弐
「こんなに遠かったっけ?」
社務所へ向かう道。子供の頃は確かに長かったが、つい最近練習で来た時はこんなに近かったんだと驚いた筈。
「…音が、しない」
慧の言葉に同じく首を捻った遥華は振り返り異変に気付いた。
「!!ホントだっ!何で?まだお祭り終わりじゃないよね?」
「うん…まだ6時過ぎだし」
町から離れているとはいえ、こんなに真っ暗になるだろうか。あれ程あった提灯の灯一つ見えない。
まるで自分達が闇に呑まれたような錯覚に、遥華は不安気に周りを見回した。慧も同様に胸の前でバッグの紐を握り締める。
「戻ろう」
「うん」
2人は顔を見合わせると足早に元来た道を戻った。だがいくら斜面をくだろうと、一向に何の音も聞こえず、闇からも抜け出せなかった。不安から周りを見回していた慧は、遥華の異変に気付き足を止めた。
「遥ちゃん、足」
「うん。けどそれより今は戻らなくちゃ」
「もう30分は戻ってるけど提灯も見えないし、鳥居からも外れちゃったみたいだから、少し休もう?」
暗がりの中、慧の声に周りを見渡せばいつの間にか鳥居も無くなっていた。何処までも続く闇に、遥華は小さく震えた。慧は震える遥華の手を握ると歩幅を小さく道を確認しながら古木の側に寄った。
「私いつも持ってるんだ!これ傷薬と消毒。絆創膏と…」
「ごめんね慧ちゃん」
履き慣れない下駄で緩やかとはいえあんなに坂道を登ったんだから仕方ないと慧はバッグを開け遥華に差し出す。下駄を脱いだ遥華は暗い中、慧が照らすスマホの光で擦れた肌に薬を塗り込んだ。
「電話しようと思ったんだけど、圏外だった」
スマホを確認した慧は肩を竦めた。自分のスマホも取り出し確認した遥華も圏外だと首を振る。秋祭り中に神社の境内で遭難。
あと何年か経ったら笑い話になるだろうと遥華に笑い掛ければ遥華もつられた様に微笑んだ。
「もし遭難なら下手に歩かない方が良いよね」
「遭難する程の山じゃないけど…そうだね。明るくなれば方向も分かるだろうし、山道は危ないから足場の良さそうな所探そうか」
2人は戻る事を諦め闇が明けるまでの居場所を探す事にした。闇の中で逸れない様、突発的な事に備える様、互いの手を握り空いた手でスマホを足元に翳しながら道を進む。
裏方の浴衣姿の慧と、きらびやかな舞の衣装の遥華。地下足袋だけは自前だが他は借り物。もし自分達が戻らなければ衣装が足りず、異変に気付いてくれるはずだと慧はゆっくり道を進んだ。
「石?」
「…階段?みたい」
やがて足の裏に伝わる感触が異なる。首を傾げる慧の言葉に屈んで地面を照らした遥華は、突如現れた石段に光を当てた。
「明かり!あそこっ!誰かいるんだよ!良かったーっ」
そのずっと先の動く光に慧が声を上げる。遥華は小さく安堵の息を吐いた。
「此処で待ってて、直ぐ誰か連れて来るっ」
「うん。けど慧ちゃん、無理しないでね?」
「大丈夫!私お守り持ってるもん。逃げていくお守り!」
自分の足を気遣って一人で行って来ると言う慧の言葉に眉を下げると慧はバッグからお守りを取り出し見せる。何処かも分からない状況で暗がりに一人置かれる遥華の為にも早く戻って来ようと慧は石段を駆け上がった。
「お…守りっ、」
お守りを握り締めながら慧は、やっぱり願いを叶えてくれる御利益の方が良かったかも。と息を切らしながら顔を顰めた。
光は見えるのに辿り着かない。遥華よりはマシだが自分もはき慣れない地下足袋。慧は大きく背を伸ばして息を吸い、頑張ろうと額の汗をぬぐい石段を登り続けた。
死ぬ思いで階段を登り切った慧は、目の前の光景に呆然とした。チラチラと見えていたのは炎。走っていたから暑かっただけではなかったんだと密かに思う。
「消防!えっと何番だっけ?圏外!あ、けど緊急連絡は出来るって聞いた気がする」
轟々と燃える炎に近付く事も出来ず、慧は通報だ!とスマホを取り出し三桁の番号を押した。
「都市伝説かよ!」
通話になる事なく舌打ちをしてスマホをしまった慧は、一人で如何しようと周りを見回した。見た感じお寺。ならば消火器が何処かにある筈!と炎を遠巻きに燃えている建物に近付いた。
「え、あれ?…何やってるんだろう?」
思わず立ち止まって目を瞬かせた慧は一人首を傾げた。この状況ならば消火活動が最優先の筈。なのに建物から離れた庭には何故か人が数人、お坊さんっぽい人達を真ん中に座らせ取り囲む様に立っていた。
遠目ではっきりとは確認できないが日本刀のような物を持ち、お坊さん達を威嚇しているように見える。
「撮影?今時代劇って地上波でやって無いよね…?」
良く見れば囲んでいる男達は皆着物姿。足は素足に草鞋のような物を履いている。これはもう何かの撮影だと慧は映っちゃったら如何しよう?!とドキドキしながらカメラを探し周りを見た。
遠くから撮っているのだろうかスタッフが一人も見当たらない。慧は撮影を中断させてはいけないと庭木に隠れるように待機した。
「結構時間経ったけど、これ何時終わるのかな?撮影見たの初めて!写真撮っても良いかな?」
貴重な体験。遥華にも此の様子を見せてあげたいと慧は不安に待って居るだろう遥華への楽しい話題の為にと、なるべく邪魔にならないようにと庭木に隠れ細心の注意を払いスマホを構えた。
「撮影があったから、お囃子聞こえなかったのかな?けどそんな予定言われてなかったような…」
遥ちゃんなら分かるかなと首を傾げた慧は俳優勢しか見当たらない周りをもう一度確認した。今まで何も無かった山に伸びる石段等も燃えている寺も作ったのだろう。
想像していた慧は、上に居ないなら下にスタッフが居る筈。もしかしたら遥華と一緒に居た方が発見が早かったのでは無いかと眉をさげた。
「随分よく燃えてるなぁ…山火事になったりしないよね」
撮影中は動かない方が良いかと隠れ続けている慧は、木の爆ぜる音に眉を下げた。火を取り扱っているのに消防車一台も待機していない。慧は自分が知らないだけで消防車が待機出来るような斜面があるのか?と首を傾げた。
「…ぅわぁ…リアルだなぁ」
刀を持った男達が荒げた声に視線を撮影の方へ移動すると、仲間割れなのか皆、どこかへ走り去る。その間に逃げようとした僧の一人が背中から斬られた。
鬼気迫る苦悶の表情に慧は見学するなら他のシーンが良かったと思いつつ迫真の演技を終え直ぐ側に突っ伏した様に眉を下げた。
「有名な俳優さんなのかな?後でサインとか、貰えるか……う、そ」
ピクリとも動かなくなった僧を見て有名な人なのかな?と目を凝らした。目を見開いたまま、動かない僧の様子に慧は怪訝な顔で恐る恐る手を伸ばし状況に蒼褪めた。
「え…」
瞬きもしない虚ろな瞳。慧の前に倒れた男には脈拍が無かった。
生暖かい皮膚から手を放した慧は男の下に沁み出て広がる黒い液溜まりを目にし、思う様に動かない体で座ったまま後ずさる。
男は死んでいる。
ならばあれは本物の刀で、これは演技などではない。ガクガクと震え呼吸もままならない。ここから直ぐ去り遥華に伝えなくてはと思いだけが先行する。
「?!」
「…お静めなさい。援軍が来たようです、今暫し待ちましょう」
「んーっ?!ん…?」
震える両手を地に付き、何とか立ち上がろうとする慧を何かが捕えた。急な事に対応出来ず再び屈む様な姿勢で羽交い絞めにされ口元を押さえられた慧は恐怖で暴れる。
がっちりと自分を拘束する男は、優しく落ち着いた声音で慧を諭すよう話し掛けた。恐る恐る視線を移すと、そこには袈裟姿の僧が居た。
「っ、はっ…は、ぁ」
「落ち着かれましたかな?」
自分を見て体の力を抜く様に虎哉は口元を覆っていた手を放す。大きく息をする子供。
賊の一派かと思い見ていれば、子供は急に顔色を変えガタガタと震えながら逃げようとしているのか立ち上がろうとした。それでは見付かると手を伸ばした子供は涙目で自分を見て頷いた。
「な、…あの人っ、死」
「ええ。賊と繋がっていたとはいえ、無念でしたでしょう」
口に出せば再び恐怖が襲う。慧は僧に言われるまま身を低くし、震える体を両腕で抱えた。僧は静かに手を合わせる。
「私、行かないと」
慧は刀を持った男が石段の方へ走るのを目で追うと遥ちゃんが!とその場を動く。が、動くなとそれを制する僧。慧は行かなければならない理由を述べ再度腰を浮かした。
「誰だ?!そんな所にまだ居やがったのかっ」
声に慧は体を強張らせた。虎哉は近付いて来る足音に、子供の頭をひと撫ですると動かぬよう命じ慌てた様に茂みから飛び出した。
腰を抜かしたように尻を付きながら慧の居る茂みから遠ざかって行く僧。自分のせいであの人が殺される!慧は傍にあった石を男に向かって投げ付けた。
血走った眼が自分を捉える。慧はお守りを握り締め只管祈り全速力で走った。
『その願い叶えやろう』
頭の中から聞こえた声。続いてドクンと大きく鼓動が耳に響いた。慧の足はピタリと止まり身を低くしたまま追って来る男に向き直ると両手に掬えるだけ地面の小石を掬う。
距離が詰まった男が刀を振り上げると同時に慧は勢いよく両手を男に向かってあげた。反動で石が音を立て男にぶつかる。怯んだ男が離した刀を拾った慧は躊躇なく男の腹を突いた。
「がほ」
男の腹めがけて体当たりをする様に刀を突き立てた慧は刀を離す事なく男から離れた。重力に逆らう事無く両膝を地面につけた男はその場に倒れる。
「ひっ、…っ!」
今まで怯えてた同じ人物とは思えぬ動きで盗賊を一撃した子供は、ペタリとその場に座り込むと引き攣った声を絞り出すよう吐く。
近付けば子供は両頬を濡らしながら自分を見上げ「無事ですか」と呟いた。
「ええ。貴方に助けられました。大きく息を吸いなさい」
血の付いた刀の先に恐怖するも、両手は固まってしまった様に刀を離さない。勝手に震える肩に柔かく僧の手が触れると慧は安堵の涙をぼろぼろと流した。
「遥ちゃん」
子供はふらふらと立ち上がると「助けに行かなきゃ」と濡れた目元を袖で拭う。
「素直さは危うさ、優しさは脆さ。誰が為にその柄を振るうのであらば強かに横柄におなりなさい。強い覚悟が無くば切り殺されて終い。なれば、覚悟無しに刀を握るべからず」
虎哉は子供に幼き頃の国主を重ね見た。
他人に対しての優しさを父から受け継いだ幼い子は、病から母に疎まれ人が変わったように心を閉ざした。幼少期のその姿を思い出させる目の前の子供に、虎哉は同じ言葉を投げかけた。
「ま、守らなきゃ。だって、今までいっぱい助けて貰ったから」
「なれば血に手を染める覚悟をお持ちなさい。罪を背負い死した者の心根を背負う覚悟で挑みなさい」
怖い。人の肉を抉った感覚が残る手に吐き気を覚えながら血の滴る刃に震える。それでも遥華の元へ行かなければと自らの意志で刀の柄を持ち直した。
「どうぞあの者に武運を」
走り去る背に祈りを込めた虎哉は、微力ながらも助太刀をと杖を取り子供の後を追った。慧は刀を片手に駆けた。
囂々と燃えていた炎は、慧が隠れている間に幾分か弱くなっていた。消火する者もおらずに燃え広がり寺を包んで行く炎を横目に慧は石段に向かって駆けていた。