パンドラの舟(前編)
若⼲の頭痛を覚えながら――
私はその、⿇婆⾖腐が台無しになったような名前の占い屋に⼊った。
1.
貴⼥は、希望――
我々の最後の希望なのです――
何のことかわからない。
私がなぜ――希望なのか。
私の何が――希望なのか。
街がこの惨状だというのに――
何も判らないまま。
私は⼤海原へと送り出された。
司祭から⼿渡された箱は――
虚ろを⼊れたかのように軽かった。
2.
常陸国の役人である鞍沢左陣は、朝早くから奇妙な報告に振り回されていた。
最初にそれを⾒つけたのは――海岸にいた漁師達だったという。
漁師達の――否、左陣の⼿下も含め――最初の報告は⽀離滅裂だった。
海に、浮かんでいて――
だんだんと陸地に近づいてきて――
丸い釜のような物の中に――⼈が――
⾒たこともない⼈のようなモノが――
おおよそは判るが、細かい事となるとまるで要領を得ない。
やむなく現地に足を運んだ左陣が見たものは――
見たこともない形をした舟だった。
砂浜に打ち上げられたそれを最初に⾒た時は――やけに丸い⾈であると思った。
浅い椀を⼆つ、互いに伏せて合わせたような奇妙な形をしている。
外側には、⽂字のような⽂様が刻まれていた。
中を覗くと――不思議な⾹料のような匂いがする。
壁⼀⾯には、外側と同様、⾒たこともない⽂様が刻まれていた。
異国の⾈か――左陣はそう思ったという。
厚いビードロ製の窓が嵌まった枠は松脂のようなもので塗り固められているようだった。
⽊製の⾈体は、鉄の板で補強されているようだ。
いずれ――⻑い航海に耐えられるようには⾒えぬ。
それ以上の⾈内の検分を⼿下にまかせると、左陣は浜へと降り⽴った。
打ち寄せる波が⾜下を洗う。
浜に続く⾜跡の先に⼈だかりが⾒え――
その⼈の輪の中に。
⼀⼈の⼥がいた。
3.
駅近くの通りから地下道に⼊り、店の⼊り⼝に⼊ろうとすると、ちょうど外へ出てくる客とすれ違った。
まさか、流⾏ってるのか――
信じられない思いで、友⼈の店の看板を⾒上げる。
東洋正統占星術・⿇破空――
ひどい店名だと思う。
これでも――客が⼊るのか。
若⼲の頭痛を覚えながら――
私はその、⿇婆⾖腐が台無しになったような名前の占い屋に⼊った。
顔を上げた友⼈は、相変わらず似合わない髭を⽣やしていた。
どうした、久しぶりに会うのに浮かない顔だな――
友⼈はそう⾔った。
⿇婆⾖腐をひっくり返したみたいな顔してるぜ――
そうも⾔った。
お前のせいだろうが。
流⾏ってるようで何よりだよ――そう⾔いながら、私は椅⼦に腰を下ろして周りを⾒渡す。
相変わらずなのは――この店内もそうだ。
⻘⿊い天鵞絨で囲まれた四⽅の壁には、怪しげな⼿相だの占星術だのの張り紙がしてある。
意味はさっぱり判らないが、占い屋っぽくはある。
積み上げられた夥しい書物も、全て占い関係のものばかりだ。
これだけ占い尽くしの部屋に居ると――やはり当たるものなのだろうか。
当たるわけないだろ――
私の⼼を⾒透かすように友⼈は⾔った。
昔から勘だけは鋭い男だ。
でも客は多そうじゃないか、それは当たるからだろというと――
あれは⾃分から当たりに⾏ってるんだ、と返された。
そういえば、前にもそんなこと⾔ってたな⽊下――
そう⾔うと、友⼈は露⾻に嫌な顔をした。
店内では本名で呼ぶなと⾔ったろ――
俺は不世出の占い師――
笹目天元だ――
4.
美しいのか、美しくないのか――
やけに⽩い肌を持つその⼥を⾒ながら、留吉はぼんやりとそんなことを考えていた。
浜に打ち上げられた奇妙な形の⾈。
その中から出てきた不思議な⼥は、役人――鞍沢左陣と⾔ったか――の聴取を受けていた。
特異な――外⾒である。
瞳は碧⾊で⼤きいが、やけに両⽬が離れている。
⿐は⾼く、唇は薄い。
妙に⾸が⻑く、なにより――⾊が抜けるように⽩かった。
異相といってよい――。
漁師という仕事柄、浜に恵⽐寿が打ち上げられる様を、留吉は何度も⾒たことがある。
それらはいずれも、醜悪な⾁塊の姿をしていた。
しかし、異国の――おそらく、だが――⾈が。
それもこんな奇妙な形の⾈がたどり着いたことなど、今まで⼀度もなかったことだ。
加えて、中には⽣きた⼈間が居たのである。
いつもは静かな朝の浜辺は、⾒物⼈が来るわ役人が来るわで⼤騒ぎとなっていた。
左陣の問いかけに、⼥は困惑したような顔を返すばかりだった。
何を話しているかは判らぬが――⾔葉が通じないようだった。
⽩い布でできた、⾒たこともない織物の⾐服から覗く⼿も、顔と同じく異様な⽩さである。
⼥はその⼿に――⾈の中に刻まれているのと同じ奇妙な⽂様が描かれた、⼩さな箱を持っていた。
5.
キツいなあ、と俯いて思わず呟いたが、キツくないと遮られた。
いや⼗分キツいよ、と返す。
天元て。
⽊下定男だろ。
思いっきり普通の名前だろほんとは――
普通で占い師ができるか、雰囲気が命なんだ。
定男が⾔うのと、天元が⾔うのじゃ効果が違うんだ――天元は悪びれもせずそう⾔った。
それに笹⽬というのも、由緒ある名字なんだぞ。
ヱ⼾時代の名奉⾏の名字から拝借したんだ――と胸を張る。
結局パクりではないか。
節操がないにもほどがある。
要するにこの男は――占いなどまるで信じてはいないのだ。
ただ⾯⽩そうだという理由だけで占い師を始めたのだ。
当たる必要はないんだよ――
右か左か、今⽇か明⽇か、幸か不幸か――。
納得して⾃分で選んだんだと思えば、当たったと勝⼿に解釈するのさ――
以前から⽊下――否、天元はそう⾔って憚らない。
こうまで自信ありげに⾔われると、なるほどそんなものかと思ってしまいそうになる。
よく考えれば――無茶苦茶な理屈だ。
それで今⽇は何の⽤だ、ルポライターというのは暇じゃないんだろ。
⽤があって来たんだろ、ああ、茶はないから、そこのウォーターサーバーを使ってくれ――天元は顎で⽔の⼊ったタンクを⽰した。
使わないと維持費で損するからなと、みみっちいことを⾔う。
紙コップに⽔を注ぎながら、知ってるか、虚ろ⾈の話――と問うと、天元は⽬を細めて何かを思い出すような顔をした。
ああ――そういやニュースでちょこっとやってたな――あれ、なんかネタになりそうなのか?
ネタになるかどうか、わからないんだがな――私はそう⾔って再び椅⼦に腰かけた。
6.
数⽇前――
ある寺で、郷⼟史の観点からみて貴重な記録が記された古⽂書が発⾒された。
「常陸国紀伝文書」と記されたその資料は、⼗⼋世紀中頃に常陸国で起こったある奇妙な事件を記したものだった。
発端は――常陸の海の浜辺に漂着した奇妙な物体だったという。
円盤形をした奇妙な⾈と、その内部に刻まれていた解読不能の⽂字。
舟に乗っていたのは⾵変わりな容貌をした⼥性で⾔葉は通じず、⼿に持っていた⼩さな箱には決して触れさせようとしなかったという――。
この話のディティールは、常陸国ほかに残る虚ろ⾈伝説の記録とほぼ⼀致している。
あちらは曲亭⾺琴の兎園⼩説が元であるというのが定説だが、件の資料もその類型、或いは伝聞が事実として伝わったものであると推察された。
ただ、今回発⾒された史料には、他のものにはない記述が含まれていた。
奇妙な物体と、その乗員が齎したと思われる――
疫病の記録だ。
7.
はじめは――
気怠くて仕⽅なかったのだと、左陣は街医者である⽚⼭⽞冬にそうに⾔った。
体の節々が痛み、動くこともままならなかった。
そのうち、じわじわと頭が熱を帯びてきたという。
左陣が病みついた頃と前後して――界隈では同じような症状を訴える者が激増したとのことだった。
結局――左陣は一ヶ⽉ほども床に臥し、市井の惨状を直接⾒ることはできなかったが――
患者で溢れかえる町並みは惨憺たる有様であったと後から聞いた。
あまりの患者の多さに――⽞冬も如何することもできなかったという。
運良く左陣は快復することができたが――
命を落とした者も⼤勢居るという話である。
痘瘡とも、咳の病とも異なる――まさに未曾有の惨事だった。
⽞冬の話では――⼀種の熱病ではないかとのことだった。
気管の病のようで――現に左陣も喉の激痛に苛まれたのである 。
病が多少篤くなったとはいえ――⿐が効かぬ。
それどころか⾷事の味もよくわからない。
不便ではあるのだが――命を落とした者もいることを考えれば運が良かったと⾔えるだろう。
して、病の原因だが――そこまで⾔って、左陣は咳き込んだ。
⽞冬はまだ無理をするな、ようようよくなっておるところ、無理をすれば元の⽊阿弥だ、と諫める。
続けて、おぬしの⾔いたいことは判る、あの⼥であろう――
⽞冬はそう⾔った。
そう。
あの⽇、あの不思議な⾈に乗って漂着した奇妙な⽩い⼥は、その後に姿を消した。
正体も⽬的も判らぬ不審⼈物を領内に留めるわけには⾏かぬ――元通り⾈に乗せ、海へと送り返すよう――上からの指⽰があったのだ。
多少の違いはあれど、同じ⼈、しかも⼥⼈である。
左陣をはじめ他の役⼈も漁師も受け⼊れがたい触れではあったが――不承不承という感じで、その⾈を海原へと送り出したのだった。
しかし――
潮の加減か、翌⽇になると⾈は付近の浜辺へ戻ってきてしまっていた。
のみならず――
⾈からは⼥の姿が消えていた。
その⽇を境として――領内で奇病が蔓延し始めたのだった。
⽞冬殿、この――病は。
左陣の問いに、⽞冬は頷いた。
左様――おそらくあの⼥が、伝染性の病に罹患していたのだろう――
何故かは判らぬが――
発症はしていなかったようだがな。
⽞冬は、そう嘆息した。
⼥の⾏⽅は――杳として知れなかった。




