さんのケアが入った。
私たちは一度彌彦神社を出て、来た道を戻った。
「彌彦神社は、もう出て良いかな?」
「あ、はい。」
一の宮鳥居を出る。
道を渡ってすぐ、泉さんが言った。
「ここだよ。」
「ここですか?」
ひらしお。どうやら、お土産屋さんのように見える。
一階には様々な物品が置かれ、昔ながらの古民家という印象を受けた。
和風ながら、少し現代的な感じもする。
「ここ、ここ。入ろう。」
入ると、一階はお土産屋さんらしい。
吹き抜けの天井には、置物がつるされていた。
足袋ソックスにコースター、マフラーに服と様々なものが置かれているのだが、窮屈という感じはしなかった。
「こっちこっち。着いてきて」
「あっ、はい!」
見とれているうちに、泉さんは階段を上がっていた。
私もそれに着いていく。
二階に上がった。
先ほどとは打って変わって、木の骨組みが見える、開放感がある空間が広がっていた。
木の優しさが感じられた。
「ここがお目当ての、社彩庵です!」
「社彩庵……? ひらしお、とも書いてありましたよね。」
さっきの看板には、それに加えてひらしお、と書いてあった。
「あぁ、1階がひらしお。2階が社彩庵なんだ。だから、「社彩庵・ひらしお」なんて表記も多いね。」
「そうなんですか。……なんだか、良いところですね。」
「そうでしょ? 良いところなんだけど。良いのは内観だけじゃないんだよ。」
窓側の席が丁度空いていて、二人でそこに腰掛けた。
「はぁ~~…………。」
体力があるとはいえ、長距離を歩いてきた。
流石に、少し疲れた。
「お疲れ様。どのくらい歩いたの?」
「えぇっと……一万はいきましたね、詳しくは分からないけど。」
「いっぱい歩いたね、お疲れ様。小腹も空いてるだろうし、何か食べていきなよ。なんなら、奢ってあげるから。」
「えっ、良いんですか!?」
「いいよいいよ。これも何かの縁だし、ね?」
「ありがとうございます! ええと……どれが良いかな?」
私はメニュー表を開いた。
ゴマのチーズケーキに、抹茶のシフォンケーキ……そして、パフェ。
抹茶プリンパフェに抹茶シフォンパフェ。
そして、全てが詰まった、「白玉クリームパフェ」。
うぅん、どうしよう……。
「これって、パフェとかでも……?」
じっくりとメニューを見ながら、泉さんに聞いた。
「ふふ、いいよ。もちろん。」
笑い声が、メニューの裏から高らかに聞こえた。
「じゃ、じゃあ……。」
指で指しながら言った。
「この、白玉クリームパフェで。」
「白玉クリームパフェね。分かった。じゃあ私は、黒州きなこアイスにしような。」
「くろず……?」
「そう。黒州きなこ。ここのオリジナルなんだ。」
そう言うと、泉さんは「すいません」と声を出して店員さんを呼んだ。
「白玉クリームパフェと、黒州きなこアイスを。一つずつお願いします。」
店員さんが復唱し、「少々お待ちください。」と言って戻っていった。
どんな味なのだろうか、楽しみだ。
店員さんが戻っていくのを確認すると、泉さんが言った。
「ねぇねぇ。左を見てごらん?」
左……窓の方か。
私は窓を覗き込んだ。
「何か見えない?」
「えっ……? あ!」
緑色の木々ばかり見ていたが、よく見ると、いや、よく見なくとも。大きな、赤い一つの鳥居があるではないか。
「あれって……!」
「そう、一の宮鳥居。美澄ちゃんも通ったでしょ?」
「はい、通りました!」
上から見下ろす形で見えるので、また違った角度で新鮮だった。
「良いよね~、神社。私自身、よく飽きないなぁとも思うんだけどさ。」
和服を揺らめかせ、泉さんは一人目立っているように見えた。他の客も、ちらちらと泉さんを見ているように感じる。
この女性、そもそもの顔が良いのだ。テレビなどに出ていても遜色のない外見をしている。声もゆったりとしていて優しく、和服がよく映える。私なんかが一緒にいると、見劣りするくらいだ。
「え、飽きないなぁって……。泉さん、巫女さんか何かなんですか?」
泉さんは頭を抱えるように、少し応えづらそうにしていた。
「うぅん……。まぁ、そんなところかな。詳しいところは秘密!」
「えぇ~。絶対何かあるじゃないですか。」
「秘密、秘密~。」
泉さんはあからさまにはぐらかしている。
私もそれを笑顔ながら探った。
先ほどの静かな、表情のない顔ではない。
一体、泉さんは何なのだろうか。
「お待たせしました。こちら、白玉クリームパフェになります。」
「あ、はい!」
「失礼します。」
私の前に、白玉クリームパフェが置かれた。
「黒州きなこアイスです。」
「は~い」
「ご注文は以上でよろしかったですか?」
店員さんの問いに、泉さんが答える。
「はい。」
「ごゆっくりどうぞ。」
「ありがとうございます。」
店員さんがいなくなる。
「やった~。」
私はスマホを取り出して、白玉クリームパフェを写真に収めた。
これも何か、人やら他のものを入れるのではなく、パフェ単体だ。
泉さんが私の方に目を向けて、笑顔で言った。
「それじゃあ、食べちゃおう!」
「はい!」
「「いただきます。」」
同時に言って、食べ始めた。
まずははじめに、抹茶アイスだ。
抹茶の芳醇な香りに誘われる。
それが口に入ると、すぐに溶けてしまった。
夏の暑い外と比べ、アイスのひんやりとした感じがまた良い。
夏を感じさせる、良いアイスだ。
「おいしいです!」
「おいしい? よかった。」
泉さんは笑顔で返してくれた。
「あ、こっちもあげる!」
そう言うと、泉さんは一口分スプーンでよそって、私の口元に持ってきた。
「じゃあ、いただきます……。」
私はそれを頬張る。
きなこのなんとも言えぬ甘さが、口の中に広がった。
「おいしい……。」
「でしょ。やっぱり、おいしいよね。」
幸せだ。歩き疲れた後に、ここで一息つくことの出来る幸せ。最高だ。
「美澄ちゃんは今、どこに住んでるの?」
そう聞いてきたのは泉さんだ。
「私は……西蒲区です。角田浜の方に。」
泉さんは少し驚いたような顔をしていた。
「……そっか、角田山の近くね。」
「何かありました?」
「いや。何でもないよ。」
「そんなに驚いた表情しなくても良いじゃないですか。」
「えっ、私そんなに驚いてた?」
「驚いてましたよ。だって……。」
そんな会話をしているうちに、気づけばもうスプーンは容器の底をついている。美味しさのあまり気づかなかったが、二人ともあっという間に完食した。
「ごちそうさまでした。」
そう言って食器を置く。
本当に美味しかった。
社彩庵・ひらしお。覚えておこう。
しばらくして、私たちは席を立った。
「あの……ありがとうございました。」
「いいんだって。私も楽しかったし、これくらいはしないと。」
初めて会った人に、ここまで優しくして貰って、奢られた経験など初めてだ。
流石に、こんなことは無いと思っていた。
しかし、実際怪しい人でもなかったし、一緒にいて楽しかった。
でもやっぱり、私が出しても良かったな。そんなことを考えつつ、私たちは店を出た。
「……そろそろ、帰らないとだね。」
「あ……そうですね。」
都会とは違って、灯りがそこら中にあるわけでもない。
電車も数分に一本ではなく、特に弥彦駅からは、一時間に一本と言ったところだ。
あまりのんびりし過ぎていると、帰るときには暗くなって危険になる。
何が出るかも分からないし、流石に夜道は危険だ。
「じゃあ、帰らないと……。」
惜しみつつも、そう言った。
「うん、駅まで送っていくよ。」
社家通りから、参宮通り。
来た道を戻る。今度は、二人で。
途中、泉さんが足を止めて言った。
「ここがね、国の有形文化財にも指定されてる旧鈴木邸。」
敷地の奥に、なんとも古そうな家があった。
「今は中がカフェみたいになってるんだ。江戸時代からあるんだよ。」
「江戸時代……!?」
「そう、江戸。江戸は私も知らないから……。まぁ大層、平和だったらしいけど。」
いやいや、誰も知りませんよ。
見た目からするに、そもそも昭和も知らないでしょう……。
そうツッコミを入れたくなったが、なんだか顔と口調が真面目すぎる。
……天然なのだろうか。
「まぁ、今度機会があったら寄ってみて。」
「はい……。」
どうせ暇なのだ。またいつか、来てみるのも良いかもしれない。
弥彦駅に着いた。
弥彦神社を模したという赤の駅舎は、美しさを、そしてこの村の威厳を示していた。
「あの、今日はありがとうございました! すごい楽しかったです!」
別れ際、振り返って言った。
「うん! 楽しんでもらえて良かったよ。……じゃあ、またね。」
彼女は少し、名残惜しそうにしていた。
「あの……良かったら、また会えませんか? 泉さんと巡ってると、すごい楽しくて……。」
泉さんはすぐに答えてくれた。
「いいよ。」
懐からスマートフォンを取り出した。
流石に和服といっても持ってるか。
待て。どうなってるんだ? その和服は。
どこから取り出してきたのか、アニメでいったら作画崩壊などと笑われるような状況が、目の前で起こっていた。
やはり、この女性は不思議だ……。
私は泉さんとラインを交換する。彼女のラインのアイコンは、手描きと思われる鹿のイラストだった。鹿の丸いフォルムと、その絵柄の優しさとが相まってとても可愛らしい。
「ありがとうございます!」
「うん。じゃあ、また会おうね。」
「はい!」
そう言って泉さんに手を振った。
泉さんはなんとも言えぬ顔で、私を見守っていた。
……少し、悲しそうな。
そんな表情だった。
しかし、これ以上は残れない。電車に遅れては大変だ。私はためらうことなく、泉さんの前をあとにした。
電車が来た。
二両編成。これがまぁ普通なので、大して気にもとめない。
弥彦駅というのもあって、始点でこそあったが住民や観光客である程度混雑していた。
矢作駅までたったの三分だ。三分だからまずないといえるが、間違っても寝てはならない。もし寝過ごすことでもあったら、東三条まで行ってしまう。
それだけは、まずい……。
『私は弥彦 泉、よろしくね。』
『秘密、かな。』
『江戸は私も知らないから……。』
『またね。』
泉さんの声が、脳内で繰り返された。
一体彼女は何だったのか。
ただの平々凡々たる人間とは思えない。
どこか神聖ささえあって、人一倍長く生きているような気もする。
私はやけに、あの人の事が気になっていた。
「ただいま~。」
「おぉ、お帰り。」
そう言って私を迎えたのは、おじいちゃん。本田 吉三だった。
もう八十を超えるが、未だ元気だ。
堀が深く、農家をやっているからか体もピンピンしていて、この人が死ぬのを想像できない。まさに怪物、年老いてもそのタフさは衰えていなかった。
この人が隣にいると、祖母が対比して病弱に見えてしまうのだ。勿論決してそんなことはなく、この人が強すぎるだけなのだが。
「随分長かったわね。」
夕飯を作っていた母が、その手を止めずに言った。
「まぁね~……。」
と、私もテキトーに返しておく。
泉さんと仲良くなったなどと言ったら、いきなり初めての相手に奢ってまで貰って、と怒られるかもしれない。いや、怒られるに決まっている。母は心配性で何事にも口を出してくる。正直うるさいまである。それ故、私は今まで誰かと遊びに行くにも苦労し、殆ど行けていない。
言いづらい……。
私は手洗いとうがいを済ませ、階段を上がる。そして、借りている空き部屋、一時的な自室へ入った。
「はぁ~……。」
疲れた~!!
そう心の中で叫びながら、ベッドに飛び込んだ。この家の匂いがする、柔らかいベッドに包まれる。
あ、そうだ。
私はスマホを手に取った。
泉さんに今日の感謝を伝えなくては。
『無事に帰りました。今日はありがとうございました。楽しかったです!』
……少し、よそよそしいかな?
その手を止めて考えるが、他にあまり良い言葉が思い浮かばない。
これでいいかな。
私は送信ボタンを押し、「ありがとう」というスタンプも送った。
スマホを横に置き、仰向けになってぼーっと考えた。
何故、彼女は私に話しかけたのだろう。やけにやそよそよそしかったのも、何か理由があるはずだ。
考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。よく分からないが、良い思い出が一つ出来た。また、会えるだろうか。
「美澄ー!」
母の声だ。下の階から大きな声が聞こえてくる。私は
「はーい!」
と返して、一階へと向かった。
母は一階のリビングにいた。祖父母も一緒である。
「ほら、お夕飯。座りなさい。」
食事は基本祖母が作っているが、母がいるとなれば別だ。そもそも祖父も料理は出来るので、最近はよく祖父が作っているそうだ。
何でも出来るな、この祖父は。
机の上に、夕飯が置かれた。
その中でも存在感を放っていたのが、のっぺ。新潟の郷土料理で、県内であれば各家庭で見られる。それぞれの家庭に違いはあるが、簡単に言えば煮物のようなものだ。日本国内においてちらほら見られる、のっぺい汁とは異なる料理である。
私の家ではあまり出ないが、この家になるとよく出る。そういえば、小学生に来ていた時も毎回出ていたな。
「いただきます。」
のっぺ。焼き魚。味噌汁。そして、祖父が作った自慢のお米。
輝くお米を頬張ると、その甘みと旨みが噛むほどに出てきた。
「最近どうらて、高校の方は。部活動も、頑張っとるか。」
「……まぁ、どれもそこそこだよ。」
おじいちゃんに聞かれたが、本当に目立つことをしていない。全てにおいてそこそこなのである。
「もっと、何事にもがっとにならねばならねんて。部活もな、こう……。」
いやいや、がっとって。何に対しての話だよ。セルフツッコミを入れ、おじいちゃんの話を聞きながら食事を食べ終えた。
夜ご飯を食べ終えてお風呂に入った後、自分の部屋に戻った。
だんだんと、眠くなってくる。
宿題もやらねばならない。だから寝てはいけないのだが、目が少しずつ閉じてきた。何も考えられなくなってくる。
今は寝ちゃ駄目だ、
駄目だ、
私……
「うわぁっ!?」
しまった……寝てしまった。
朝の日差しが、私の部屋の中を照らしていた。鳥のさえずりも聞こえる。
寝てしまった、完全に寝過ごした……。
まぁ、何があるわけでもないから良いのだが。どうせなら、早く起きたかったな。
せっかくの祖父母の家、せっかくの弥彦村だ。だらだらと過ごすのも良いが、そうはいられない。いつもは七時に起きているのだが、今日ばかりは八時だった。
ぱっと布団から飛び起きて、すぐに洗面所へと向かった。
顔を手ですくった水につけ、顔を洗う。
歯磨きもして、スキンケアに、最後に日焼け止め……。その後、すぐに着替えた。
「おはよ~……。」
まだ眠いが、階段を降りて一階へと向かう。
「あら、おはよう。」
ダイニングキッチンに入ると、おばあちゃんがいた。母と一緒に、キッチンに立っている。
「腰、大丈夫なの?」
「大丈夫らて。心配しなくても、元気だっけさ。家の中も動けなくなったら、もう終わりよ。」
「無理しないでね……って、あれ。おじいちゃんは?」
おじいちゃんの姿がなかった。
「お父さんは、田んぼ行くすかえもうとっくに出たて。」
そう言えば、おじいちゃんは未だ現役の農家だった。相変わらず朝が早いな。「俺は生涯現役だ」などと豪語しているし、それを実際にやってのけそうな彼。これからも元気でいることを願うばかりだ。
……そうだ。
と思って、私はスマホを開いた。
泉さんから、返信が来ているかな。
ラインを開くと、泉さんからの着信があった。
『こちらこそありがとうね! 私はいつでも空いてるから、また会お!』
と書かれている。
いつでも空いてる……?
本当に、何なんだこの人は。
そう思ってう~んと考えているうちに、キッチンにいた母が朝ご飯を持ってきてくれた。
「はい、これ。」
「ありがと……」
お米と味噌汁、鮭。そしてたくあん。
定番の和食、美味しそう。
箸を進め、食事をさっと済ませた。
「ごちそうさまでした。」
「……暇だ。」
寝坊した。しかし、寝坊しても影響は何もない。やることも無い。
う~ん、どうしたものか。
「今日って何かやることある?」
聞いてみるが、特に母はなさそうにしている。
「おばあちゃんは私一人で十分だから、特にやることはないわ。せっかくの夏休みなんだから、楽しんできなさい。」
えぇ……。
私は家から半ば強制されるように家を出た。というか、出された。
やることも無く、ただ家の前の日陰に突っ立った。太陽が元気に空高く昇って、私を意気揚々と照りつける。
紫外線という太陽からのラブレターが、私にこれでもかと突き刺さった。
ギラギラギラギラと、太陽は自信満々に姿を見せている。
今日もお前は元気だな……。
これは分かる。日焼けをする。
日焼け止めは塗っているが、完全に防ぎきれる訳がない。
日焼けすると、肌がものすごくヒリヒリするのだ。そして、肌が傷ついてしまう。
だから私は日差しが嫌いで、どうかこれだけは避けねばならなかった。
このために、日傘も持ってきてある。私はそれをさし、なんとか日差しから身を守った。
だが、もう打つ手無し。
全て出来るものは終わった。
これまでして日焼けをするのは仕方が無い。
……また、問題が発生した。
やることが無いのだ。ずっとずっと何をするかと思っているまま、時間だけが過ぎていく。仕方ない、こうなった時こそあの人だ。
私はスマホを開いて、あの鹿のアイコンを探す。
……あったあった。
鹿のアイコン。泉さんだ。
『またお会いしたいです。今度また会えませんか?』
これで、良いだろうか。
少し失礼かもしれない。しかし、良いだろう。
紫外線からは防げたものの、今度は暑さが牙をむいてきた。それに耐えること約十分。
着信の高いメロディ音が鳴った。
報せを教えたそれを見やると、
『いつでもいいよ!』
と表示されていた。私は返答してみる。
『今日でも、良いですか…?』
流石に無理があるだろうか。ううん……。
身勝手な私自身に、嫌気がさす。しかし、泉さんから返ってきた返答は予想以上に快いものだった。
『もちろん! 彌彦神社集合ね!』
本当に、この人は一体何者なんだ……? ここまで既読が早いのも怖いし、今日も良いって……。まぁとにかく、快諾されたのは事実。よし、行こう。
私はまた昨日と同じルートを辿って、神社へと向かった。
一度通った道は、ある程度は覚えている。
昨日解説されながら通った道なのだから、尚更だ。
彌彦神社と大雑把に指定されたが、あそこは意外にも広い。
一宮鳥居から本殿まででも、距離はある。
違う場所で待ち合わせ、すれ違ってもおかしくはない。
今日は別に、神社を参拝する予定でもなかった。
……だからきっと、ここに来てくれるはず。
私は泉さんを信じて、一宮鳥居の前で待つことにした。
蝉の声。揺らめく陽炎の地平線。
暑さでやられてしまいそう。
汗が全身から湧き出るように出てくるのが分かった。そんな中で、彼女を待つ。
まだかな……。
「わっ!」
肩に二つの手が乗った。
「うわぁっ!」
思わず声を張って、体を波打たせる。
振り返ると、泉さんが万遍の笑みでこちらを見つめていた。
「おはよう!」
「初めまして。水吉と申します。」
「えっと……。長原です。よろしくお願いします。」
「じゃ、水吉君。行こうか!」
「分かりました。」
私は今、初対面の男性と車に乗ろうとしている。そもそもを言えば、泉さんが「見せたい景色があって。」と言いだしたのが始まりだった。
「おはよう!」
「おはようございます。」
泉さんは、昨日と同じ和服だった。何着か同じものを持っているのだろうか。
「どこか行きたいところはある?」
「それが……。家から出てきたは良いんですけど、行きたいところが特になくて。何か、案内して貰ったり出来ますか……?」
そう聞くと、彼女は少しだけ迷った後に、スマホを取り出した。
「一人、呼んでも良い?」
「えっ、あっ……。はい……。」
今日は、泉さんだけではないのか。しかし、誰だろう。
「ありがと! ちょっと待ってね。」
すると、彼女は誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし? 水吉くん?」
水吉くん。ひょっとして、男性だろうか。
「急にごめんね。今、来られる?」
誰かを呼んでいるようだった。水吉くん。私は知らない相手だ。流石に、電話相手の声は聞こえない。
「ごめんごめん。別に、“それ”じゃないんだけど。ほら、昨日言ってたやつ。そうそう、それ。でさ、急なんだけど、車出せるかな?」
車を出すよう求めているだ。そうか、ここは車社会である。泉さんは車が運転出来ないとしたら、行動できる幅も限られる。だから、水吉くん、と言う人を呼んでいるのだろう。
「時間かかりそう? 分かった。待ってるよ。それじゃ、また後でね。うん。ありがとう。」
電話を切ると、こちらに向き直って言った。
「もう少ししたら、人が来るから。ちょっと、移動しようか。」
そう言われ、私たちは駐車場へと移動した。彌彦神社 参拝者第一駐車場。彌彦神社のすぐそばにある、大きな駐車場だ。
「ここに、来るんですか?」
「まぁね。車がここにあるの。だから、来るはず。車の方、行こっか。」
水吉くんの車と言うのは、青いミニバンだった。その大きさはもちろん、扉もやけに大きめであるが、自動車は知らないので、詳しいところは分からない。
「これ、ですよね。」
「そうそう。もう少し待ってよっか。」
少しの時間が流れた。
「泉さん!」
よく通る、男性の声だった。
「あ、水吉くん!」
泉さんが手を振った先を見る。
見やると、私や泉さんよりも一回り背の高い男性が、こちらに歩いてきていた。いかにも好青年、といった外見である。彼は泉さんとは違い、洋服を着ていた。この人も一体、何をしている人のだろうか。
―――そして、今に至る。
「それじゃあ、車出しますね。」
水吉さんの声だった。
「よろしく!」
そう泉さんに言われると、すぐに水吉さんは車を走らせた。
後部座席で二人、泉さんの隣に座っている。広い車内であるが、そこには大きな荷物が載せられ、少し身動きが取りにくかった。
「急に呼ばないでくださいよ。こっちだって、一応事情はあるんですから。」
「ごめんごめん。でも、水吉くんならいつでも来られるでしょ?」
「全く、あなたって人は人使いが荒い……。」
泉さんと水吉さんは、互いに気を遣う事無く話している。友達同士なのだろうか。それとも……。
「泉さんと水吉さんって、どういう関係なんですか?」
私は聞いた。続けて小声で、
「ひょっとして、彼氏さんですか……?」
と問う。泉さんはこちらを向き、両手を振ってすぐに否定した。
「違う違う! 私と水吉くんは……仕事仲間。みたいな? ね、水吉くん。」
ハンドルを握りながら、
「そうですね。そんなところ、です。」
と、水吉さんも言った。そもそも私は泉さんの仕事を知らない。二人とも回答がぎこちなかったし、実は本当に付き合っているのではないか。もしそうだったとしたら、この空間
は少し気まずいが。
「ところで、今どこに向かってるんですか?」
もしそうだったらと考えると気分が乗らないので、私は泉さんに質問をして、話題の転換を図った。
「美澄ちゃんは、レインボータワーって知ってる?」
「……はい。なんとなくは。」
レインボータワー。新潟市中央区の万代に「あった」建物だ。東日本大震災の影響で一部を損傷したらしく、2011年に営業を休止した。倒壊の危険は無いとされたが、やはり危険であるとの判断が下され、翌2012年には公式に営業を終了することが発表された。その後は街のシンボルとして残されていたが、2018年にはついに解体作業に入り、今となってはその姿はなくなってしまった。そのため、私の中のレインボータワーは、幼き頃の靄の中。少し外から見ただけの、ぼんやりした存在でしか無かった。
「それと同じものが弥彦山にもあってね。パノラマタワーって言うんだけど。今日はそれに乗ろうと思って。」
「まだ、あるんですね。」
「そうそう。パノラマタワーの方が先に出来たんだけど、まだ現役なの。おかげで、現役の回転昇降式展望台では日本最古なんだよ。」
「知らなかったです。そんな凄いものが、ここにあったんですね。」
「景色が絶景だから、楽しみにしててね。」
それからしばらく、私たちを乗せた車は、山頂へと続く県道561号線を進み続けた。
「さ、着きましたよ。」
車は駐車場に止まり、水吉さんの声がした。
「ありがとうございます。」
「ありがとう。」
私たちは車を降りた。パノラマタワーは、すぐそこに一人突っ立っている。
すると、水吉さんが言った。
「私はここで待ってますので。どうぞ、二人で行ってきてください。」
「えっ、水吉さんは良いんですか。」
私がそう聞くと、
「えぇ。実は僕……高所恐怖症でして。」
「……だってさ。行こっか。」
是非一緒にと誘おうとする私の背中を、泉さんが押した。
「えっ、ちょっ……。」
「早く早く!」
水吉さんはこちらに向けて手を振っている。
泉さんは私を押して、そのまま建物の中へと進んでいった。
「本当に良かったんですか? せっかくここまで来たのに。」
「……うん。まぁ、水吉くん高いところ苦手だから。良いんじゃない?」
「それなら、良いんですが……。」
「私、チケット買ってくるね。」
そう言って、彼女は受付の方へ歩いていった。
ここまで来たのに、勿体ないな。
水吉さんは、しっかりしていそうな人だった。そんな人が、高所恐怖症だとは。少しだけ、怯えている水吉さんも見てみたいなんて思いつつ、それは失礼だからと割り切った。
「美澄ちゃん、これがチケットね。行こ!」
一枚のチケット。パノラマタワーの写真が載せられていた。
売店を抜け、二階へと上がる。
立っている受付の人にチケットを見せ、切ってもらった。
「じゃあ、座ろっか。」
泉さんは、ずっとそわそわしている。
私は、円形に並ぶ赤いシートに腰掛けた。
「今日は晴れてたからね。雲も全然なくて。きっと良い景色が見られるよ。」
「そうなんですか ?」
その姿はまるで、無邪気な子供のようだった。もう少し落ち着いても良いのに。
でも、私もつられて楽しみになってきた。
「お待たせしました。それでは、発車します。」
扉が音を立てて閉まった。パノラマタワーは上へと動き出す。
「ほらほら、動いた!」
すぐに視界が開けた。そこに広がっていたのは、果てしなく続く、真っ青な水平線。
青い空。青い海。
そして、そこに見える佐渡島。
「綺麗ですね……!」
「でしょ! でも、ここも綺麗だけど、後ろ側の景色も凄いの!」
弥彦村から、こんな景色が見られるのか。今まで、知らなかった。
パノノラマタワーは、私たちを乗せて、回転しながら昇ってゆく。
そこから見えたのは、想像を絶する景色だった。
「―――っ!」
もう、声にならない。私はただ、その景色に圧倒された。
青い空は、こちらにも広がっている。だがそれだけではない。遠くには山々が見え、青々と生い茂った田畑が、その下には広がっていた。
田んぼは、横でずっと見てきた。ただ、見下ろしたことは無かった。ここまで美しいものとは、思いもしなかった。
ところどころに見える、木々の深緑。それぞれの人生がそこで芽生えているであろう、家の数々。
「泉さん!」
横を見る。
「何?」
「来て、良かったです!」
泉さんは、万遍の笑みを浮かべた。
「……でしょ!」
パノラマタワーは回る。越後平野が、視界から外れた。次に目に入ったのは、電波塔が立ち並んでいる山々。
「越後平野は、ここから電波が行ってるの。新潟県はもちろん、秋田の男鹿半島、会津盆地、能登半島、長野盆地。さらには群馬県でも受信出来るんだよ。美澄ちゃんが見るテレビも、ここから来てるの。」
「そんなに……!」
「そう。だから、ここでアマチュア無線はやらないでね? 電波が混ざって、迷惑になっちゃうから。」
「やりませんよ!」
アマチュア無線は、叔父がよくやっていた。とは言え、叔父の家に行く機会は少ないからやったことは無い。
そもそも、ここに来てアマチュア無線をやろうなんて、まず思わないし。
「冗談冗談。ところで、今日は佐渡も見えて良かったね。天気が悪いと、何も見えないからさ。」
「……そうなんですね。晴れてて、本当に良かったです。」
ここに来て、パノラマタワーは頂上に達した。そして、ここで会話が途切れた。少しだけ、静な空間が広がった。
「―――ねぇ、美澄ちゃん。」
泉さんがぼそっと言った。
「はい?」
急に、泉さんの声が小さくなった。先ほどまでの自信ありげな声量もなくなっている。
「あなたは……。」
視線が合っていたが、私の足下へと落ちた。
「あなたは、」
再び泉さんと目が合った。
「……私と会って、迷惑してないかな!?」
「……えっ?」
何か大事な事を言われるのかと身構えたものの、そんなこと無かった。
「いや、全然楽しいですよ! 昨日も、今日も。泉さんにしてもらってばっかりで……。むしろ、申し訳ないくらいです。」
「……そっか、良かった。」
たまに、この人はしんみりするような空気を作るよな。一体、何故なのだろうか。
無意識にやってるとしたら、ちょっと面倒だけど。
「あ。」
私がそう漏らしたのは、水吉さんが見えたからだった。私が手を振ると、彼はこちらに向けて、小さく手を振り返した。
「全然怖くないですし、水吉さんも来れば良かったのに。そう思いません?」
「そうだね。」
パノラマタワーは、回転しながら元いた場所へと戻ってきた。
「終わっちゃったね……。」
「はい。とっても綺麗てした!」
そんな会話をしている間に、
「ありがとうございました。」
と言って係員の人が扉を開けてくれた。
こちらも
「ありがとうございました。」
とお礼を言って、パノラマタワーを後にした。
「……どうでした?」
外で、水吉さんが待ってくれていた。
「とっても楽しかったです!」
「綺麗だったよ。」
水吉さんは、静かに微笑んでいる。
「良かったです。それじゃあ、そろそろお昼なんてどうですか?」
「あ……。」
見た景色があまりにも綺麗すぎて、すっかり忘れていた。
「行こっか、美澄ちゃん。」
「じゃ、行きましょう。クライミングカーで登った先に、レストランがあるんです。」
彼をじっくりと見てみれば、かけている眼鏡もよく似合っているし、やはり背もある。理知的で、性格も良さそうだ。相当、彼自身モテるのではないだろうか。泉さんの隣にいるのが、またイケメンであるとは。恋愛的な感情とかそう言うのではないが、私もこの人達の隣に立てるようになりたい。そう、常々思ってしまう。
クライミングカーは、私たちをほぼ垂直に山頂へと運んでいった。
「おおっ……。」
パノラマタワーのように回りはしないが、また視界が開け、綺麗な景色が広がった。
「本当に綺麗でしたよね。」
私がそう言うと、
「また来ようね!」
と泉さんも笑って返してくれた。
「高所恐怖症なんて勿体ないですよ、水吉さん。もう一度来るときは、一緒に乗りましょうよ。」
水吉さんは、苦笑いを浮かべている。
「いやぁ……そうですね。またの機会にお願いします。」
さえない返事だった。
クライミングカーが、山頂に到達した。
「こっちです。行きましょう。」
水吉さんが前を歩いて先導する。私はその後ろで、泉さんと歩いていた。
「水吉さん、ずっと私たちに対して敬語ですよね。でも泉さんは、敬語じゃないじゃないですか。どうしてですか……?」
「え~っ……と。まぁ、昔にいろいろあってね。詳しくは秘密。」
また秘密だ。どんな人なのか。どういう過去があるのか。悪い人ではないことは確かだが、表面上のことしか分からず、その素顔が見えてこない。
二人とも一体、何者なんだ。
私たちは、お店に入った。
『弥彦山ロープウェイ 展望食堂』。建物には大きく、展望食堂とだけ書かれている。一階にフードコートがあったが、二階のレストランへ移動した。
「美澄ちゃんは何にする?」
「そう、ですね……。」
壁には、一面にメニューが貼られている。種類が多くて、もはや何が何だか分からない。
「席を取ってきますね。少し待っていてください。」
水吉さんはそう言って離れていった。私が迷う時間を、間接的にくれている。
本当に、ありがとうございます……。
「オススメとか、ありますか?」
聞いてみる。泉さんは悩んでいるようである。
「ここはどれも美味しいけど、迷ったらカレーとかラーメンかな。」
「へぇ……。」
確かに、カレーやラーメンはメニューに堂々と載っている。私はしばらく悩んだ。泉さんも、隣でメニューを見て考えている。
「じゃあ……やひこ」
「はいっ!?」
泉さんが飛び上がるようにして言った。
ただでさえ和服は珍しいのだ。その少女が急に大声を出したのだから、皆がそちらを見た。
「えっ!?」
私も驚いた人の一人だった。驚きの声を上げ、泉さんを見る。
「えっ……? あっ。」
「やひこ、ラーメンを。」
普段は白いはずの泉さんの顔が、少しずつ紅くなっていったのが見て取れた。
やひこラーメン。具材が贅沢にのったラーメンである。それを言ったつもりだったが、名字を呼ばれたと勘違いしたのだろうか。
「名字、『弥彦』ですもんね。仕方ないですよ。すいません。」
と慌ててカバーに入る。周りは、ある人は泉さんを不思議に思い、ある人は心配そうにしており、ある人は大声を出したことに不満げな様子である。とにかく、皆が泉さんのことを見ていた。
「言わないで……。」
よっぽど恥ずかしかったのだろう。泉さんはしゃがみ込んだまま、両手で顔を覆っている。
「長原さん、泉さ……って、え?」
丁度、水吉さんが来た。しゃがみ込み顔を紅潮させている泉さんと私とを交互に見て、何があったのかと驚いているような顔をしている。
「長原さん……。これ、何があったんですか?」
「えっと……。」
私がなんと言おうか戸惑っていると、泉さんが
「なんでもないです! 美澄ちゃんやひこラーメンだってさ、私越後もち豚カレーね!」
と私の言葉を遮った。その顔はまだ少し紅かったが、泉さんはとにかく切り替えようとしている。
「はいはい……。それじゃあ、買いましょうか。」
注文を行い、ご飯を貰って、水吉さんが取っていた席へと移動した。
「水吉さんは……。」
「『昼 御膳』ですね。」
なんだか、たくさんのった定食のようである。私はやひこラーメン、泉さんは越後もち豚カレー、そして水吉さんは昼 御膳を注文していた。
「とても美味しいですし。それに、ラーメンに天丼、漬け物にいろいろ付いていて……。お得感もあるんです。」
「へぇ……。」
「じゃあ、いただきます!」
はじめに言ったのは泉さんだった。私と水吉さんも、それを見てすぐに箸をつけた。
やひこラーメンは、チャーシュー、ネギ、海苔、メンマ。具材を贅沢にのせている。そして、太めの麺がポイントだ。見た目だけでも、美味しさが伝わる。
口に運ぶ。醤油のスープがからんだ麺に、思わず舌鼓を打つ。
「美味しい……!」
「でしょでしょ!」
泉さんは左隣。その正面に、水吉さんは座っている。
「良い眺めを見ながら食べるご飯って良いですね!」
「そうなんだよ! だから、私もよく来るの。」
水吉さんは、箸を止めてじっと泉さんの事を見ている。何か考え事をしているようにも見られた。
「……泉さんって、お仕事はお休みなんですか? 昨日も今日も、平日じゃないですか。夏休み、とか?」
「いや、夏休みとかじゃないんだけど……。なんて言うかな、不定期というか。平日に仕事、土日が休み、とかはあんまり決まってなくて。ね、水吉くん。」
そう聞かれたが、水吉さんは少しだけ不服そうに答えた。
「私は泉さんと違って、別の仕事もあるんですがね。」
「何~、急に呼び出したの怒ってる? ごめんってば。でもさ、私の傍にいるのも、君の仕事でしょ?」
泉さんは恥ずかしげもなく、当たり前のように言っている。
「……それもそうですけど。私が言いたいのはそういうことじゃなくて……。」
水吉さんは呆れ顔である。なんだこれは、カップルのイチャつきでも見せられているのか。やっぱり二人とも付き合っているんだろう。もういいぞ、イチャつきはもうお腹いっぱいだ。
「そ、そうなんですね。」
なんとか話を切ろうとした。このせいか、少々疲れた気がする。
この話はお腹いっぱいだが、ラーメンを食べる手は止まらない。
チャーシューを口に運ぶと、その美味しさが溢れ出て、口の中で広がった。
「~~っ!」
箸が止まることを知らない。美味しい。
「美澄ちゃんいっぱい食べるね~。一口あげる!」
「私からも、どうぞ。」
泉さんと水吉さんが、それぞれそう言って器を差し出している。
「そんな……いいですよ。」
私はこれを拒否した。
「ここのご飯本当に美味しいからさ。食べてみてよ。ね?」
「えぇ。長原さんは、ここにはあまり来られないでしょうし。」
そう促されては、断りようもない。私はラーメンを食べる手を止め、まずカレーに手をつけた。
「……美味しいです!」
コクのあるルーの旨みが、お米と絶妙にマッチしている。もう一口、もう一口と食べたくなるような美味しさだ。
「でしょ!? やっぱり、カレーとラーメンのお店なだけあるよね!」
「ここって、そうなんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ? このお店は、カレーとラーメンをオススメしてるの。」
「そうなんですね……。あ、こっちも一口……いいですか?」
私が聞いたのは、水吉さんの天丼だった。舞茸の天ぷらが、どーんとのっけられている。
「どうぞどうぞ。」
「ありがとうございます。」
一口分取って、口に運んだ。
旨み溢れる天ぷら、そしてタレの染みたご飯。たちまち全身に電撃が走って、身震いしたのが分かった。
「これも、美味しい……!」
「気に入っていただけたようで何よりです。」
二人が言っていたように、本当にどれも美味しい。もしまた来る機会があったら、これらを頼んでもいいかもしれない。
三人とも食べ進め、あっという間に完食した。
「ごちそうさまでした~!」
私たちはお店を出た。もう食べられないほど満腹である。
「美味しかったですね。」
「そうだよね~。やっぱり弥彦山は良いね。あ。あそこ、彌彦神社だよ。」
そう言って指したのは、森林?
「あれが、ですか。」
「彌彦神社は、森に囲まれてたでしょ? あれが彌彦神社の森なの。」
その森林は随分広かった。彌彦神社、あんなに広いのか。
「ところで、これからどうしましょうか。」
私が聞いた。
「……すいません、長原さん。少し急用が出来まして。僕と泉さんはそっちの方に行かせてください。」
そう、水吉さんが申し訳なさそうに答える。
「えっと、じゃあ私は……。」
「もちろん、御自宅まで送ります。とりあえず、車の方に向かいましょうか。」
「はい……。」
「行こう! ほら、早く!」
泉さんが言った。その顔はいたって真面目そうで、何か深刻な用事であろうことを物語っている。
「あっ、ちょっと……。」
私たちはクライミングカーに乗って駐車場まで降りると、すぐミニバンに乗り込んだ。
「それでは、出ます。」
水吉さんの様子は変わらない。ただ、泉さんの口数は明らかに減り、しきりに辺りを見渡している。
楽しかった空気は一変し、車内はずっと静かだった。急用。もし二人が本当に仕事仲間だとしたら、相当緊急性の高い仕事なのだろう。それは、泉さんの変わりようから推測できる。しかし、一体なんの仕事なのだろうか。
「今更ですが、御自宅はどこに?」
水吉さんが言うので、
「祖父母の家は、美山の方です。近くに降ろしてもらえれば、そこからは自分で帰ります。」
「分かりました。ありがとうございます。」
ここから何かしら話が展開されることを願ったが、水吉さんもすぐに黙り込んでしまった。とはいえ私から話をするのも何か違って、私もただ、外の景色を見つめていた。
「長原さん、到着しました。」
大通り沿いに車が停車した。私は車を出る。
「ありがとうございました。」
「……また、会おうね。」
それまで口を閉ざしていた泉さんが、一人言のようにぼそっと言った。
「こんな形ですいません。この埋め合わせは必ずどこかでしますので。……それではまた。」
私がドアを閉めると、車はすぐに走って行った。泉さんは、ずっと深刻そうな表情である。
「……帰ろう。」
まだ日は暮れていない。だが、もう十分遊んだ。今日のところは帰ろう。
夏の暑い日差しが、私を照らしていた。
「それで、どこに?」
泉さんと二人、彌彦神社へと走る車の中。彼女が聞いてきた。
「あーっと……。実は、“その”件ではなくてですね。」
彼女は何か勘違いをしている様だった。確かに、彼女はずっと警戒している様子だった。申し訳ないが、今回はその件ではない。
「え、じゃあなんで美澄ちゃんと別れたの? 嫉妬? 美澄ちゃんと仲良くしてたから?」
本当に疑問に思い、心当たりがないようである。
「んな訳……。」
あなたに対して、嫉妬などあるわけがないだろう。僕は二人で話がしたかっただけだ。それに、長原さんを一日中ずっと拘束するわけにもいかない。
「……話せました?」
聞いてみる。この事が聞きたかった。
彼女はさっきまでふざけていたが、こちらからしてみればとても真面目な質問だ。
「何のこと?」
「二人になる場面、何度か作ったんですよ。」
「……よく、分からないな。」
すっとぼけている。分からないはずがない。
だって僕は、前に一度も高所恐怖症などとは言った事がない。彼女とはもう長年の付き合いになるが、その中で一緒にパノラマタワーに乗ったことさえあった。あの時僕の言葉に疑問を呈しなかったことを考えれば、僕の意図が伝わっていなかったはずがない。
「あの人なんでしょう。」
彼女は、静かにこちらを見ていた。彼女が言わないので、僕が続ける。
「……あなたの、尋ね人。」
また、泉さんの沈黙だ。微笑を浮かべながら、こちらを見つめている。自分に都合が悪い時。何か、言い辛いことがある時。彼女はいつもこうする。
「その目。久しぶりですね。」
何も言っていないのに、こちらを見つめているだけで、威圧感さえある。
「なんとか言ったらどうですか。僕に隠す必要ないでしょ。」
長い沈黙。もう駐車場は目の前だ。それに着く前に、これは聞いておきたい。
彼女の声は、とても小さかった。
「…………まさか、ね。」
「もしもし。」
翌朝だった。泉さんのスマホから、電話がかかってきた。
『おはよ。昨日はごめんね。』
変わりない、泉さんの声がした。
「あ、いえ。急用だったんですよね、仕方ないですよ。」
『それでさ、昨日の分も、何かお返ししたくて。また会えないかな?』
「あぁ……。明日以降でも、良いですか?」
そう言ったのは、今日はおばあちゃんの通院があるからだ。
『もちろん! 明日が良いかな、明後日?』
「え~っと……。」
急に言われても、困るな。
「そうですね……。明日、とか。」
そもそも、私は二週間くらいここにいる予定なのだが、ここには遊ぶ友達もいないし、祖父は日中農作業。祖母は安静にすることを促されているし、母も祖母の隣にいなくてはならない。結局、やることもなく暇なのだ。
ずっとのめり込む趣味もなく、お金も貯まっていたことだし。この夏は、あの人と遊ぶことに集中しても良いかもしれない。
『分かった! 水吉くん連れて、迎えに行くよ!』
「分かりました。」
『それじゃ、またね。』
「はい、また。」
電話が切れた。
「美澄、行くわよ~!」
母の声がした。呼ばれている。
「今行く~!」
祖母の通院の付き添いだ。すぐに荷物を持って、私も階段を降りた。
「いやぁ、ゆっくりですけどね。治ってきてますよ。これなら専門の病院に行く必要もなさそうですし、無理なさらずに今の生活を続けてください。」
「そうですか、ありがとうございます。」
おばあちゃんも高齢者だ。治るのが遅いのも仕方ない。とはいえ、順調なようで何よりだ。
「失礼しました。」
私たちは整体外科を出た。
「付き合わせて、ごめんね。」
車に乗ると、おばあちゃんが言ってきた。
「そんな、謝ることないわよ。ね?」
母が言ったので、私も
「そうだよ。迷惑なんてかかってないし。」
とカバーに入った。実際に迷惑でなんてないのに。なぜ、祖母は謝るんだろうか。
家に帰った。夏の暑い日差しが照りつけている。すぐさま家に飛び込んだ。
「外あっつ~……。」
平野の一部では蝉の声が聞こえないのだが、ここでは聞くことが出来る。夏の風物詩を感じられた気がする。
後はもう暇で、遂にコイツの存在を思い出した。
「う゛ぁ~っ……。」
宿題である。このペースで行けば……なんて皆がはじめに考えるが、結局そうはいかない。最終日までもつれ込むことこそないが、八月の半ばまでため込むのが私のルーティーンだった。
仕方がない。やるしかない。
難易度的にはそこそこなのだが、何せ量が多い。早めにやらねば、痛い目を見る。
私は頭を悩ませながら、宿題を解いていった。
問題を解いていくのは良いが、やはり人間というのは集中力が切れるもの。私も例に漏れず、しばらく問題を解いている内に集中力が切れてしまった。その時、ふと明日のことが頭に浮かんだ。
あれ。迎えに来てくれるとは言ってたけど……。時間とか、決めてないよね。場所も、家の前に来られると困るな……。また、母にいろいろと言われたくはないし。
早めに言わないと……。あぁでも、今スマホに手を延ばしたら、永遠に触ってしまう気もするし……。
少しだけ悩んだ末、もう良いと思い、泉さんに連絡を取ることにした。
スマホを起動し、泉さんを探す。
見つけた。
今は……四時半だ。どうなのだろう。電話した方が早いだろうが、それは迷惑をかけるかもしれない。いや、でも不定期とか言ってたし……。まぁ、やってみるか。
私は泉さんに電話をかけた。
呼び出し音が続く。
十秒ほど経ち、だめだったかと思ったその時、呼び出し音が止まった。
『ごめんごめん! もしもし?』
良かった……。
「もしもし。美澄です。今、良いですか?」
『大丈夫だよ。どうしたの?』
スマホから、かすかに水吉さんの声が聞こえた気がした。今は職場だったのだろうか。
「明日なんですけど。何時に集合するのかな、とか。あと、場所も家の前じゃなくて昨日の場所が良くて。」
『あぁ~、もちろん。何時集合が良いかな。』
「九時以降なら、いつでも良いんですけど……。」
『九時以降ね、分かった。多分午後になると思うんだけど、明日は行きたいところがあるから、水吉くんと一緒に迎えに行くね。』
「分かりました。」
『迎えに行くときに電話するから。じゃ、また明日ね!』
「はい。失礼します。」
電話が切れた。明日への不安もなくなり、私は少し背伸びすると、また机に向かった。
明日も遊ぶし、今日はもう少し勉強しよう。
私はまたシャーペンを握った。
「それじゃ、行ってきま~す。」
「今日は、どこ行くの?」
「秘密。大丈夫、弥彦村からは出ないから。」
翌日。私は泉さんから『今から出るよ』という電話を受け、家を出ることにした。母は毎度のように言ってくるが、少しウザい。父は工場にいることが多いだけに関わりが少なく、もはや私の反抗期は母親に対してだった。
私が扉を開けて家を出ると、おじいちゃんが車に乗ってちょうど出ようとしていた。
「おう、美澄か。」
「おじいちゃん。」
「どこ行くがね?」
これが母だったら、はぐらかしていたところ。それでもおじいちゃんならもっと信頼出来るし、優しい人だったので、素直に話すことにした。
「ちょっと、仲良くなった人と遊びに。変なことはしないから、安心して。」
「……そうか。まぁ、気をつけるこて。」
「うん。行ってきます。」
私は一昨日に泉さんたちと別れた場所へと向かう。その後ろから、おじいちゃんの軽トラが追い越していった。
「あれ、かな……?」
こちらへ来る、青のミニバン。おそらく、あれが昨日乗った車。ナンバープレートまでは覚えていないので、確信はない。
すると案の定、そのミニバンが私の前で止まった。助手席の窓が開き、
「おはよう! ほら、乗って!」
と言って泉さんが顔を覗かせた。
私はドアを開け、昨日も座った座席に腰を下ろした。相変わらず大きな荷物はそのまま。「踏まないように」と注意されたので、足はそちらに向けないようにしておく。
「今日はどこに行くんですか?」
発進した車の中で、私が聞いた。ルームミラー越しに、彼女と目が合う。
「今日はね……。温泉です!」
「温泉、ですか。」
「弥彦村は、温泉も湧いててね! 一緒に行きたくて。」
少し会話が途切れたのを見て、水吉さんが声をかけてきた。
「あと、十分くらいで着きますので。」
「ずいぶん早いんですね。」
「弥彦村自体、そんなに大きくないしね~。」
泉さんがそう言った。確かに、弥彦村は新潟の中で、あの粟島を抜けば一番小さかったはず。
「弥彦村の面積は25.2㎢。全国の市町村の平均面積が150㎢くらいだったはずだから、それにも及ばないの。」
「村上なんて……。」
そう聞くと、
「1000を超えてなかったかな。」
と返された。
「格差、すごいですよね……。」
「まぁね。おかげで岩船郡から離脱することになったし。今度行ってみたら? 大きいから。」
「そうですね……。」
幸い新潟市と村上市はともに下越にあるので、村上には行きやすい。有料道路を使わずとも、一時間半である。長くはあるが、十分許容範囲だ。ちなみに、糸魚川から村上まで移動しようとすると二時間。有料道路を避けると五時間はかかる。小さい時に調べて、恐怖した思い出がある。
そんなたわいもない話をして、すぐに温泉に着く……はずだった。
「水吉くん、出たよ!」
大きな声だった。何かを報せる、暗号?
私にはよく分からない。
この声がしたのを境に、車内の空気が一変したのを感じた。
「観音寺の方向かって!」
遅れて、水吉さんがスマホを取り出した。
誰かから電話がきているようだ。
ハンドルを握りながら、片手でスマホを泉さんへと渡す。彼女はそれを受け取った。車は速度を上げ、道を左に曲がる。
「はい、こちら泉。はい。」
切羽詰まった声で、誰かと会話しているようだ。何があったのだろう。これが、彼女らの言う「仕事」のことなのだろうか。
「了解。いますぐ向かうね。」
電話が切れる。水吉さんの方を見やり「千晴、やっぱ観音寺。そっち向かって。」と言うと、今度はこちらを見た。
「……ごめん美澄ちゃん。今からそっちの席行くね。」
と言ったかと思うと、今度はシートベルトを外しはじめる。
「えっ、ちょっ。」
走行中にシートベルトを外したため、警告音が鳴った。自分の背中にシートベルトを通し、固定する。
「移動するよ。」
「危ないですってば!」
普通は運転席と助手席の間にあるはずのセンターコンソールがこの車には無く、スムーズにこちらへ移動してきた。私は車の左側座席に座っていたが、彼女は右側の座席に座り、車内に置いてある荷物を手に取る。慣れた手つきで紐を解き、その正体があらわになった。
「……弓?」
出てきたのは、長い弓。袋が細長いので疑問には思っていたが、大きな荷物と思っていただけ。まさか、弓だったとは。
「ところで、それで何を……?」
彼女はもう一つの袋を手に取る。そこには、矢が複数本入れられた箱のような物があった。彼女は矢の本数を数えながら、淡々と答える。
「……人の命を、護りに。かな。」
全くもって、何を言っているのかが分からない。だが、妙にたくましいその背中といったら。彼女の声は至って真面目で、緊急事態であることが分かった。
「そろそろです。」
水吉さんの声。車が止まった。
「あの、私はどうすれば……。」
そう聞くと、泉さんと水吉さんはルームミラー越しに顔を見合わせ、少し考えた後、
「私が一緒にいます。車内で待機しましょう。」
と水吉さんが言った。泉さんも、これに賛同している。
「何かあればすぐに行きます。気をつけて。」
目的地の観音寺に到着し、車のドアが開いた。泉さんは矢の箱を腰につけて弓を手にすると、そのまま器用に外へ出る。
「そっちこそね。行ってきます。」
「あの……。」
小声で喋りかけた。伏せて顔を出さないようにと言われているので、周囲の事が確認出来ない。
「なんでしょう。」
「……何が起きてるんですか? 温泉は?」
今の今まで、何が起きているのかが理解しきれていない。急に目的地を変えて、急に弓を出して、急に危ないから伏せてろって……。
「……それは、泉さんの方から聞いてください。」
「でも、急にこんなことになって、訳分からないんですけど。」
「……私たちの仕事は、言ったって分かりませんよ。」
水吉さんが吐き捨てた。悲しい言葉だった。二人の世界から隔絶され、私は輪の中に入れていない、ただのひとりぼっち。そんな気がした。
「とにかく、命の危険もあります。今は静かに。」
何が起きているの? そんな疑問を声にしても、掻き消されるだけ。結局自分の中で押し殺すしかなく、ただただこの時が終わるのを願った。
「―――! ――っ!」
しばらくしてのこと。誰かの声がした。聞いたことのある声。
「泉さん?」
何があったのだ。顔を上げて、泉さんの姿を確認しようとした。
「駄目だ、伏せて!」
怒鳴られたので、すぐに頭を下げる。
「千晴、出して!」
「分かってます!」
泉さんが車に飛び乗ってきた。水吉さんもすぐ運転席に戻り、車を発進させる。
「人型、数一。第一段階での祓いが失敗しました。車内からの祓いを試みます。」
泉さんの報告。水吉さんも地図を確認しながら対応する。
「分かりました。これから一般道を直進します。車の向き変わりません。」
「了解。」
観音寺からの道を、車は物凄い速度で一直線に駆け抜けていく。
彼女は車の窓を全開にして、こちらに向くようにしながら、一回り小さい弓を片手に上半身を乗り出した。
「危ないですよ!」
少しだけ生暖かい風が車内に吹き込んだ。私はそう言ったが、彼女は「大丈夫。」とだけ答えてこちらには見向きもしない。その黒い髪をびゅうびゅうと吹く風になびかせながら、まっすぐと後ろを見つめている。
私もこっそり、体を起こして後ろを見てみた。
するとそこには、にわかには信じがたい光景が広がっていた。今の時代にはあり得ない、甲冑を身に纏った武士のような何か。それが馬に乗って、こちらを凄い形相で睨みつけてきているのだ。車に匹敵するような速さで、こちらを追って来ている。
「何、あれ……。」
私はまたすぐに身をかがめた。そこにいるのは化け物である。人の形をした、人ではない化け物。そう、妖怪のような。
思わず戦慄いた。恐怖に全身が震える。
怖い。なんだあれは。
「駄目だ、ぴったり後ろにつかれてて狙えない!」
風の音がうるさいが、なんとか泉さんの声が聞こえる。彼女は右側の窓から無理やり身を乗り出しているが、体を捻るのにも限界がある。車の真後ろは死角になり、撃てないようである。
「まだですか! もう事故になりますよ!」
水吉さんが急かす。彼女は車に乗り込んでからはまだ一回も弓を射ていないまま、時間だけが去っていく。風が強く吹き、車内にもその轟音が伝わる中、
「あぁもう! 美澄ちゃん、ちょっと支えて!」
と言われたのが聞き取れた。
「え……。」
「早く!」
恐怖に身を固めていたが、無理やり恐怖に硬直する体を引き起こす。
なんでこんなことに!
なんて思いながらも、一刻も早く言われた通りに彼女を支える必要があった。
体を支えろというものの、どう支えたら良いのか。正解も分からぬまま、私は両手で抱きしめるようにして、彼女の体を支える。その時だった。
『泉ちゃん。』
それは儚い声だった。誰かの声。女性の声。まさかと思い後方を見たが、化け物は鬼のような顔をしてまだこちらを追ってきている。背格好は完全に男性である。ジェンダーレスとかはさておき、少なくとも彼の声では……ないはずだ。じゃあ一体、誰の声……?
「もう大丈夫。みんな平和に生きてるよ。君が守ろうとした世界で、皆平和に生きてる。だから……。」
泉さんは、何かぶつぶつと話している。
すると彼女はさらにぐっと身を乗り出して、弓を引いた。私も慌てて力を入れ、泉さんが車の外に転げ落ちることのないようにする。
「還って!」
その瞬間、彼女は矢を放った。
その矢はまっすぐと、綺麗に綺麗に飛んでゆく。
化け物の胸、甲冑を貫き体に刺さった。
直後、その化け物は砂のように消えていくではないか。その時の表情といったら、先ほどまでの鬼のような形相からは打って変わり、心なしか穏やかに見えた。
「……命中。対象の消失を確認。」
泉さんは車内に戻り、この報告をした後、一息つくといつもの笑顔に戻った。次に言葉を発したのは、水吉さんだった。
「……お疲れさまでした。矢の残数の確認をしておいてくださいね。」
「はいはい。」
泉さんは、慣れた手つきで腰に付けた箱の中を確認しはじめた。
「それで、これからどうします?」
「温泉……かな? とりあえずもう大丈夫でしょ。」
「分かりました。」
二人は慣れている様子であるが、私は納得出来ていない。
「あの……。あれって、結局なんだったんですか。」
怖い。でも知りたい。ここまで来て、私だけお客様扱いだなんて、輪の中に入れないよそ者だなんて、そんなの嫌だ。
「それは……。」
言葉に詰まる様子である。それでも、私は強気でいくことにした。だって、私は巻き込まれた側だ。
「私にも、知る権利があるはずです。教えてください。あの化け物のこと。泉さんのこと。全部、全部教えてください。」
あの威圧感の混じった微笑は無かった。そこにあったのは、また悲しい言葉。
「……言ったって、信じてもらえないよ。」
またか。水吉さんもそうだった。なんで、そうやって隠すんだ。
「信じます。信じますよ。だから、教えてください。」
しばらく躊躇った後、彼女はようやく口を開いた。
「あれは……昔の人の恨みや妬み、未練が形となったものなの。」
……は?
概念的なものってこと? いやまさか、フィクションじゃあるまいし。そんなこと言われても。
「そういうのが強いとね、体が死んでいても、その心がこの世に残るの。私たちはそれを、『物の怪』と呼んでる。」
そう言われても、整理がつかない。
「ものにもよるけれど、それが人や村に悪さをすることがあるの。人に取り憑いて病気にさせたり、最悪死に至らしめることもある。村に凶作をもたらしたり、災害を起こしたりもね。だから、物の怪が悪さをする前に祓う必要があるの。」
「……物の怪は人に害をなす存在、って事ですか?」
そう聞くと、彼女は慌てて否定する。
「でもね。みんながみんな、悪い子じゃなくて。それぞれ辛い過去があって、たまたまあんな風になっちゃっただけ。悪さをしない子もいるし。だから、勝手に悪者だと決めつけて、化け物だ、なんて言っちゃいけないよ。」
急に諫められた。いや、これに関しては勝手に決めつけたこちらが悪いのか。
「……すいません。」
「いいの。それでね、その物の怪たちから人を護る必要があって。……そのために、私たちがいる。」
「私たち……?」
「そう。私たち、護り神。人を護る使命を負って、護り神は生きてるの。……話が早すぎて、よく分からないかな?」
「そう、ですね……。あまり、理解しきれないです。……水吉さんも護り神なんですか?」
運転席から響いてきた、笑い声。
「いえ、僕はただの人間ですよ。泉さんの補佐、ってところです。」
「護り神は基本一人だからね~。まぁこんなこともあるから、基本的に水吉くんとは一緒にいるの。」
だから仲が良いのか。そもそも、護り神がよく分かってないのだが。
「ところで、怪我はない?」
私を見て、心配してくれているようである。
「大丈夫です、私はなんとも。」
「そう、よかった。見るだけで取り憑かれたりしちゃう時もあるからね。何かあったら、言って。」
「分かりました……。」
そんなに怖いものだったのか、あれは。それは確かに、水吉さんが伏せろと言うわけだ。
「もう少しで着きますよ。」
「はいは~い。」
未だ頭は追いついていないが、車内の緊張感はなくなり、すっかり元の雰囲気に戻っていた。
「さぁて、入るよー!」
「お、おー……!」
温泉に着いたということで、とりあえず入ることになった。
―――いやいや、こんな状況で入れるか!
とは思うのだが、とにかく疲れを癒やそうということで、入ることにした。
私たちが来たのは、『四季の宿 みのや』さん。どうやら弥彦村に古くから根付く温泉なようで、泉さんはよく利用するらしい。
広い館内を上がり、客室棟「夢の館」の最上階へと行く。すると、そこには男湯と女湯、どちらもがあった。
「それじゃ、また後でね。」
水吉さんと私たちは、湯のれんの前で別れた。
更衣室へと入り、服を脱いだ。
「さてさて、行くよー!」
展望大浴場「織姫」へと入る。
外の見える大浴場。そこには人の姿がなく、この空間にいるのは私と泉さんだけだった。
「貸し切り状態だ……!」
「珍しいね。やった~。」
こんなに大きなお風呂で堂々と声を出しても、誰にも怒られない。不思議な感覚だった。
「ここの温泉はね、アルカリ性の温泉なんだよ。美肌効果があるの!」
体を洗いながら、泉さんが言った。
「そうなんですか。やった。」
「疲労回復もしてくれるんだ~。温泉に浸かるのも、美容の秘訣だよ。」
泉さんが美人なのは、そういうこと?
……それはさておいて、美肌効果があるのはとっても嬉しい。
お風呂に入るのが楽しみになってくる。
「気持ち良い~。」
温かいお湯に浸かる。ぬるぬるとしたアルカリ性のお湯は、体に染み入り疲れを癒やしてくれる。
「良いよね、ここ。湯加減も丁度良くて、何度でも来たくなっちゃう。」
確かに、泉さんの言っている事が分かる。
これは何度でも来たくなる気持ち良さだ。
数分が経ち、泉さんが言った。
「織姫も良いんだけど、露天風呂もあるの。行こ!」
外へ移動する。そこには大きな露天風呂があった。
「わぁ……!」
そこに広がっていたのは、新緑映える弥彦山。大きく、広く。どっしりと構えている。
雄大さ溢れる、良い景色。
「こうやって見る弥彦山も良いよね!」
「自然って良いですね……!」
「あ、良さが分かってきた?」
自然の見える露天風呂。どうやらここにも人はいないようだった。
足からそっと温泉に入る。
「怪我とか、本当に大丈夫?」
泉さんはずっと心配しているようだ。
「大丈夫です。それよりも、まだ唖然としていると言うか。」
もし同じ状況に置かれたら、誰もが同じ反応をするであろう。見ているものを信じられず、ただ恐怖し混乱する。
しかし、何故だろう。
あの時私は、おぞましいそれを目前にして動くことが出来た。
今更になって、また恐怖がこみ上げてくる。
「あんな光景を見ちゃったら、誰でもそうなるよ。そもそも、普通の人が物の怪を見たら気分を悪くするのに。」
そんなに? 物の怪、危険すぎやしないか。
「……あ。」
そういえば。
「何かあった?」
「泉さんが弓を引いて、戦ってた? 時あったじゃないですか。」
あの時聞こえた声。泉さんなら、分かるかもしれない。
「その時、誰かの声がしたんです。『泉ちゃん。』って。女性の声で。泉さんも聞こえました?」
彼女は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「それって、詳しく話せる?」
身を乗り出し、食いついてきた。
「えっと……。泉さんが矢を撃つとき、私が抱きついて支えたじゃないですか。その時、確かに聞こえたんです。どこからかは分からないんですけど、少し高い声で、泉さんを呼んでました。……これも、物の怪ですか?」
「いや……、私は聞こえなかった。それって、私を支えてくれたとき?」
「はい、そうです。」
真剣そうな顔をしていた。
「……やっぱり、そういうことなのかな。」
そういうこと?
「なんですか?」
「いや、これを言っても……。分からないと思うな。ちょっと、ショックを受けるかもしれないし。」
一体何が言いたいんだ?
「……なんですか?」
「……急に言われても、分からないかもしれないけど。落ち着いて聞いてね。」
また、さっきのやつみたいな話だろう。急にわけの分からない話をされて。当たり前かのように片付けられる。
彼女は続ける。
「……私と美澄ちゃんはね、実は初めましてじゃないの。」
衝撃のカミングアウトだった。確かに、私と泉さんとはこれが初めてなはずだ。前に会ったことが……? いやでも、記憶にない。だったら、あの時か? 小学生の時に、弥彦村に来た。その時の話だろうか。いやでも、別にそこで新たな人とは……うん。会っていないはずだ。
「それってどういう―――」
「正確には、私と美澄ちゃんではないんだけど。」
被せるように言われた。この人は一体、何を言っているのだ。
「……生まれ変わりがあるとしたら、美澄ちゃんはそれを信じる?」
「え……?」
「美澄ちゃん。私は、君の前世で会ったことがあるの。」
急に言われても、呑み込めなかった。転生の話をされて、君の前世で君と会ったって。そんなこと言われても、分からない。
「これは、昔の話になるんだけど。香子ちゃんって言ってね。一人の女の子がいたの。その子は私とずっと一緒にいたんだけど。いつだったかな。急に、私の前から消えちゃって。それからもう、ずいぶん経っててね。きっともう、亡くなったんだって思ってた。でもね。君から、その子を感じたの。」
「感じた?」
「そう。香子ちゃんと、同じ雰囲気がした、というか。不思議だよね。何故か分かるの。その子の記憶が、美澄ちゃんを見た時に蘇ってきて。」
「でも、それだけじゃ私が香子さんの生まれ変わりだって分からないじゃないですか。」
「確かにね。でも、今の話を聞いて、確信したの。その声はきっと、『記憶』だよ。」
「……記憶?」
「そう、記憶。前世の記憶が、私と触れたことを通して蘇ったんだと思う。その声はきっと、前世での記憶なんじゃないかな。」
何を言っているのか、よく分からない。
先ほどの話も理解したつもりだった。でも、今になって考えてみると、情報が多すぎる。
……目が回ってきた。体が熱い。ゆっくりと視界が歪み、すぐに暗転した。
「―――ってあれ、美澄ちゃん? 聞いてる? えっちょっと、美澄ちゃん? 美澄ちゃ~ん!!」
次に目を覚ますと、そこは大浴場の中ではなかった。……更衣室?
「あ、起きた? 良かった~。」
右隣に、泉さんがいた。
お風呂で急にのぼせちゃって、と説明される。どうやら私は、温泉の中で気を失ってしまったらしい。
「疲れとかもあっただろうし、長話もしちゃったから。ごめんね?」
「いえ、私こそすいません。わざわざ対応して貰って。」
私は大浴場内で気を失ったらしいが、既に温泉からは上がった状態で目を覚ました。水吉さんが手伝うわけでも、他のお客さんがいたわけでもないので、いろいろと対応してくれたのだろう。
「……着替えよっか。辛かったら言ってね、まだ休んでても良いし。」
「えっ……あっ!? はい!」
私は、タオルを巻いただけだった。慌てて着替えて、二人で外へ出る。
「随分遅かったですね。」
湯のれんを手ではらって出ると、先に水吉さんが待っていた。
「女の子のお風呂は長いんです~。」
泉さんがそう言った。確かにそれもあるかもしれないが、今回はそれが原因ではない。私のせいだ。
泉さんが言っているのは優しい嘘。ありがとうございます……。
お風呂から上がり、一息ついた。
「……今日は、本当にすいませんでした。こちらの事情に巻き込んでしまって。改めて、お詫びします。」
水吉さんが「ほら、あなたも」と言いつつ頭を下げた。泉さんもそれを聞いて、
「今日はごめんね。」
と軽く頭を下げる。
「……良いんです。私が、香子さん? の生まれ変わりと言うことも知れましたし。正直、実感はないですけど。」
水吉さんが目を丸くした。泉さんの方を見て、
「言ったんですか。」
と確認する。
「言ったよ。だって、もう隠せないもん。」
香子さんの話は水吉さんも知っているのか。さすが補佐役。
「香子さんは……亡くなった。って事なんですよね。」
こんな話をするのは、違うと思う。でも私は、こんな話を急にされて理解が出来なかった。香子さんとは誰なのか。もう少し詳しく聞きたい。
泉さんは、途端に暗い顔になった。
「……そう、だね。きっともう、いないんじゃないかな。」
「……すいません。」
「こっちこそごめん。急に亡くなった人の話をしても、困るだけだったよね!」
車内の空気は暗くなってしまった。やっぱり、こんな話はするべきではなかった。
「とにかく! 今日はもう帰ろっか。」
えぇ……。
私は家の前まで車で送られた。
「それじゃ、またね~!」
「はい。また。」
大通り沿いまで来て、私は降ろしてもらった。前のように、一人で家へと帰る。
「ただいま……。」
私の頭の中は、泉さんの言ったことでいっぱいだった。
泉さんのこと。そして私のこと。それが今日だけで一変した。
私の人生すら、変わってしまった。
手洗いを済ませ、荷物を部屋に置いた。
ダイニングへと入る。
「おう、美澄。」
私に話しかけたのは、おじいちゃんだった。あぐしをかいて、新聞を読んでいる。
愛用の老眼鏡が光っていた。
「ただいま。」
「……今日、泉さんと会ってたろ。」
驚いた。
「……え?」
「田んぼから見とったすけ、たまげたこて。」
なんで、知ってるの?
確かに、おじいちゃんの田んぼは大通り沿いだ。車から降りたのを見られていたとしても、おかしくはない。
いや、それよりも疑問なのは、なんで彼女を知っているかだ。
「……泉さんとは、関わらん方が良い。」
追い打ちをかけるような言葉。
「な、なんで……?」
「なんでも何も。危険らこて。」
「危険……?」
「何か、危険な目に遭ったろ。あの人と関わると、ろくなことにならん。」
「え……?」
「それだけだ。」
えぇ……?
急に言われても、よく分からない。
泉さんの次に、おじいちゃんもよく分からないことを言いだした。
それから彼は、また新聞に目を落とした。
渋い顔をして新聞を読んで、こちらには何も話してくれない。
階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。
自習用で使うはずのノートを引っ張り、シャーペンを取り出す。考えていても、整理しきれない。文字に起こしたい。
私は分かることを、ノートに殴るように書き込んだ。
『泉さん
……守り神?
守り神とは、物の怪を退治する人のこと?』
『水吉さん
……その補佐役?』
分かることを書き出す。次のページには名前と情報を書き込み、相関図のようにする。
前のページに戻って、さらにそれから文字を書こうとした。
次にノートに現れたのは……私だった。
『私
……香子さんの、生まれ変わり?』
馬鹿な話を聞いているようだった。書いたとしても、信じられない。
私が香子さんの生まれ変わり? そんなわけが無い。転生など、信じられない。
そもそもそんなのあり得ない。
―――しかしその後。香子さんと私との間に関係があることは、否めなくなってしまった。
『……ぇ。……ねぇ。……てる? ……。…………て。』
その日の夜だった。
私は一人で眠りについたが、誰かの声が聞こえてきた。
そしてその声はまた、あの女の子の声。
「香子……さん?」
目を覚ます。
もちろん、香子という女性はいない。
ただ暗い部屋がそこに広がっているだけ。
夏の暑さが、まだ残っていた。
これが、この声が。記憶……?
でもなんで、急に?
もし私が生まれ変わりだとして。仮にそうだとして。なんで、今急に……?
泉さんと会ったから?
そんな上手いことある……?
謎は積もるばかり。結局、何も分からぬままだった。
今はいない、亡くなった人の声。何故、私は聞こえるのだろう。そもそも、記憶と言いつつも、知らない言葉に知らない声。私は何も、香子のことを知らない。前世の記憶。それがあるなら、もっと明確に分かるんじゃないか?
疑問に思い、そういうものについて調べてみる。
―――しかし、役に立ちそうな情報は無い。
そうして調べている内に、朝になっていた。
あんなことがあって、彼女と気軽に話すのも少し怖くなってしまった。
おじいちゃんにもあんなことを言われて、より一層会えるわけがない。
怖い。
もう数日が経った。
おばあちゃんの体調は良くなり、お盆も終わると言うことで、私たちは明日帰ることになった。
私の中で気がかりだったことは、やはり泉さんのこと。
彼女にはお世話になった。もちろん、水吉さんにも。
今日中に会いに行くのは無理だが、せめてお礼くらいは言わなくては。
私は、ラインを確認する。
泉さんとの会話を探し、メッセージを入力した。
『明日、帰ることになりました。短い間でしたが、ありがとうございました。』
あまりにも濃い思い出だった。こんな形で終わるのは残念だが、彼女と会うと、また変な事に巻き込まれそうで、会うのは怖い。それに、弥彦村は隣だ。時間はかかるが、また来られる。
荷物をまとめた。ポケットに入れたスマホが振動する。
取り出してみると、泉さんからのメッセージだった。
『もう帰っちゃうの!? 今回はこんなことになって、改めてごめんね。気をつけて帰ってね!』
彼女の声が脳内で再生される。
守り神で、私の前世に関わってて……?
よく分からない人物。考えても頭が痛くなるだけなので、もう考えないことにした。
翌日。
車に乗り込んだ私に、
「来てくれてありがとうね。それじゃあ、気をつけて。」
「……静穂も、美澄も。気をつけてな。」
とおじいちゃんとおばあちゃんが言った。私も、
「こちらこそありがとう。おじいちゃんもおばあちゃんも、元気に過ごしてね。」
と返す。
「おうよ。」とおじいちゃんが答えてくれた。
車は、祖父母の家を去って行く。
大通りへ出て、弥彦の大鳥居が見えた。
あの日を思い出す。
泉さんと会ったあの日を。
弥彦の空は、少しだけ曇りがかっていた。
「行ってきま~す!」
弥彦で過ごした日々も終わり、私たちは家に帰ってきた。
祖母の様子は良くなっているようで何より。一方の泉さんとは、もうラインでの会話も殆ど無くなっていた。
お盆が明けて、部活動が再開された。
歩いて高校まで向かう。
いつものたんぼ道を抜ける。隣の道には、白い軽トラが走っていた。そして目に入ってきたのは、またあの神社。
これだけは変わらず手つかずだ。
これを横目に、高校へと歩く。
『美澄ちゃん。』
―――っ!?
声がした。またあの声。しかし、今度ははっきりと。それも、私の名前を。
辺りを見渡す。しかし、軽トラももう随分遠くへ行ってしまい、ここにいるのは私一人だけだ。
「誰!?」
問いかけてもみる。しかし、返答はない。
だが、これで分かったことがある。それは彼女が、私の「記憶」ではないということ。
私が彼女の生まれ変わりだったとして。それはまだいいのだ。でも、彼女は私を知らないはず。私の名前を私を知っているということは、彼女はまだ生きている。
「香子……さんですか!? どこにいるんですか!?」
誰もいない。しかし、そこにあったのは廃神社。
まさか。そこに……いるの?
『美澄ちゃん。私を……見つけて。』
今度こそ、確実に聞こえた。
聞こえましたよ。香子さん。
用事のことなど忘れて、私は壊れかけの鳥居をくぐった。そこにいるんだ。分かってる。
神社の境内には、誰もいない。
そうか、やはり。
本殿であろうその建物に、私は近づいた。
彼女は絶対、そこにいる。
私は、本殿に手を触れた。
『……美澄ちゃん。』
目を覚ます。
そこに広がっていたのは、さっきまで見ていた神社とは違う、幻想的な世界だった。
この人が……香子さんなのか。
私が見たのは、大人びた女性だった。
泉さんと同じ髪型の。泉さんとは異なる、美しさのある女性。
「香子さん、ですか?」
女性は微笑む。
『ふふっ、そうだよ。泉ちゃんとは仲良くしてる?』
「あっ……はい。」
色々、話したいことがある。
足下には、白く綺麗な彼岸花が咲き誇っている。幻想的な風景だが……ここはどこなんだ?
『本当にごめんね。私の我が儘に付き合わせちゃって。』
急に言われた。そんなこと言われても、よく分からないのだが……。
「香子さん、なんですよね。」
『そう。角田 香子。……元護り神だよ。』
「元?」
『そう、元。私は昔、角田村を護っていた護り神。』
角田村。それって……。
「今は……ない。」
『そう。今はないの。だから私は帰れない。』
「帰れない?」
『……うん。帰れないの。護るべき場所がなくなったからね。私は生きていけない。』
じゃあ……。
「なんで、私とは話せてるんですか?」
彼女は、少し悲しそうに答えた。
『神社が、私の最後の居場所なの。護り神は、護るべき場所がなくなった事で存在できなくなる。』
「じゃあ、今の香子さんは……?」
『私は……今は、物の怪と同じようなものかな。残された最後の居場所で、あてもなくただ彷徨っている。みたいな?』
「みたいな、って……。」
『えへへ。まぁ、そんなところだよ。』
「それで……なんで私とは話せてるんですか? なんで、呼んだんですか?」
『そうそう。』
私が聞くと、彼女は手を合わせてはっとした。
そこを忘れては困るのだが……。
『……神社を知っているのは、あなただけでしょ?』
「え?」
もしかして。
『私は憶えてるよ。あなたが小さいとき、この神社に遊びに来たの。』
遊びに来たって……。確かに、私は小さいときに来たことがある。でも、その時のことはあまり覚えていない。
「まぁ……来たことはありましたけど。」
『ここは全然、誰にも来てもらえないからね。あなたが小さいときに来たのも、毎日前を通ってたのも、憶えてた。だから、そんなあなたに、私の力を託したの。』
「力って、なんですか?」
『護り神が持つ力、かな。子によっても違うけど、護り神には生まれながらに力があるの。私が居場所を失った後、余った力を全て使って、私の思いをあなたに託した。』
「それで……。」
『私の力を感じて、泉ちゃんがあなたを生まれ変わりと勘違いしたんだよ。』
「えっ……。」
見透かされていたか。彼女は笑っていた。
『見させて貰ったよ、少しだけね。姿は現せなかったけど。』
「見ていた……?」
『物の怪だけど、守護霊みたいな? ほら、泉ちゃんが、悪くない子もいるって言ってたでしょ?』
あぁ。そういうことか。
「え、どこまで見てました……?」
『何処までって言うと?』
「その、プライベートな部分もあるじゃないですか。全部監視されてたって思うと……。」
『あぁ、安心して。そういう部分は見てないから。』
安心出来はしないのだが……。
『それでね。美澄ちゃんに、私からの我が儘があるの。二つだけ。』
二つはだけなのか?
「まぁ、出来るかは分かりませんけど、一応聞いておきます。」
『やった! あのね……。』
目を醒ます。
私は、本殿に背中を預けるようにして眠っていたようだ。そこに、香子さんの姿はない。ボロボロの床に、一人腰掛けていたらしい。
「……香子さん。約束、守りますよ。」
部活動があるが……正直、それよりも大事な用事が出来た。休んでしまう罪悪感はある。怒られるのも分かってる。でも、反抗期ということにして。今日の所は……バックレてしまおうか。
私はスマホを手に取ると、泉さんへ電話を繋いだ。
「もしもし?」
『もしもし。あ、美澄ちゃん?』
泉さん。あなたに、伝えたいことがあるんだ。
「ちょっと、たまにはこっちにも来て欲しくて。今、どうしても来て欲しいんです。」
香子さんからの、最期の願いだ。
「ごめんごめん、遅れちゃって。どうしたの?」
私は一度自宅の方へ戻り、泉さんが来るのを待っていた。しばらく待っていると、彼女は水吉さんも連れてやって来た。
「泉さん……。香子さんのこと、なんですけど。」
「あぁ、香子ちゃん?」
「私が香子さんの生まれ変わりって。そんなこと、ないと思うんです。その……。」
驚かれるかな。信じてもらえないかな。
彼女はきっと、長らく香子さんのことを思ってきただろう。そんな彼女を、私が急に見つけたなんて言ったら。おかしいかな。
いや、そんなことはない。
大丈夫だ。
「泉さん。会って欲しい人がいるんです。」
「人?」
「はい。着いてきて貰えますか?」
私たちは、神社の前へ移動した。水吉さんは車の中で待機しているらしい。
彼女はまだ、何も気づいていないようだ。
「ここ?」
「はい。ここです。」
確か香子さんは、もう一度本殿に触れて欲しいと言っていたな。泉さんの手を握って。
力のある人間が神域である本殿に触れれば、会えるとかなんとか……。
物語のようなあり得ない世界に、今私は巻き込まれている。
私も、信じられない。
「それじゃあ、行きます。」
「行くって、どこに?」
私は、泉さんの手を握ったまま本殿へ触れた。
『……やっと、会えたね。』
笑み浮かべ、香子さんが待っていた。
さっきまでと同じ、幻想的な世界が広がる。
「………………えっ?」
泉さんが固まったのが見えた。
『ふふ、驚いた?』
香子さんはずっと笑い続けている。
私はそれを、二人の邪魔にならないように後ろから見守った。
「…………生きてたの?」
『物の怪としてね。未練が残ってたからさ。』
香子さんは少しずつ泉さんの方へと近づき、両手を広げた。
『ほら、おいで。』
「…………うん。」
泉さんが香子さんの前に立ち、そっと抱きしめる。思い人との再会に、泉さんは涙声になっていた。
角田村がなくなって。もしそれから会っていないのだとしたら、実に七十年以上が経つ。
……護り神は死なないのだろうか? だとしても、あまりに長すぎる時が経っている。
「…………今まで気づけなくて、ごめん。」
『いいのいいの。急に物の怪になっちゃった時は私もびっくりしたよ。泉ちゃんは悪くない。』
地面に咲き誇る白い彼岸花。
そして、地平線まで綺麗な空が続いている。
そこには、永遠の時が流れていた。
「こっちこそ、色々見せたい景色が出来て。また会えない? あなたがいなくなってから出来た、見せたい景色がいっぱいあるから。」
彼女は子供に戻ったように、無邪気に話している。
『……そうだね。』
香子さんも、悲しげな声になっていた。会話は続き、長い長い時間が過ぎ去っていった。
小一時間が経ったが、まだまだ会話の終わりは見えない。
『……泉ちゃん。私、言わなきゃいけないことがあって。』
「……何?」
『私はね、これで泉ちゃんと会うのが最後。』
これも、事前に全部聞いていた。
彼女は私に、『泉ちゃんと会えれば私はそれで良いから。どうか最期に会わせて欲しい』と言っていた。つまり……彼女はここで、本当にお別れになる。それをようやく、泉さんにも打ち明けたのだ。
『私は、あなたと会話も出来ずに別れちゃったのが未練だった。でもまた会えたの。安心して成仏できる。』
「そんな……。待って。」
『ほら、あの子も待ってるし。』
香子さんは、私の方を見てきた。こちらとしてはいくらでも会話して欲しいのに……。
『とにかく! 私は泉ちゃんに笑って生きていて欲しいの。……前も言ったでしょ?』
「……うん。」
物の怪は、未練がなくなれば自然と消え去るという。自分の意思とは関係ない。待ってはくれない。
『私はいつでも、神社で待ってるよ。……もう、話すことはできないけれど。』
少しずつ、香子さんの姿が薄くなっていくように感じる。
「……うん。うん。」
『きっと、また会える日が来るから。……出来るだけ先になるのを願ってるけど。』
「……ちゃんと待っててよ。」
『もちろん。』
香子さんはそう笑顔で告げる。泉さんを優しく抱きしめたまま、こちらを向いた。
『それじゃ、美澄ちゃん。後はよろしくね。』
「……はい。」
後。きっと、もう一つの願いのことだろう。
確かに、分かりました。
香子さんと泉さんの間に、一筋の風が吹いた。彼岸花の花びらが舞う。私と二人を、優しく包み込むように視界を遮った。
「……ちゃん? 美澄ちゃん?」
私は目を覚ました。今度は香子さんの声ではなく、泉さんの声で。
「あれ……。」
「起きて。」
あれは、夢だったのか?
「……香子ちゃんの分も、生きないと。」
座っている私に、泉さんが手を差し伸べる。
やっぱり、夢じゃなかった。
私は手を取り、起き上がった。
「……もう、私も未練はないや。物の怪にならなくてすみそう。」
「……ならないでくださいね?」
もし泉さんがなって、暴走なんてしたら……絶対に止められなさそうだ。
「泉さん、長原さん。遅いですよ。」
水吉さんが、呼びにこちらへ来た。
もう、夏は終わりへと差しかかつている。
夏の雲がもくもくと立ち上る。風が、私の頬をそっと撫でた。
「……最期の願い。忘れませんよ。」
そっと、静かに呟く。
「何か言った?」
「いえ。なんでも。」
私は泉さんの隣で、一緒に車へ歩き出した。
香子さんの願い。私が叶えます。
ずっと、隣にいますから。
これからも、香子さんの思いも乗せて。
ずっと。隣で生き続けます。
「ずっと笑顔じゃん。どうしたの?」
「何でもないです!」
泉さんの長い旅に、一つの区切りがついた。
香子さんのいない世界で、生きていくのだ。
『私の代わりに、彼女の隣にいて欲しい。』それが香子さんの最期の願いです。だから、どうか同じ時間を過ごさせてください。
これからも、ずっと隣で。
―――彌彦にいる、貴女と。
あれから、時は経ち。
私はもう大学生になっていた。はじめは東京へ出て、東京の大学に入ることを検討した。しかし、やはりこの新潟という土地を忘れられず。私は結局東京へ行くことをやめ、新潟県内の大学に進学した。そのため、泉さんとはまだ今もよく会う仲だ。
―――そして、今日もまた彼女と会う。
「泉さん、水吉さ~ん!」
大きく手を振って、二人のもとへ急ぎ足で駆け寄る。
「美澄ちゃん。」
新潟は冬を迎えていた。今年も、寒い寒い曇天の季節がやって来たのだ。
「相変わらず寒いね~。」
「ですね……。」
泉さんはしきりに手を擦って、寒そうにしている。それでも彼女は、いつもと変わらぬ和服姿でいるではないか。もう少し厚着すれば良いのに。いや、この服は十分暖かいのかな。
「それはさておき……明けましておめでとう! 今年もよろしくね!」
水吉さんが遅れて、「あけましておめでとうございます。」と言ってくれた。
雪が降っていて、外は暗かった。だが、彼女の笑顔は相変わらず眩しい。そんな彼女の頬は、寒さで少しだけ紅くなっていた。私も、同じようになっているのだろうか。そんなことを考えながらも、ちゃんと挨拶を返す。
「……こちらこそ、今年もよろしくお願いします。」
年が明けた。また、新しい一年がやって来たのだ。今日は元旦。そして……彌彦神社で初詣をすることになったのだが。
「いやぁ、混んでるね~。」
「混んでるってレベルじゃないですよ……。」
年末年始の彌彦神社には、たくさんの人が集まる。新潟市の人たちは護國神社や白山神社に流れがちだが、それでもやはり参拝客は多い。
私が住むのは新潟市。だが、あの夏以来、私は決まって彌彦神社へ初詣に行っている。
初詣へ来る人は、多いときには三日間で二十五万人にものぼる。この期間だけで平均、二十万人前後が参拝するというのだから驚きだ。
「本当は、三が日は外したかったんですけどね。」
そう水吉さんが言った。
「……まぁ、予定も詰まってますからね。」
三が日が過ぎれば、すぐに冬休みも明ける。混んでいても、出来るだけ早めに来たかったのだ。それに、彼女らの都合を考えるといつ集まれるかも分からないし。だから、両方の予定が空いている今日が選ばれたのだ。仕方がない。
「……それにしても、長い列ですね。」
雪の影響か、参拝客は例年より少しだけ少ないように見える。とはいっても人は多く、御本殿はおろか、随神門までにも長い道のりが待っている。
「まぁ、こうして話してるのも楽しいからね。ゆっくり待とっか。」
「……そうですね。」
人の流れに沿ってゆっくりと進んでいく。
「泉さんと水吉さんは、彌彦神社の方を手伝わなくて良かったんですか?」
どうやら、泉さんと水吉さんは彌彦神社を手伝うこともあるらしい。
「私は……良いの。ほら、年末年始でこっちを手伝ってて、物の怪が出たら大変でしょ?」
「……確かに?」
物の怪の姿は、何度か目撃をしたことがある。とはいってもあの夏とは違い、無害なものばかりだ。怨念というより、何かしらの未練がそこに残っているかのように感じられた。
「それに我々は、彌彦神社で普段から働いている訳ではありませんしね。」
「そうなんですか?」
彼らは年中暇なように見えるが、実は無休で警戒に当たっている。物の怪の対応などは、水吉さんの援護こそありながらも、基本的に泉さん一人で行っているというのだから感心だ。水吉さんも彌彦神社で働いているわけではないが、手伝うことが多いらしい。
「まぁ……お正月には物の怪があんまり出ないんだけど。」
「……怨念が集まりにくい、ってことですか?」
物の怪。怨念が集まって形になるものだと言っていたな。……科学的な仕組みはよく分からないけれど。
「そう。お正月って、基本的には皆幸せな行事でしょ? お正月を恨む人や物は比較的少ないから、物の怪も姿を現しにくいの。」
物の怪。相変わらず、謎に包まれた存在だ。細かい特徴やその実態は、私には今も分からない。それを完全に知っているのは、泉さんだけだ。
そんな会話をしている内にも、一歩ずつ、一歩ずつと列は進んでいく。
そしてようやく、随神門まで到達した。
軽く一礼してから、それをくぐる。
「ほらほら、もうすぐだよ。」
本殿が見えた。雪の冠を被った本殿、白く化粧をした弥彦山。一気に視界が開け、自然の神々しさを感じる。
「何度見ても、綺麗ですね。」
「だよね~。今年は雪も少しだけ積もってるから、尚更綺麗な感じがするよね。」
越後平野は佐渡島に雪雲が当たり、そちらで雪を降らしてくれる。また、平野部であるために、雪が降りにくいのだ。これは特に新潟市に該当する話で、新潟県内としては比較的雪が積もらないことや、積もってもすぐに溶けてしまうことはよくあることだった。
だから、ここまでしっかりと雪が積もった彌彦神社を見たのは初めてだった。
「泉さんは……良いとして。長原さんは、何を願うんですか?」
水吉さんが聞いてきた。「え、私は!?」と泉さんがツッコんでいる。
「あなたは……護り神なんだから。願われる側でしょう。」
「私だって願い事はあるのに!」
「……はいはい。」
出会ったばかりの時は、カップルか、なんて思っていたが、今こうしてみると、なんだか親子みたいだな。
……それにしても、願い事か。そう言えば、考えてなかった。
「よ~し、あと少しだ!」
あと、二、三組で本殿の目の前に立てそうなところまで来てしまった。
でも、何を願おうか。
私なんかが傲慢なことを願ってもおこがましいだけだし……。それに、神様に頼めば私が行動しなくても良いというわけでもないし。
「あ、ほら。」
前にいた人がお賽銭を済ませたので、私たちは御賽銭箱の前に立った。
二礼、四拍手。
そして、私は願いを伝える。
……神様。去年もありがとうございました。おかげさまで、元気に年を越せました。これからも精進していきますので、見守ってください。
―――願い事とは言えないかも知れないが、今の私にはこれくらいしか言えない。これくらいで、良いのだろうか。
最後に、一礼。そして、本殿の前を後にした。
「何をお願いしたの?」
帰り道、そう聞かれた。
「いえ、大層なことは願ってませんよ。」
「え~、大層なことじゃなくても、教えてくれて良いのに~。」
あまり大きな願い事はしない。私が大層なことを願っても、多くの参拝客から願われて、神様は対応しきれないだろうし。
それに、私は。
貴女の隣にいられるだけで、十分幸せなのだから。
「それで、この後はどうしましょうか。また、あちらへ?」
水吉さんが言った。既に、手には車の鍵が握られている。
「もちろん。」
と泉さんが答える。私も、そのつもりだ。
「行きましょう!」
私も、元気よくそう言った。
「雪は降っていますけど、道が止まらなくて良かった。」
車内は、暖房で少しだけ暖かくなっていた。寒くなっていた体に暖かさが染み入る。
「ですね~……。」
県道2号を北上し、私の家の方へと向かう。
「そう言えば、途中で上関潟公園がありますよね。白鳥でも、見ていきます?」
水吉さんの声がする。ルームミラー越しに目が合った。
「まぁ……今は日中ですから、いないと思いますけど。」
冬に飛来する白鳥。彼らの一部は新潟の湖で冬を過ごす。例えば、阿賀野市にある瓢湖水きん公園なんかは有名だ。新潟市には福島潟に鳥屋野潟がある。そして、佐潟も。瓢湖と佐潟に関しては、ラムサール条約に登録された湿地帯でもあるのだ。
白鳥の飛来地が新潟県にたくさんある中で、私の住む新潟市西蒲区にも白鳥の飛来地は存在する。それが、上関潟公園だ。
そこに行けば、真っ白な白鳥が見られる……が。しかし、今は日中。
白鳥は日中になると、田んぼで餌を探し始める。そのため、湖にはほとんど残らない。
見るべき時間帯としては早朝か夕方で、今行ってもただの無駄足だ。
「ま、それもそうですよね。それじゃあ、このまま向かいます。」
「……お願いします。」
すると、泉さんが嬉々とした声で言った。
「ほら、白鳥がいるよ!」
新潟の冬。日中の田んぼであれば、様々なところで見られる。別に、いたって珍しいことではない。
都会では見られない景色。新潟でしか見られない景色。一年の始まりと終わりを、銀世界と共に過ごす。私は、この景色が好きだ。
「さ、着きましたよ。」
本当は、国道402号。「越後七浦シーサイドライン」を通った方が早いし、眺めも良い。だが、あいにく今は冬、通行止めになっている。そもそも、日本海の波を喰らって、溺れたりなんかしたらたまったもんじゃないし。
だから、国道2号から、上関潟公園の隣を沿うようにしてやって来たわけだ。
車の扉を降りると、暖房も効かない極寒の世界に放り出された。
思わず手がかじかむ。
「ほらほら、行こう!」
泉さんが、私の手を引っ張った。
「……はい。行きましょう。」
吐いた息が白くなる。少し積もった程度ではあるが、たんぼ道はほとんど除雪されないので、車で突っ込むには危険だ。ここからは自分の足で、あそこへと向かう。
「水吉くん、置いてくよ!」
最後に車を降りた水吉さんは、少しだけ後ろにいる。
「ちょっと待ってくださいよ~!」
大きく透き通る声が聞こえた。雪にかき消されず、はっきりと。
しばらく歩いた。また今年も、ここにやって来た。
「…………二人とも、早いですって。」
水吉さんがようやく追いついた。鳥居の前に、三人が並ぶ。
「それじゃ……入りましょうか。」
二人が同時に「うん」と返してくれた。
私たちは一礼した後、一歩を前に踏み出す。
三人で一緒に、鳥居をくぐった。
「香子さん、年が明けましたよ。」
静かに呟く。
私たちが来たのは、また香子さんの神社。
私たちは毎年、ここにも来ているのだ。
彼女に無事を伝えるために。
そして、彼女のことを忘れないために。
「本殿も、ボロボロだけど……。崩れなさそうでよかったね。」
泉さんは本殿の様子を心配しているようだった。確かに、大雪でも降れば潰れてしまいそうだ。
「何か、補強しないとね。」
「そうですね。また今度、やりましょうか。」
雪が降っていた。何処までも、銀世界は続く。そこにいるのは、私たち三人だけ。香子さんの姿はない。
あれから、香子さんの声がすることはなくなった。顔を見ることもない。
それでも、香子さんはどこかで必ず、私たちを見ている。そう、信じながら。
私は今日も、息をする。
「香子さん、見てくれてますよね。」
泉さんは迷い無く言った。
「もちろん。」
私たちの間を、風が吹き抜けた。
また、あの時のように。
それはまるで、香子さんが答えてくれているようだった。自然と、心も軽くなる。
「あの……。」
私は話しかけた。一緒に行きたいところがあるからだ。
「何?」
「夏になったら、みんなで角田山に行きませんか? 見せたい景色があるんです。とっても綺麗で。花が咲いて、綺麗な景色が見られるんです。」
泉さんは少しだけ、驚いているような表情を見せた。
「駄目、ですか?」
「ううん。…………今度こそ、行こう!」
彼女は満天の笑顔を見せた。




