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【前編】12月→8月



 試合終了を告げる笛が、スタジアムに鳴り響く。その瞬間、選手はピッチに崩れ落ちるかのようにして座り込み、スタジアムは一瞬静寂に包まれる。


 はっきりと流れるのは意気消沈とした空気だ。最後の一秒までチームを信じて応援歌を歌い続けていたゴール裏のサポーターも、今は押し黙ってただただピッチを眺めている。


 0―2。AC長野キャマラッドは、今シーズンの最終戦を敗北で終えていた。


「……負けちゃったね」


 ピッチを見ながら、望月美麻(もちづきみま)が呟く。その声は試合前から応援を続けていたこともあって、少し枯れていた。


「そうだね。負けちゃったね」


 同じくピッチに目をやりながら、朝倉陽花里(あさくらひかり)が答える。ピッチでは選手が少しずつ立ち上がり、整列をし始めていた。


「勝てば残留の可能性もあったのにね……」


「うん。そんなに甘くはないと分かっていても、この結果はやっぱり堪えるものがあるよね……」


 二人の口調は、スタジアムの雰囲気と同じように沈む。実際、陽花里はすぐには気持ちを切り替えられなかった。


 AC長野キャマラッドは昨シーズン初めて十年越しの悲願だったJ2昇格を果たした。


 今シーズンは初めてのJ2での戦いだったのだが、強豪揃いのJ2はやはり厳しく、キャマラッドは黒星が先行し、残留争いを余儀なくされていた。


 そして、迎えた最終節。J2残留のためには勝つしかない大一番を、キャマラッドは落としてしまっていた。


 来シーズンはJ3に降格することもあって、スタジアムにやってきた観客は落胆を隠せていない。試合が終わってぞろぞろと帰り始めている。


 それでも陽花里たちは、整列して礼をした選手たちに拍手を送っていた。どんな結果になろうと、今年一年J2を戦った選手たちを労いたい。陽花里たちは、今日スタジアムに来る前からそう決めていた。


「来年はJ3での戦いになっちゃうけど、また一年でJ2に戻れたらいいよね」


「何言ってんの、陽花里。『戻れたらいいよね』じゃなくて『戻る』んでしょ。そのために私たちは、来シーズンも精いっぱい応援しなきゃ」


「うん。そうだよね。このままじゃ終われないもんね」


 そう陽花里が答えると、美麻も分かったかのように頷いていた。たとえJ3に降格したとしても、来シーズンもAC長野キャマラッドの戦いは続くのだ。それを美麻と一緒に応援できることが、陽花里にとっては辛い現状での数少ない希望に思える。


 選手たちがゴール裏に向かってくる。ゴール裏のサポーターから「来シーズンは一年でJ2に戻ろう」と伝えるかのように、「キャマラッド」コールが巻き起こる。


 陽花里たちも、残っている力を振り絞って声を張り上げた。


 自分たちは来年もここにいる。キャマラッドを応援する。そのことを選手たちに伝えたい一心だった。





 シーズンが終わっても、二人はAC長野キャマラッドの動向を気にし続けていた。


 サッカークラブはシーズンが終わると、ストーブリーグというもう一つの戦いに突入する。


 出場機会の少なかった選手の契約満了や、来シーズンも長野のためにプレーしてくれるという契約更新。他クラブからの移籍加入や、反対に他クラブへの移籍等々。


 一つ一つのニュースに、二人はシーズン中と変わらないほど一喜一憂する日々を過ごす。


 それでも来シーズンへの期待は徐々に高まっていき、二人が気づいたときにはもう新しい年を迎えているほどだった。


 一月も中旬に入ると、新チームとなったAC長野キャマラッドは再始動する。


 でも、日中に行われる練習は、陽花里も美麻もカレンダー通りの会社勤めをしているから、なかなか見に行くことはできない。それはチームが宮崎で一ヶ月にもわたるトレーニングキャンプを敢行すると、さらに輪がかかる。


 でも、宮崎には行けなくてもSNSや公式サイトで毎日何らかの情報は発信されていたから、二人はこまめにそれらをチェックしていた。練習試合であの選手がゴールを決めたとか、あの選手の調子が良さそうだとか。


 開幕戦のスターティングメンバーにどんな一一人が並ぶのか予想をするのも楽しく、二人はシーズンオフでも退屈しない日々を送っていた。


 今シーズンのJリーグの開幕も日に日に近づく、二月のある日。陽花里はいつものように、会社に行って仕事をしていた。


 そんななかでも心がソワソワして止まなかったのは、いよいよ今週末に今シーズンのJリーグが開幕するからだろう。


 AC長野キャマラッドはアウェイ大阪の地で開幕戦を戦うことになっており、そこに軽い観光も兼ねて陽花里は美麻と一緒に行く計画を立てていた。既に試合のチケットも買ってある。


 まだ週も半ばの水曜日でも、陽花里の心はすっかり週末に向けられていた。その日が来るのが、今から待ち遠しくて仕方がなかった。


 ちゃんと定時通りに退勤し、陽花里が家への帰り道を歩いていると、アウターのポケットに入れていたスマートフォンが着信音を鳴らした。


 陽花里が確認してみると、電話をかけてきたのは美麻の母である伊織(いおり)だった。陽花里と美麻は、高校のときに美麻が陽花里の隣の家に引っ越してきてからの付き合いで、家族同士の仲も良く、伊織も陽花里の電話番号を知っている。きっと今月末に控える、美麻の誕生日のことだろう。


 だから、陽花里はなんてことない調子で電話に出る。だけれど、「もしもし、陽花里ちゃん……?」と言う伊織の声は心なしか震えていて、いつもの明るい調子とは異なっていた。


「はい。伊織さん、どうかされたんですか?」


 陽花里がそう答えると、伊織は電話の向こうで何かを言い淀む様子を見せた。言葉にするのが恐ろしいかのように。


 その態度に、陽花里も普段とは違うものを感じてしまう。


 自分を落ち着かせるように息を吐いた伊織から出た言葉は、陽花里がまったく予期しなかったものだった。


「美麻がね……、今日の昼事故に遭ったの……」


 想像だにしていなかった伊織の言葉に、陽花里の足は思わず止まってしまう。道路の雑踏が、耳をつんざくようだ。


「どういうことですか……?」


「今日ね、美麻が横断歩道を渡っていたら、信号無視の車が突っ込んできてみたいで……。それですぐ病院に運ばれたんだけど……」


 そこから先を言えなかった伊織に、陽花里は今の美麻の状態を、絶望的に悟ってしまう。足が震えて立っていられなくなってしまいそうになる。


 それでも、陽花里は「美麻は大丈夫なんですか!?」と伊織に訊いていた。どんな返事が返ってくるか、分かっていたとしても。


「……ねぇ、陽花里ちゃん。美麻に会いに来てくれない……?」


 明言しなかった伊織に、陽花里が抱く真っ黒な予感は確信へと姿を変えていく。それでも、陽花里はどうにか堪えて、美麻がいる病院の名前を訊いた。


 伊織からその情報を訊き出すと、陽花里は努めて顔を上げる。棒になりそうな足をどうにか前に動かす。


 そうしていると、タイミングが良いのか悪いのか道路にはタクシーが通りかかり、陽花里は意識せずに右手を挙げていた。





 病院に到着した陽花里が通されたのは、患者が入院している病室ではなかった。自分の先を歩く看護師は病室に目をくれる様子もなくて、陽花里は今の美麻の状態をはっきりと悟ってしまう。


 そして、その陽花里の予感は最悪の形で的中した。病院の地下にあったその部屋の入り口には、「霊安室」と書かれていた。


 看護師がドアを開けた瞬間から、陽花里の目は正確に部屋の中の光景を捉えた。


 部屋の中央、一台のベッドの上に一人の人物が横になっている。顔には白い布を被せられていて、それが紛れもない美麻であることが、陽花里には一目見ただけで分かった。


 それと同時に、部屋にいるのが美麻だけではないことにも、陽花里は気づく。


 壁際には伊織と美麻の父親である宗太(そうた)が立っていた。でも、二人は立っているのもやっとというような、ぐったりとした表情をしている。


 それでも二人は陽花里に気づくと、最大限穏やかな表情を取り繕って「陽花里ちゃん、来てくれたんだ」と声をかけてきた。


 その配慮が陽花里には辛かったけれど、何も答えないわけにはいかない。簡単な返事をして、「美麻の顔、見てもいいですか……?」と尋ねる。


 二人が頷くと、陽花里はゆっくりと美麻のもとへと向かった。


 おそるおそる顔に被せられている布を取る。すると、そこに現れたのは陽花里が見間違えるはずもない、れっきとした美麻の顔だった。


 でも、額のあたりに残った打撲痕が事故の衝撃を痛々しく伝えていて、白い肌は文字通り血の気が引いている。何よりもう動かない美麻の目が、口が、皮膚が美麻がこの世の者ではなくなってしまったことを、残酷なほどに物語っていた。


 美麻の状態は、「事故に遭った」と陽花里が聞いたときに想像したほど酷いものではなかったが、それでも結果は同じだ。


 物言わなくなった美麻を目の当たりにして、陽花里の目からは自然とこぼれ落ちるものがある。いくらせき止めようとしてもとめどなく溢れ出て、陽花里はそれでも嗚咽を漏らしそうになるのを、口に手を当てて必死で堪える。


 美麻と一緒に過ごした時間は、陽花里の中で大きな比重を占めていた。


 美麻の葬式の日は、ちょうどAC長野キャマラッドの開幕戦と同日だった。それでも、こんなことになった以上、陽花里に大阪まで行く選択肢はない。


 陽花里は前日の通夜に続いて、美麻の葬式にも家族とともに参列する。


 市内にあるセレモニーホールで行われた葬式には、もともと美麻が活発で人当たりの良い性格をしていたこともあって、多くの参列者が訪れていた。


 でも、一人また一人と参列者が来るたびに、改めて現実を突きつけられるようで、陽花里の気持ちはより沈んでしまう。美麻の遺影すら直視できないほどだ。


 淡々と進んでいく葬式にも、陽花里の心は澱んで暗くなっていく。ちょうど同じタイミングで行われているキャマラッドの試合のことは、少しも意識できなかった。


 それでも、キャマラッドは開幕戦を2―0で勝利していた。続く第二節も1―1の引き分けに持ち込み、迎える第三節はいよいよ、キャマラッドの本拠地である長野Vスタジアムでのホーム開幕戦だ。陽花里としても、待ちに待った日である。


 ただし、それは美麻が事故に遭う前の話だ。今の陽花里は何とか毎日会社には通えているものの、家に帰ると何もする気が起こらず無気力な日々を過ごしている。


 美麻を亡くした痛みは、二週間程度では陽花里の中では癒えなかった。


 それでも、陽花里がショックを引きずっていても日々は着実に流れ、キャマラッドのホーム開幕戦が行われる日曜日を迎えていた。


 一〇時すぎに目を覚ました陽花里は、クローゼットを開ける。そこにはオレンジと紺のストライプが目に鮮やかな、キャマラッドの今シーズンのユニフォームが吊されていた。


 本当は先々週に着ていくはずだったユニフォーム。それに手をかけた瞬間、陽花里の脳裏にはある思いがよぎった。


 自分だけが、キャマラッドの試合を見に行っていいのか。美麻は、もう見に行くことが叶わないというのに。


 もちろん自分と美麻は、別の人間だ。美麻が亡くなったからといって、陽花里がスタジアムに行ってはいけない謂れはどこにもない。


 でも、一度そう思ってしまうと、その思いはどんどんと陽花里の中で大きさを増していき、耐え切れなくなった陽花里は、ユニフォームから手を離していた。


 まだ試合開始までには三時間ある。今急いで決めなくてもいいだろう。


 そう思ってクローゼットを閉めた陽花里は、朝食を作るためにキッチンへと向かう。


 でも、キッチンに立ちながら、いくら時間が経っても今日自分はキャマラッドの試合を見に行かないだろうなと、陽花里は漠然と感じていた。





 果たしてその予感の通り、陽花里はその日長野Vスタジアムに行かなかった。いや、行かなかったというよりも、行くことができなかったという方が正しい。


 何度もクローゼットを開けてキャマラッドのユニフォームに手を伸ばしたものの、美麻のことが陽花里の心にブレーキをかけていたのだ。


 ネット中継も見ることができずに、陽花里はキャマラッドのことが気になりながらも、その間時間を持て余す。


 それでも、キャマラッドは2―1で勝利を収めていて、それは今の陽花里に対する一時の慰めとなっていた。Jリーグの公式ホームページで試合結果を確認したときに陽花里は安堵したが、それもその日じゅうは続かない。


 美麻と一緒にスタジアムで見られていたら、どれだけの喜びを感じられていただろう。そう思うと陽花里は、どこか後ろめたい思いを感じずにはいられなかった。


 それでも、その二週間後に行われた次のキャマラッドのホームゲームにも、陽花里は行くことはできなかった。四十九日も過ぎていない段階では、美麻が生きていたらという思いを振り切ることはできなかったのだ。


 それは次のホームゲームも同様で、陽花里はシーズンが開幕してからもしばらくは、サッカーを見るどころではない日々を送っていた。


 その間もキャマラッドは、シーズン初めての黒星を喫しながらも着実に勝ち点を積み上げていて、J3でも上位をキープし続けていた。


 しかし、やはり陽花里は長野Vスタジアムへの一歩を踏み出せない。


 そうしたまま時間は過ぎていき、世間はすっかりゴールデンウィークに突入した。美麻の四十九日も過ぎて、陽花里が出かけるには何の支障もない。


 それでも、陽花里は外に出るにしても自宅の近所が限界で、長野Vスタジアムへと足を伸ばすことはなかなかできずにいた。


 陽花里が活動的になれないながらも日々は過ぎていき、気がつけばゴールデンウィークも最終日を迎えていた。


 その日は長野Vスタジアムでのホームゲームがあって、キャマラッドは2―2で引き分けていた。試合終盤にどうにか追いついた形で、結果を知ったときに陽花里は大きく息を吐いていた。


 そして、ほとんど何もしなかったし、どこへも行かなかったゴールデンウィークも終わりかと陽花里が思い始めた夜。ふとSNSを開くと、一件のダイレクトメッセージが陽花里のもとに届いていた。


〝アゲハントさん、久しぶり。元気にしてた?〟


 ダイレクトメッセージの送り主はレディアン。陽花里とも親しく、陽花里よりはいくらか年上の女性だ。本名は知らないが、陽花里とはキャマラッドのサポーター仲間で、スタジアムで顔を合わせたときも気軽に話せる仲の人物である。


 ダイレクトメッセージを送られてきた以上、陽花里も無視するわけにはいかず、ひとまず返事を取り繕った。


〝はい。おかげさまで、なんとか〟


 陽花里の返信は現状を反映しているとは言い難かったが、それでもレディアンは気づくはずもなく、〝そう、よかった。最近なかなかVスタに来ないからちょっと心配してたんだ〟と送ってくる。


 それは陽花里の心をかすかに抉ったが、それでも陽花里は〝まあ、色々と忙しくて〟と取ってつけた答えを返す。さらに、レディアンに詮索される前に、立て続けにメッセージを送った。


〝レディアンさん、今日よかったじゃないですか。最後、キャマラッドが土壇場で追いついて〟


〝うん。確かに負けなかったのはよかったんだけど、それでもチャンスは相手よりも多く作れていたから、やっぱり勝ちたかったっていうのが本音かなぁ〟


〝でも、キャマラッド、調子悪くないみたいじゃないですか。これで四試合負けなしですよね?〟


〝そのうち三試合がドローだけどね。まあ、でも次は勝ってくれるでしょ〟


〝次は確か沼津とでしたよね。レディアンさんも応援に行くんですよね?〟


〝うん。そのつもり。精いっぱい応援してくるよ〟


〝はい、お願いします。沼津に行けない私の分まで〟


〝うん、分かった。ところで、アゲハントさんは今度いつVスタに来るの?〟


 レディアンにとっては、何気ない疑問だったのだろう。でも、その文面が自分の胸を刺してくるように陽花里には感じられる。


 今の陽花里は、まだ長野Vスタジアムに足を運ぶ気分にはなれていない。そして、いつまたそのような気分になれるかという保証はどこにもなかった。


〝それはまあ、色々落ち着いたらいずれは行きたいと思ってます〟


〝そう。無理はしてほしくないんだけど、それでも私はまたアゲハントさんに会いたいな。アゲハントさんがいないVスタはちょっと物足りない感じがするから〟


〝ありがとうございます。私もまた近いうちに行けるように頑張ります〟


〝うん。でも、やっぱり無理はしないでね。アゲハントさんのペースで全然大丈夫だから〟


〝分かりました〟


 そう簡潔な返信を送った陽花里に、レディアンはハートのスタンプを押すことで返事としてきた。やり取りが終わった合図に、陽花里もSNSを閉じる。そして、座っていた椅子の背もたれに寄りかかった。


 レディアンが自分を待ってくれるのはありがたい。でも、果たして自分はそれに応えられるのだろうか。


 その答えは、今の陽花里にはまだ分かるはずもなかった。





 陽花里が相変わらず長野Vスタジアムに行けないままでも、日々は着実に流れ、いつの間にか冷房と日焼け止めが欠かせない季節となった。一歩外に出れば、眩しい日差しとじっとりとした暑さに目を細めてしまうほどだ。


 そんななかでも、陽花里はキャマラッドの動向は毎週欠かさずチェックしていた。キャマラッドは一時期三連敗と調子を落とした時期はあったものの、最近は調子を取り戻し、リーグ戦も後半に入った今は四位と悪くない順位をキープしていた。この調子でいけば、三位~六位のチームで争われるJ2昇格プレーオフには進出できる。


 それでも、選手や監督をはじめファンやサポーターも、誰一人として現状には満足していないだろう。キャマラッドが目指しているのは、あくまでJ2への自動昇格を果たせる二位以内だ。そのためには、勝利を積み重ねる以外に道はなかった。


 その日は木曜日だったが、陽花里の会社は休みとなっていた。八月も中旬を迎え、世間ではお盆の期間に入ったためだ。


 勤めている会社がちゃんとお盆休みを取ってくれるホワイト企業であることに感謝しつつ、昼前に起き出した陽花里はワンピースにフレアスカートといった外出着に着替えて、部屋を出る。


 ドアを開けると、高く昇った太陽が強い日差しを浴びせかけてきて、陽花里は思わず顔をしかめた。


 自転車を漕いで陽花里が向かった先は、少し離れた場所にある寺だった。陽花里が通っていた小学校にもほど近く、自転車を走らせているだけで陽花里には懐かしい感覚がする。


 途中でスーパーマーケットに寄って、近隣の駐車場に自転車を留め、陽花里は境内に入る。


 お参りは後ですればいいと本堂を通り過ぎて、陽花里が足を踏み入れたのは本堂の隣にある墓地だった。向かう先は決まっている。


 陽花里が立ち止まった墓に刻まれた名前は、「望月家之墓」だ。美麻はここで、曾祖父母とともに眠っている。


 まさか美麻だって、こんなに早くここに入ることになるとは思っていなかっただろう。


 四十九日のとき以来に訪れた墓前で、陽花里は改めて胸を痛めていた。


 ロウソク立てにスーパーマーケットで買ったロウソクを立てる。そしてライターで火をつけると、陽花里は線香を取り出して(これもスーパーマーケットで買ったものだ)、火に近づけた。火が灯った線香から、白檀の香りがする。


 手で扇いで火を消した線香を陽花里は墓前に供えて、そしてしゃがみながら手を合わせた。


 頭に在りし日の美麻の姿を思い描く。思い出すのは笑顔の美麻ばかりで、その記憶をいつまでも心に留めておけるように、陽花里は長い時間手を合わせ続けた。


 せめて美麻が天国で穏やかに過ごせていますように。そう祈って立ち上がる。


 そして、墓地から立ち去ろうとしたそのときだった。墓地に美麻の両親である宗太と伊織がやってきたのだ。手には花と水の入った桶が握られている。


 今日は迎え盆の日だから、二人がここに来るのは当然のことだろう。だから、三人は一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど、それもすぐに元に戻っていた。


「宗太さん、それに伊織さんも。お久しぶりです」


「うん、久しぶり。陽花里ちゃんも美麻の墓参りに来てくれたんだ。ありがとね」


「いえいえ、友達だったので当然ですよ」


 陽花里がそう言ったきり、三人は少し押し黙ってしまう。墓地で会話が弾むわけがない。


 かすかな気まずさを感じ、陽花里が「では、私はこれで失礼させていただきます」と言って、再び歩き出そうとした頃だった。伊織がふと呼びかけてきたのは。


「ねぇ、陽花里ちゃんって、もうお昼ご飯は食べたの?」





 墓参りを終えた陽花里たちが再び落ち合ったのは、県道沿いにある喫茶店だった。陽花里も学生の頃から何回か訪れていることもあって、ダークブラウンを基調としたシックな店内に安心感がある。


 それでも宗太と伊織を前にして、陽花里の気持ちはどこか落ち着かない。二人と会うのは、それこそ美麻の四十九日以来だ。


 以前までなら肩ひじ張らない間柄でいられたのだが、それでも今の陽花里は少し緊張を覚えてしまう。


 美麻の事故は三人にとって、もう覆せない決定的な影響を与えていた。


「で、最近どうなんだ? 陽花里ちゃんの方は。どうにかやれてるのか?」


 宗太がそう切り出したのは、運ばれてきたアイスコーヒーに、三人がそれぞれ口をつけてからだった。「元気に」という言葉よりも「どうにか」という言葉を選んだことに、陽花里は自分に対する配慮と宗太の今の心情を察する。


「はい。おかげさまでなんとか日々を送ることができています」


「仕事はどうなの? うまくいってる?」


「まあ、可もなく不可もなくといった感じですね。めぼしくはなくても、それなりの成果は上げられていて、どうにか雇ってもらえ続けてます」


「そっか。まあ何事もないのが一番だよな」


 宗太のその言葉には強い説得力があって、陽花里も「そうですね」と頷く。


 たとえ毎日が笑顔でいられるほど幸せでなくても、大きな不幸が起きさえしなければそれでいい。その思いは、雫もここ半年間抱き続けていた。


「ところで、お二人はどうなんですか?」


 いったん終わりかけた話題を、陽花里は気を遣って繋ぐ。宗太がなんてことない表情を装って答える。


「俺たちも陽花里ちゃんと同じだよ。どうにかやれてる。仕事も、生活も。本当嘘みたいに何もない日々だよ」


「そうなんですね。この言い方が合ってるのかは分かんないんですけど、それはよかったです」


「うん。最近になってようやく美麻の遺品の整理も始めることができたんだ。まあしょっちゅう手が止まって、なかなか進まないんだけどね」


 伊織がそう言ったのは、おそらくありふれた近況報告の一つなのだろう。


 でも、陽花里は「そうですか」と相槌を打つことしかできない。美麻が亡くなったという事実を改めて思い知らされて、心が重くなっていくようだ。


 近況報告もそこでいったん終わってしまう。三人のテーブルに一瞬沈黙が降りる。


 店内には一人客も多く、話し声はさほどなかったから、陽花里にはその沈黙がより身を切るように感じられた。


「そ、そういえば、キャマラッド、最近調子いいよね」


 気まずさに耐えかねるように伊織が口にした話題は脈絡はなかったが、それでもこの場に不釣り合いなものでもなかった。


 陽花里と美麻がホームゲームがある度に、長野Vスタジアムに足を運びキャマラッドを応援していたことは、伊織たちも知っている。


「そうですね。今は夏の中断期間に入っちゃってますけど、でも最近は五試合負けがないですから。順位も四位と良い位置につけてますし」


「確か前の試合では、獲得したばかりのフォワードの選手がゴールを決めたんだよな」


「はい。昇格するために夏の補強も積極的に行ってますし、中断期間が明けても期待できると思います」


「そうだね。でも、陽花里ちゃんは最近Vスタに行ってないんでしょ……?」


「どうして分かったんですか」とは陽花里は訊かなかった。


 宗太も伊織も、陽花里のSNSのアカウントをフォローしている。そして、そのSNSにシーズンが始まってから長野Vスタジアムに行ったという投稿を、陽花里は上げていなかった。


 もちろん、SNSに投稿していないだけで、スタジアムへは足を運んでいるということも考えられる。


 だけれど、昨シーズンまでは毎試合欠かさずSNSに投稿していた陽花里を二人は知っているから、それを言っても詮無きことだろう。二人に対して嘘も、陽花里はつきたくなかった。


「そうですね。ちょっとあまり行く気になれなくて」


「それはやっぱり美麻のことが関係してるの……?」


 陽花里は小さく頷く。二人の前では、嘘やごまかしは通用しないと思った。


「ねぇ、陽花里ちゃん。私たちがこんなこと言うべきじゃないかもしれないけど……」


 伊織はいったんそこで言葉を区切っていた。努めて顔を上げながら、陽花里には伊織が次に何を言うのかが分かる気がする。


「美麻はそんなこと望んでないんじゃないかな。もし美麻が今もいたら、陽花里ちゃんには変わらずキャマラッドを応援してほしいって思うんじゃないかな」


 伊織の言葉は、陽花里が想像した通りのものだった。


 美麻が今も生きていたら、今の自分に何と言うかは陽花里だって考えなかったわけではない。


 でも、それを考えてもなお、陽花里は長野Ⅴスタジアムへ足を運べずにいるのだ。美麻はもうキャマラッドの試合を見ることは叶わないというのに、自分だけがのうのうと応援していいわけがないと思ってしまっているのだ。


 でも、伊織たちの前ではそんなことは陽花里には言えるはずもなくて、「そうですよね……」という曖昧な返事しかできない。


「うん。別に無理して行く必要はないと思うけど、それでも今のキャマラッドの試合を見れるのは、陽花里ちゃんだけだから。それもしんどく感じるようだったら、私たちとしても強制はしないよ。陽花里ちゃんは陽花里ちゃんのペースでやればいいんだから」


 俯きかけている自分を気遣ってくれた伊織に、陽花里は「ありがとうございます」と返す。


 まだスタジアムに行けるような気にはなっていなくても、配慮してくれることに少し申し訳なさも感じながらも、陽花里は素直に礼を言うことができた。


 宗太や伊織も頷くと、キャマラッドの話題は幕を閉じる。それでも、陽花里たちのもとに注文した料理が運ばれてくる気配はまだない。


 場を繋げるために宗太が最近市内にオープンしたラーメン店の話をし始めて、陽花里たちも他に話すことも思い浮かばなかったので、その話に乗る。


 なんてことのない世間話をしながら、陽花里は心に開いた穴がまだ塞がっていないことを自覚していた。



(続く)

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