【後編】8月→12月
四日間のお盆休みはあっという間に終わって、陽花里は暑い中また会社に行き続ける日々を送る。
淡々と仕事をこなしていると、季節はいつの間にか移り変わり、頬に触れる風は涼しくなり、街路樹も色づき始める。陽花里が秋の到来を感じた頃には、その秋も終わりを迎えていて、気づいたときにはコートの出番も増えていた。
そんななかでも陽花里は、まだ長野Ⅴスタジアムへと足を運べずにいた。ホームゲームに行かない日々にも慣れてしまっていて、そんな自分が時折少し恐ろしく思えてしまうほどだ。
それはシーズンが終盤を迎えても変わらない。
キャマラッドは勝ったかと思えば次の試合は負けて、でもその次の試合はまた勝ってという浮き沈みの激しいシーズン終盤を送り、昇格プレーオフ圏内と圏外を行ったり来たりしていた。
もちろん陽花里だって、まだキャマラッドの動向はチェックしている。一節一節が終わるごとに、様々なチームの色々な可能性が絶たれていく終盤戦に、家にいるだけの陽花里でさえ胃がキリキリするような思いを味わう。
だから、実際にスタジアムに足を運んで応援しているサポーターの心情は、察するに余りあった。
その日、午後四時になる少し手前、何度もホームページの更新を繰り返していた陽花里は、その結果が確定すると思わず安堵の息をついていた。
キャマラッドはシーズン最終戦を1―0で勝利していた。順位も五位で確定し、晴れてJ2昇格プレーオフへの進出が決まる。
試合が始まる前は圏外の七位だったから、きっと今頃スタジアムでは、多くのファンやサポーターが安堵の息を吐いていることだろう。それは程度の差こそあれ、陽花里も同様だった。
陽花里はSNSにアプリを切り替える。
すると、タイムラインには多くのキャマラッドのファン・サポーターの喜びの声が広がっていた。まだ昇格プレーオフが残っているのだが、今だけは喜びに浸っていてもいいだろう。
すると、一件のダイレクトメッセージが陽花里のもとに送られてくる。その送り主は紛れもなく、今長野Vスタジアムにいるレディアンだった。
〝アゲハントさん、見ました!? キャマラッド勝ちましたよ! これで昇格プレーオフ進出決定です!〟
文面からも、レディアンが本当に嬉しそうにしているのが陽花里にも伝わってくる。だから、陽花里もすぐに返信ができた。
〝はい。ちょっと用があって試合は見れなかったんですけど、それでも結果は確認しました。キャマラッドがJ2昇格への望みを繋いだこと、は私も嬉しいです”
〝そうですよね! 試合前は昇格プレーオフ進出も危ぶまれていましたから、こうして滑り込みで五位に入れて、本当によかったです!〟
〝そうですね。来週の昇格プレーオフ第一戦は、アウェイで北九州との試合ですよね。レディアンさんは行くんですか?〟
〝はい! 行くつもりです! キャマラッドが勝てるように、精いっぱい応援します! アゲハントさんはどうですか?〟
〝私はちょっとその日は、他に予定があって行けないですね。だから、キャマラッドへの応援はレディアンさんたちに任せたいと思います〟
〝はい! 任せてください!〟そう意気込んでいるレディアンの表情が、陽花里には目に見えるようだった。北九州は遠いが大一番ということもあって、きっと多くのファンやサポーターが長野から訪れるのだろう。
そう考えると、陽花里にも心強い。
〝ところで、アゲハントさん。今日もVスタに来ませんでしたね。まだまだ忙しさは落ち着かない感じですか?〟
話題を変えてきたレディアンに、陽花里の心臓はドキリと跳ねる。シーズンを通して、陽花里は一度も長野Vスタジアムに足を運ぶことはできていなかった。
〝はい。申し訳ないんですが、まだちょっと落ち着かなくて……〟
〝そうですか。それは大変ですね。でも、再来週は大丈夫そうですか?〟
レディアンがそう尋ねてきた意図が、陽花里にははっきりと分かる。
それでも、陽花里はまだ長野Vスタジアムに行けるような気分にはなれていなかった。
〝すいません。それも現状ではちょっと難しいかもしれないです……〟
〝そうですか。でも、来週の試合を勝てば、決勝はVスタで戦える可能性がありますから。もちろんもう一試合で六位の福島が勝てばの話ですけど、それでもVスタで決勝が行われることになったら、私もアゲハントさんには久しぶりにVスタに来てほしいんですが……〟
レディアンが提示した状況は、陽花里にとっても一番実現してほしいと願うものだった。
もちろん北九州との準決勝に勝った上での話だが、大一番である昇格プレーオフの決勝をホームの大声援を背に戦えることは、キャマラッドにとって大きなアドバンテージとなるだろう。
しかも、アドバンテージはそれだけには留まらず、昇格プレーオフにはシーズンの順位も反映され、福島よりも順位が上のキャマラッドは、引き分けでもJ2に昇格できる。
それに、長野Vスタジアムで試合が行われるとなれば、もしかしたら自分も足を運べるかもしれない。
そう思った瞬間、陽花里の脳裏には美麻の顔が浮かぶ。事故のショックは、陽花里の中から未だに消えていなかった。
陽花里はしばし悩む。そして、迷った末に出した答えに従って、指を動かした。
“すみません。レディアンさん。私が今年Vスタに行けなかったのは、忙しさが理由じゃないんです”
〝どういうことですか?〟その返信に陽花里はハッとする。指も止まりそうになる。
でも、一度打ち明け始めてしまった以上、後に退くことは陽花里にはできなかった。
〝あの、私とよく一緒に来ていたイルミーゼ、いますよね?〟
陽花里は、美麻のSNSでのアカウント名を出した。〝うん、そういえばイルミーゼさんも今シーズンVスタには来てないですよね。どうしたんでしょうか?”との返信に、陽花里の心臓はバクバクして収まらない。
それでも陽花里は意を決して、再び指を動かした。
〝あの、実はイルミーゼは亡くなったんです〟
レディアンからの返信は、すぐには送られてこなかった。きっと陽花里が伝えた事実に衝撃を受けているのだろう。
生まれてしまった間に、陽花里は自分がどれだけ深刻なことを伝えたのかを、改めて思い知る。
でも、現実はもう覆せなかった。
〝それ、本当なんですか?〟というレディアンの返信が、陽花里の胸の深くにまで刺さる。
でも、一度伝えてしまったからには、陽花里は退くに退けなかった。
〝はい。残念ながら。この状況でそんな悪趣味な冗談、私が言うわけないじゃないですか〟
〝それはそうですけど……。えっ、でもいつ、どうしてイルミーゼさんは亡くなったんですか……?〟
〝今年の二月、シーズンが始まるその週に、交通事故で亡くなりました〟
そう打ちこみながら、陽花里は自分の心に計り知れない負担がかかっていることを感じる。あれからもう九ヶ月が経っているのに、昨日のことのようにすら感じられてしまう。
送信ボタンを押して、メッセージがレディアンの目にも触れたことを確認すると、さらに胸が痛む。それは何度味わっても、一向に慣れることはなかった。
〝そうなんですか……。今さらなんですけど、ご愁傷様ですとしか私には言いようがないですね……。ご冥福をお祈り申し上げます〟
〝はい、ありがとうございます。でも、すみません。レディアンさんに伝えるのが、こんなに遅くなってしまって”
〝どうしてアゲハントさんが謝るんですか? それだけ辛いことがあったのなら、なかなか人に言いたくならないのは当然じゃないですか。そんなことがあったのなら、アゲハントさんがVスタに来れなかったことも無理ないと思います。むしろ私の方こそごめんなさいですよ。アゲハントさんの気も知らずに、何回か「Vスタには来ないんですか?」と訊いてしまって”
〝いえいえ、レディアンさんは何も悪くないですよ。だって、知らなかったんですから。謝る必要なんて少しもないですよ〟
〝そうですか……。あの、アゲハントさん、今の話を聞いたうえで何なんですけど、それでも私の本当に正直な思いを伝えていいですか?〟
画面の向こうでレディアンが真剣な表情をしているであろうことは、文面から陽花里にも察せられた。せっかくの申し出を断るわけにもいかず、陽花里はただ単に〝はい。お願いします〟と返す。
すると、レディアンは呼吸を整えるかのように一拍置いたのちに、再びメッセージを送ってきた。
〝私はそれでもアゲハントさんには、Vスタにまた来てほしいと思っています〟
レディアンの返信は、陽花里にも十分想像できたものだった。
それでも、陽花里はその文面に戸惑いを抱かずにはいられない。自分はまだ美麻の事故から、完全に立ち直ることはできていないのに。
戸惑いのあまり陽花里の指は止まってしまい、それに気づいているのかいないのか、レディアンが立て続けにメッセージを送ってくる。
〝いえ、正確に言えばアゲハントさんと、キャマラッドがJ2に昇格する喜びをスタジアムで分かち合いたいんです。もちろんまだそうなると決まったわけではないですし、全ては来週の準決勝に勝ってからなんですけど、でももし勝った場合、決勝はVスタで行われる可能性だってあるわけじゃないですか。だから、私はもしそうなったらアゲハントさんとともに、キャマラッドを精いっぱい応援したいです。私たちの声援は、きっと選手にも届くはずですから”
レディアンが書いていることは、何の根拠もない楽観的な理想論だった。もちろん三位の富山が勝って昇格プレーオフ決勝はアウェイで行われる可能性も大いにあるし、それ以上に来週の準決勝でキャマラッドが北九州に負けてしまったら、そこで終わりだ。レディアンが思い描くような状況になる保証は、一つとしてない。
それでも陽花里は、そんな悲観的な考えは持ちたくはなかった。どうせならキャマラッドが昇格プレーオフを制して、J2に昇格する未来だけを思い描いていたい。
シーズンを通して一度もスタジアムには行けなかったけれど、それでもまだ陽花里の心はキャマラッドから完全には離れてはいなかった。
〝そうですね。私もどうせなら、プレーオフ決勝はVスタで開催されてほしいです〟
〝ですよね。もし、そうなったらアゲハントさんはVスタに来てくれますか?〟
再度のレディアンの問いかけに、陽花里の指は再び止まる。
ここで〝はい。行きます〟と即答できれば、どれだけよかっただろう。
でも、そんなシンプルな返信が、今の陽花里にはまだ送れない。どうしても美麻のことを考えてしまう。
〝すいません。それはまだちょっと分からないです〟
〝そうですか。それもそうですよね。私も無理してまで来てとは言いません。今のアゲハントさんがスタジアムに行けないのも、話を聞く限り無理のないことだと思いますから〟
〝ありがとうございます。あの、レディアンさん。応援頑張ってくださいね〟
〝はい。決勝に進めるよう、チームを勝たせられる応援をしてきます〟
そのメッセージに、陽花里はハートのスタンプを押すことで返信の代わりとした。これ以上レディアンとやり取りを続ける理由は見当たらなかった。
レディアンもそんな陽花里の意図を汲んだのか、それ以上メッセージを送ってこない。
陽花里はSNSを閉じる。
今の時間から言って、きっとスタジアムではホーム最終戦セレモニーが行われているのだろう。「あと二試合、応援をお願いします」と言うクラブの社長や、監督、選手たちの姿が陽花里には目に見えるようだった。
J3の最終節が終わってからの一週間は、陽花里にとって瞬く間に経った。
仕事をしながらでも考えるのは、キャマラッドのことだ。陽花里は北九州にはいかないが、それでも来る昇格プレーオフ準決勝に向けて、日々は高い密度を持って流れていく。
きっとそれは、多くのキャマラッドのファン・サポーターも同様だったのだろう。長野駅の近くにまで行っただけで、決戦の日がいよいよ近づいていることが、雰囲気だけで陽花里には感じられていた。
そうして迎えた昇格プレーオフ準決勝当日。陽花里は昼前に目を覚まし、昼食を食べてからは、ウェブで漫画を読んだり、サブスクでドラマを見たりして時間を送る。
でも、何をしていてもキャマラッドのことは頭から離れなかった。刻一刻と迫ってくる試合開始の時間に、ソワソワしてしまう。
陽花里はまだネット中継サービスとの契約を切っていない。だから、キャマラッドの試合を見ようと思えばすぐに見ることができる。
それでも、陽花里が二の足を踏んでしまうのは、やはり美麻のことが脳裏に過るからだった。
美麻はもうキャマラッドの試合を見ることはできないのに、自分だけが見ていいのか。何度も繰り返した自問自答を、陽花里はこの日も行う。
美麻のことを思い出して、胸は痛まないのかと。
それでも、試合開始数分前になって陽花里が出した結論は、ネット中継サービスのアプリを開くことだった。美麻への思いを、試合が気になるという思いが上回ったからだ。
陽花里がネット中継を見始めると、ちょうど選手が入場してくるところだった。イヤフォンからは両チームの応援歌が聴こえてくる。
北九州のゴール裏はほとんど満席に近いほど埋まっていたが、声量だけで言えばキャマラッドのゴール裏も負けてはいなくて、それだけ多くのファン・サポーターが北九州まで行っていることが、陽花里には分かった。
両チームのスターティングメンバーが紹介され、選手たちが円陣を組む。その様子を見ているだけで、陽花里はこれから始まる試合にドキドキする。久しく味わっていなかった感覚だ。
試合はキャマラッドのボールで始まった。
スマートフォンの画面に映される選手たちのプレー。チャンスもあればピンチもある試合展開。盛んに聴こえてくる両チームのサポーターの応援。その全てを、陽花里は固唾を呑んで見守る。
と同時に、やはり胸が痛む感覚は拭いきれない。美麻はこの試合を見られていない。そんな当たり前の事実が、チクチクと胸を刺してくるようだ。
時折耐えがたくなって、視聴をやめてしまおうかとさえ思う。
でも、スマートフォンの中で繰り広げられている試合から、陽花里は目を離すことができなかった。J2昇格がかかった最初の大一番は、陽花里の目と心を強く惹きつけていた。
前半を0―0で折り返した試合は、一五分のハーフタイムを経て後半に入った。お互い惜しいシュートを放ちながらもゴールは決まらず、時間だけがじりじりと過ぎていく。それにつれて、陽花里の祈る思いも大きくなる。
このまま0―0で試合が終わってしまえば、決勝に進出するのはリーグ戦上位の北九州だ。だから、キャマラッドは残り時間で何としてもゴールを決めるしかない。
キャマラッドのファン・サポーターの応援が、切実さを増していく。
しかし、そんな思いとは裏腹に、先制したのは北九州だった。時間にして後半三〇分。ゴールを決めた選手を中心に喜びの輪が広がる。キャマラッドにとっては、あと一五分ほどで二点を取らなければならない大ピンチだ。
それでも、危機的状況に置かれても、キャマラッドのファン・サポーターの声援が止むことはなかった。
陽花里もなおさら祈る思いを強くする。ここまで来たらもう選手たちを信じることしか、陽花里たちにはできなかった。
そんな陽花里やファン・サポーターの必死な思いに選手たちが応えたのは、後半四一分のことだった。キャマラッドが同点ゴールを決めたのだ。
それでも、選手は誰一人として大げさに喜ぶことはない。決勝に進出するためには、あと一点が必要なのは誰もが分かっている。
キャマラッドのファン・サポーターの応援もさらに大きさを増し、北九州のファン・サポーターのボルテージも上がっていることから、スタジアムがある種異様な雰囲気に包まれていることを、陽花里は画面越しにでも感じた。
キャマラッドが同点に追いついてからの時間は、陽花里にとってはじれったく、一秒一秒が瞬く間に過ぎていく。
試合はあと一点が必要なキャマラッドが、最後の力を振り絞って北九州のゴールに向かっていた。何度もボールを拾い、相手陣地に攻め込む。
それでも、なかなかゴールネットを揺らせずに、試合は五分のアディショナルタイムに突入した。
勝たなければならないという気迫で勝るキャマラッドが、北九州を押し込む。シュートも打っている。でも、ゴールだけがどうしても奪えない。
その様子を見て、陽花里はなおのこと強く祈った。ファン・サポーターの応援もここに来て最高潮に達している。
何としても北九州のゴールを、もう一度こじ開けたい。それはスタジアムにいるいないに関わらず、この試合を見ているキャマラッドを応援する人たちの総意だった。
その願いが少しでも届いたのか、アディショナルタイムも残り一分を切ったところで、キャマラッドがコーナーキックを獲得した。これがラストチャンスだと言うように、ゴール前にはゴールキーパーも上がっていく。
陽花里も手を組んで、ゴールが決まるように祈った。
キッカーがボールを上げる。混戦の中で先にそのボールに合わせたのは、キャマラッドの選手だった。力のこもったヘディングシュートが、ゴールネットに突き刺さる。
その瞬間、スタジアムに張り詰めていた異様な空気が一気に弾けたことを、陽花里は画面越しでも感じた。
実況するアナウンサーが声を張り上げ、ゴールを決めた選手にキャマラッドの選手は何人も飛びつき、歓喜を爆発させている。キャマラッドのゴール裏も大いに沸き立ち、陽花里も思わず声を上げてしまって、自分の胸が今年でも一番熱くなっていることを感じる。一瞬沈黙してしまった北九州のゴール裏もまったく気にならないほどだ。
自宅でライブ配信を見ている自分でさえこんなに興奮しているのだから、わざわざ北九州まで足を運んだファン・サポーターの歓喜はいかほどだろう。その中にはレディアンもいるはずだ。
そのことを想像すると、陽花里には鳥肌が立つようだった。
それでも、キャマラッドが劇的な逆転ゴールを決めても、試合はまだ終わってはいなかった。
自分たちのボールでキックオフすると、北九州はすぐにキャマラッドの陣地深くまでロングボールを蹴り込んでくる。キャマラッドの選手たちが、ディフェンダーを中心にしっかりと跳ね返す。
それでも、試合はアディショナルタイムが六分台に入っても、なかなか終わらなかった。キャマラッドの選手たちがゴールに喜びを爆発させていた時間も、加算されているためだ。
陽花里は今すぐにでも試合が終わってくれますようにと祈りながら、画面を見つめるほかない。
そして、試合終了の笛が鳴り響いたのはアディショナルタイムも七分を過ぎた頃だった。
試合が終わると同時に北九州の選手の多くは、その場に座りこんでしまう。それは間違いなくキャマラッドが逆転勝利を収めたことを意味していた。
ハイタッチをして喜び合うキャマラッドの選手たち、そしてファン・サポーター。陽花里もガッツポーズを作りながら、大きく安堵の息を吐く。
キャマラッドが、昇格プレーオフ決勝に駒を進めた。J2昇格の可能性がまだ残ったことに、喜び以外の感情がなかった。
試合終了を確認してライブ配信を閉じた陽花里は、すぐにJリーグの公式ホームページを開く。もう一試合の昇格プレーオフ準決勝の結果をチェックするためだ。
すると、富山対福島の試合は、一足早く終わっていた。結果は1―0で福島の勝利だった。
そのスコアを見た瞬間、陽花里の心にはまた大きな喜びが生まれる。
シーズン六位の福島が勝利したということは、昇格プレーオフ決勝はシーズンの順位が五位と上である、キャマラッドのホームで行われる。つまりは長野Vスタジアムで、J2昇格の瞬間を見届けられる可能性が生まれたということだ。しかも、引き分け以上でキャマラッドのJ2昇格が決まるという、絶対的に有利な条件のもとで。
もちろん、一発勝負だから福島が勝つ可能性だってあるだろう。
それでも、陽花里の胸は大いに高鳴っていた。一年前J3降格が決まった長野Vスタジアムで、今度はJ2昇格を見届けられるかもしれない。
見に行きたい。そう陽花里は直感する。
でも、すぐに美麻のことが思い起こされた。美麻はせっかくの長野Vスタジアムで行われるこの大一番を、見に行くことはできない。それなのに、自分だけが見に行っていいのだろうか。
シーズン中何度も首をもたげた疑念が、再び陽花里に過る。すぐに結論を出すことは、できるはずもなかった。
雲一つない空に高く昇った太陽が、柔らかな日差しを浴びせかけている。にもかかわらず、吐く息が白いのは、今が一二月だからなのだろう。
平日の仕事を何とか乗り切り迎えた土曜日。陽花里は近隣の駐車場に自転車を停めて、トートバッグを片手に歩いていた。
キャマラッド対福島の昇格プレーオフ決勝を前日に控えたこの日、陽花里が行くところは一つしかありえなかった。
本堂を通り過ぎた陽花里は、ある一点に立つ。そこは紛れもなく、美麻が眠っている「望月家之墓」の前だった。
お盆の時期以来に見たそれは月命日ごとに宗太たちが訪れているのか、綺麗に手入れされていて、供花もまだ瑞々しさを保っている。だから、陽花里がすべきことはさほど多くはなかった。
トートバッグからロウソクを取り出して、ロウソク立てに立てて、ライターで火をつける。その火に線香を近づけると、前と少しも変わらない白檀の香りが、陽花里の鼻腔をくすぐった。
手で扇いで火を消した線香を墓前に供えると、陽花里はしゃがんで手を合わせた。空の上にいる美麻にまで届くように長く、強い祈りを込めて。
土曜日とはいえ、一二月の墓地には陽花里以外には誰もいない。寒々しい空気が頬に触れる。
それでも、陽花里はしばらくの間手を離さなかった。改めて美麻の冥福を祈ることが、今の陽花里にできる唯一のことだった。
それでも、しばらくして陽花里は手を離し立ち上がる。物音も少なく静まった墓地。
そのなかで陽花里は、呟くように声を発した。
「ねぇ、美麻。キャマラッドがさ、昇格プレーオフ決勝に進出したよ。明日、Vスタで福島と対戦する。引き分け以上でまたJ2に昇格できるんだよ」
美麻の墓は何も言わず、ただ陽花里の目の前に存在している。陽花里は言葉を続けた。
「ねぇ、私Vスタに行っていいのかな。美麻はもう行けないっていうのに、私だけが行ってもいいのかな」
墓を目にしながら、陽花里は美麻の姿を思い描く。何と言っているのかも、手に取るように分かる気がする。
自分に都合のいい解釈をしているだけではないのかという思いは、陽花里にもある。でも、それ以上に一〇年もの付き合いのおかげで、美麻がどう思うのか陽花里にははっきりとイメージできた。
「そうだよね。こういう風に訊いてるってことは、つまりはそういうことだもんね」
陽花里は頷いた。静寂が広がる墓地の中で、美麻の墓もまた当然のように沈黙している。
でも、墓を通して自分に語りかけてくる美麻の声を、陽花里は聴いたような気になる。それを錯覚だと指摘する人間は、この場のどこにもいなかった。
「ねぇ、美麻。空から見ててね。明日のキャマラッドの試合を。私に言われるまでもないと思うけど、キャマラッドが勝つように祈っててね」
陽花里がそう語りかけても、無機物の墓は何かを返すことはない。
それでも、陽花里は在りし日の美麻と、心の中で対話できた気がした。
もし美麻が生きていたら、今もキャマラッドのことを想ってくれているだろう。それだけで十分だと感じた。
もう一度頷いて、美麻の墓を後にする陽花里。晴れ渡った空から一筋の冷たい風が吹いて、陽花里の髪をささやかに揺らした。
その日、陽花里は朝の七時には目を覚ましていた。とうとうやってきた日に、居ても立っても居られなかった。
朝食を食べて、SNSをチェックしたり動画を見たりして過ごす間も、陽花里の気持ちは逸って収まることはない。
そして、午前一〇時を過ぎた頃に、陽花里はクローゼットを開けていた。オレンジと紺のストライプが目に留まる。
今シーズンのキャマラッドのユニフォームは、未着用のままずっとハンガーにかけられていたから、まだ皺ひとつ寄っていなかった。
久しぶりに目にしたユニフォームは手にするだけで、陽花里の鼓動を速めていく。
それでも、陽花里は意を決してユニフォームに袖を通した。軽やかな着心地はもう着慣れているかのように身体に馴染んで、陽花里はいよいよ今日がその日だという思いを新たにしていた。
ユニフォームの上からアウターを着込み、陽花里は家を出る。天気は昨日と同じく快晴で、天気予報では試合が行われる時間帯は気温が一〇度を超えると言っていたから、そこまで肌寒さは感じないだろう。
長野駅東口の駐輪場に自転車を停め、電車に乗って目指すは、長野Vスタジアムの最寄り駅である篠ノ井駅だ。長野Vスタジアムへと向かうには、篠ノ井駅から運行されているシャトルバスに乗るのが、車を持っていない陽花里には一番手っ取り早い。
車内には試合開始の三時間前だというのに、ユニフォームやタオルマフラーといったキャマラッドのオレンジ色のグッズを身につけている人が多く見られて、陽花里は心強さを抱いた。
篠ノ井駅に到着すると、陽花里と同様に多くの人が、東口のシャトルバス乗り場に向かっていた。多くの観客が予想される大一番だからか、シャトルバスも普段より増便されていたようで、陽花里も難なくバスに乗って座ることができた。
通路に立つ利用客まで満員に乗せたバスは篠ノ井駅を出発して、長野Vスタジアムへと向かう。
スマートフォンを見ていても、陽花里の心は落ち着くことはない。次第に近づいてくるスタジアムに、懐かしいような緊張するような複雑な感覚を味わう。
シャトルバスは一五分ほど走って長野Vスタジアムへと辿り着く。
バスを降りて陽花里が見た長野Vスタジアムの光景は最後に訪れた去年と何一つ変わっていなくて、再びここに戻ってこられたと安堵する。
それでもスタジアムを取り巻く空気は、今まで経験したことのない独特の緊張感に満ちていて、陽花里にぐっと息を呑ませた。
待機列は入場開始前から最後尾が見えないほどに長く連なっていて、多くの観客が来ていることを陽花里に思わせる。
きっと福島のサポーターも、リーグ戦のとき以上に駆けつけているのだろう。両チームの意地と悲願がぶつかる様を想像すると、陽花里の肌は今から粟立つかのようだった。
隣にある野球場を周回するように伸びた待機列は、入場開始時間になってもなかなか動き出すことはなく、陽花里がスタジアムに入ることができたのは、入場が始まってから三〇分もしてからのことだった。
チケットをかざしてスタジアムに入った陽花里は、バックスタンドには向かわずに、その手前のゴール裏で空いている席を探す。
声を出して応援するのは、それこそ今シーズンでも初めてだが、それでもただ座って試合の行く末を見守ることは、陽花里にはしたくなかった。
それでもゴール裏も多くの席が埋まっていて、陽花里は比較的奥の方の席に空いている席を見つけた。
試合開始までは残り二時間ほど。Jリーグの公式サイトでは、両チームのスターティングメンバーも発表された。
そんななかで陽花里は応援前に軽く腹ごしらえをしようと、ゴール裏のコンコースに出店している売店に向かった。そこには既に長蛇の列ができていて、時間はかかると分かっていても、陽花里はそこに並ぶしかない。
そして、並んでいる最中、陽花里はある人物がコンコースを歩いているのを見つけた。その人物も陽花里に気づいたようで、足早に向かってくる。
黒のアウターにキャマラッドのタオルマフラーを巻いたその女性は、見紛うことなきレディアンその人だった。
「アゲハントさん、お久しぶりです! 今日来てくれたんですか!」
「はい。今日は昇格が決まる大一番ですし、せっかくVスタで開催されるからには、ぜひとも来て応援したいなと思いまして」
「そうですか。アゲハントさんは、どちらにいらっしゃるんですか?」
「ゴール裏の比較的バックスタンドに近い位置です」
「私もその辺です。よかったら一緒に応援しませんか?」
「えっ、いいんですか?」
「はい。せっかくこうして久しぶりにアゲハントさんに会えたんですから」
「そうですね。一緒に応援しましょう」
「はい。じゃあ私、席二人分取っておきますね。今空いてるのだと、大分端の方の席になってしまいそうですけど」
「いえ、私はそれでも全然構わないです」
「そうですか。じゃあ、また後で会いましょう」
「はい。また後で」
簡単な口約束を交わすと、レディアンは陽花里のもとから離れていった。
その後ろ姿を見ながら、陽花里はふとレディアンが美麻のことに触れなかったことに気づく。
きっとそれは、まだ美麻のことが頭にある陽花里への配慮だったのだろう。陽花里だって、まだ胸が痛んでいる部分はあるのだ。
だから、レディアンが自分に気を遣ってくれたことが、陽花里にはありがたく感じられた。美麻の思いも背負って応援ができそうな気がしていた。
行列は少しずつ進んでいき、ようやく売店の前に到着した陽花里は、おにぎりと唐揚げのセットと、寒いから豚汁を買った。
座席に戻ると先ほど言った通り、レディアンがゴール裏の端の方の席を、二席分取ってくれていた(キャマラッドのゴール裏は全席が自由席だ)。陽花里も自分の席から移動し、レディアンと隣り合って座る。
おにぎりや唐揚げ、豚汁を食べながらレディアンと話している間も、陽花里はスタジアムに流れる高揚と緊張を感じずにはいられない。久しぶりのスタジアムで味わう空気は、陽花里の身を新鮮に震わせていた。
陽花里が昼食を食べ終わった頃には、試合開始まで一時間を切っていた。
ちょうどそのタイミングでスタジアムには勇壮な音楽がかかる。フィールドプレイヤーに先駆けて、ゴールキーパーがウォーミングアップを始めるのだ。
陽花里もレディアンとともに立ち上がり、拍手でゴールキーパーを迎える。そして、ゴール裏のファン・サポーターは選手個人の応援歌を歌い始めた。陽花里もレディアンとともに、今日のために聴いてきた応援歌を歌う。
久しぶりだから、いきなり大きな声は出せなかったけれど、それでも応援歌を歌っていると、陽花里は湧き上がるような高揚感を覚える。自分の声がスタジアムの雰囲気づくりに一役買っていることが、誇らしく思える。
それに、ファン・サポーターの声量は、陽花里が記憶していたよりもずっと大きかった。
それはこの大一番にゴール裏を端から端まで埋めるほど、キャマラッドのファン・サポーターが集まっていることが大きいのだろう。
福島のファン・サポーターが歌う応援歌も陽花里のもとまでは届いてこず、スタジアムには試合が始まる前からはっきりとキャマラッドのホームの雰囲気が醸し出されていた。
ゴールキーパーに続いてフィールドプレイヤーがピッチに登場しても、ゴール裏のファン・サポーターが歌う応援歌は止むことはなかった。チームの応援歌と個人の応援歌を織り交ぜ、それはウォーミングアップが終わるまで続いた。
キャマラッドには、選手全員にそれぞれの応援歌がある。だから、覚えることは陽花里には少し大変だったのだが、それでもばっちり予習をしてきたおかげで、どの応援歌にも詰まることはなかった。
出せる声も次第に大きくなっていき、陽花里はたとえ今日が今シーズン初めてのスタジアムでの観戦だとしても、自分は間違いなくキャマラッドのファン・サポーターなのだと、帰属意識を抱くことができる。久しく味わっていなかった心地いい感覚に、気分も大いに乗せられていく。
何より一体となった歌声から「今日は絶対に勝つ!」という意気込みが強く感じられて、陽花里は内心で頬を緩めた。
こんなにも勝ちたいと思っているのだから、今日はキャマラッドが絶対に勝つだろう。何の根拠もないのに、そう思えた。
選手たちのウォーミングアップが終わって、今日の試合を担当する審判団と両チームの選手紹介も過ぎると、いよいよ試合開始が近づいてくる。
選手入場にあたって何をすればいいのか。陽花里は明確に覚えていた。
タオルマフラーを頭の上に掲げ、選手入場時の応援歌を多くのファン・サポーターとともに歌う。キャマラッドの勝利を願う歌詞が、スタジアムを包み込んでいく。
さらにゴール裏だけでなく、バックスタンドやメインスタンドの観客も大勢が立ち上がって、キャマラッドのオレンジ色のタオルマフラーを掲げてくれていた。
アウェイのゴール裏以外は二階席まで満員に入った観客が、キャマラッドのチームカラーであるオレンジ色を示している様子は壮観で、福島のファン・サポーターがいてもなお、陽花里は強い一体感を抱く。これだけキャマラッドを応援するファン・サポーターがいるのだから、勝てないはずがないと改めて思う。
応援歌のテンポは選手入場の時間が近づくにつれて、少しずつ速くなっていき、陽花里にもいよいよだという思いが高まっていく。
そして、Jリーグのアンセムが流れ選手が入場を始めると、スタジアム中に高まった期待は一気に弾けた。多くのファン・サポーターと一緒に、陽花里もタオルマフラーを頭上で振り回す。
多くの観客が同じことをしていて、スタジアム全体が一つの生き物になったかのようだ。
試合前から興奮のるつぼに自分がいるようで、陽花里は早くも感慨深くなってしまう。
両チームの応援歌がこだまするスタジアムよりも高揚感のある空間を、陽花里は知らなかった。
円陣を解いた両チームの選手たちが、ピッチに散らばる。
両のゴール裏からは、選手たちを鼓舞する応援歌が盛大に歌われる。
陽花里も音程を気にしない大きな声を出しながら、心の中でキャマラッドの勝利を強く祈る。
美麻は空の上からこの光景を見ているだろうか。キャマラッドの勝利を、自分と同じように祈ってくれているだろうか。
息を呑むかのようなスタジアムの空気。
そのなかで、試合開始を告げる笛が高らかに鳴り響いた。
(完)