白い結婚のあとに離縁されたけど、私は決して気の毒じゃない。
「気の毒だが、私が君を愛することはない。」
結婚式当日の晩、そういって旦那様は寝室から出て行ってしまわれた。
愛がないのに貞操を奪われるよりはましかしら。
でも、こまったわ。このまま実家に帰すなんて言われたらどうしましょう。
そんなことを思ったけれど、寝台のマットレスが気持ちよすぎてすぐに眠ってしまったらしい。
「奥様、おはようございます。お目覚めのお時間です。」
「おはようございます。ええと……」
「奥様付きメイドのミアでございます。」
「そ、そうだったわね。ミアさんね。そうそう」
ミアさんというメイドは美人だけど、何というか圧が強いわね。
「奥様、私の名前を憶えていただくことはございませんが、敬語はおやめくださいまし。」
「そうなの?」
「侯爵夫人が使用人風情に敬語を使うなど知られては、侯爵家が侮られます。」
「そんなものなのね。わかりました。」
「奥様。」
「わかったわ。」
すでに旦那様は屋敷を出てしまわれていた。
聞けば、愛人が住む郊外の別邸に向われたのだそう。
愛人か……。じゃあ、しょうがないわね。
一人きりの朝食を終えて部屋に戻ると、執事のハインリッヒさんが訪ねてきた。
「ハインリッヒさんでしたわね、どうかなさいましたか?」
「奥様、使用人に敬語をお使いになりませんよう。」
「あ、ああ、そうでしたね。…ところで、その……」
出て行けと言われたらどうしようと思うと言葉に詰まってしまった。
そうすると、ハインリッヒさんの方から話し出してくれた。
「本来執事が奥様のお部屋に参上するということはないのですが、いま、当家の本宅には侍女がおらず、恐れながらも罷り越した次第でございまして……」
「私はミア一人でも十分なくらいですから結構ですが、何か用があったのではないかしら?」
「はい。もうご案内かと存じますが、侯爵はこの本宅にはお住まいではございません。侍女や使用人のほとんどとともに別邸へとお移りでございます。」
「ええ。別邸に奥様がいらっしゃるのでしょう?」
「……!!当家の奥様は貴方様でございます。どうか決してそのようなことを仰りませぬよう。」
ハインリッヒさんの顔が一瞬鬼のようになった。怖い。
「わ、わかったわ。でも、その、何ていうのかしら、侯爵様がたいへん親しくしてらっしゃる御方がいるのでしょう?」
「左様でございます。奥様には誠に申し訳ございません。」
「いいえ、侯爵様の御望み通りになさるのが一番よろしいのではないかしら。ところでなのだけれど、私はこの屋敷に留まっていいのかしら?」
「どういうことでございましょうか?」
「いえね、実家に帰らなければならないのかと思って。」
「何ということを仰います。ここは奥様のお屋敷でございます。決して伯爵家にお帰りになるなどとんでもないことでございます。」
「そう。であれば、あとは特に何の差し障りもありません。私のことは気にせず、いつも通りに侯爵に仕えて下されば結構です。」
「承知いたしました。」
ハインリッヒさんの背中が何だか小さく見えた。
後からミアさんに聞いた話では、結婚すれば侯爵も考えを改めるのではと期待していたらしい。あと、私のことを気の毒だと思ってくれているとも。
私なんてもうただの居候のようなものだから、屋敷の人たちから邪険にされなければ特に求めることもない。
その日のうちに、別邸から使いがよこされ、旦那様からの伝言が届いた。
色々細々とした注意や要望の類が主だったが、結局のところ、三年後に離婚しても構わないこと、社交はすべて断ること、白い結婚であることについて他言無用であること、という話らしい。出て行けとか、金は使うなとか、そういうことが書いていなかっただけで、私にとっては十分福音だった。
私は伯爵家から侯爵家に嫁いできた。
侯爵は器量が悪く、大人しい伯爵家以上の家格の令嬢を結婚相手として探していて、私はその条件がぴったり当てはまり、侯爵のお眼鏡にかなったらしかった。
結局、婚約から結婚式までの半年間で一度もお目にかからなかった。今思えば、色々と怪しいことだらけだったのだ。
とはいえ、私はこの結婚が不幸だとは思っていない。
伯爵家はこの世の生き地獄だった。父が家庭に関心がないことを良いことに、意地悪な実母と実姉と実妹に理由も分からず虐げられ、使用人たちからも侮られ、学校にも碌に通わせてもらえず、下働きのようなことを十年以上させられてきた。
結婚することで伯爵家を脱出できただけでも、旦那様は私にとって一生お仕えし、お支えしたいお方なのだ。
これ以上を望んでは神からの怒りを受けてしまうだろう。
結婚してしばらくすると、ハインリッヒさんが言っていた通り、侯爵家のお屋敷には使用人が少なすぎることが分かった。
私はミアさんに懇願して、自分の身の回りの世話は自分ですることを了承させ、他の業務に回ってもらった。
さらには、お仕着せを借りて掃除や庭園の世話などもさせて貰うようになった。10年以上肉体労働に従事していたためか、居候としてじっとしていることはできなかったのだ。
「ハインリッヒさん。」
「奥様。さん付けはおやめください。」
「もういいじゃないですか。誰も来ないんですから、外聞も何もないでしょ?」
「しかし、そういう訳には。」
もう無視することにして、気になっていたことを聞いてみた。
「このお屋敷にはご来客はないのですか?」
ハインリッヒさんは苦虫を嚙み潰したような顔を一瞬見せて、言った。
「みな侯爵様がどちらにお出でかご存知なのでございます。」
「ああ、なるほど。このお屋敷に来ても誰にも会えない、と。」
「左様でございます。」
「けれど、侯爵様は堂々となさっているのね。普通は少しぐらい取り繕うのではないかしら。」
「侯爵はとりあえず結婚して周囲からの雑音を遮断されたかったのでしょう。それ以外のことは取るに足らないことであると思われたのではないかと推察いたします。」
「そういうことね。」
結婚して一年が経過した。あの夜から一度も旦那様とは会っていない。どうも御夫人との間に子どもも生まれたらしい。あと2年か……。
あと2年すれば、旦那様とお相手とお子と一緒にお屋敷に帰って来て、私は離縁されるかもしれない。実家に帰らずに済むにはどうしたものか。侍女として雇ってもらうという手もある。
そんなことを何気なくミアさんに話したら、ミアさんは号泣してしまった。まるで私がいびったみたいに思われるから泣かないで、などと宥めると、今度は、奥様のことをそのように思うものはこの屋敷には居りませんと怒られた。なかなか難しい。
ある日、伯爵家から手紙が届いた。
読みたくもなかったけれど、読まずに捨てる訳にもいかない。
伯爵からだった。
まったく社交の場に姿を現さないのはどういうことだという叱責から始まり、早く侯爵家の世継ぎを産めだの何だのといった詰まらない話ばかりで、私のことを気遣う言葉は一言たりとも書かれていなかった。期待していた訳じゃないけれど、ねぇ。
とりあえず、侯爵は社交の場がお好きじゃないとか、子どもは授かりものだとか、適当に返事をしておいた。一応、侯爵にも使いを遣って、そういう手紙が届いたことを伝えた。
明くる日の晩、侯爵が1年以上ぶりにお屋敷に帰って来た。
見るからに不機嫌なご様子。どうも勘違いさせてしまったらしい。
「君は何だ父親を使って私に嫌味を言いたいのか。」
再会早々にいきなり詰められる。
「侯爵様、誤解です。私はいまの暮しに不満など毛頭ございませんが、父より手紙が届きましたので、お伝えしないわけにもいきませんでしょう。それだけのことでございます。」
「本当にそれだけか?」
「もちろんです。まさか侯爵様のお気に触れるとは思いもよらず。これからはお伝えいたしませんのでご安心ください。」
「いや、済まない。私が過剰に反応してしまっただけだ。それに、これからも伯爵家から手紙などが届いた時は、私にも知らせてくれ。知らないと具合が悪いこともあるかもしれない。」
何とか理解していただけたのだろうか。だいぶ落ち着かれてきた感じだ。
「承知いたしました。不愉快なこととは存じますが、どうぞご容赦くださいませ。」
「いや。すべて私が勝手にしているからで、君に落ち度はない。すまなかった。」
旦那様はすぐに別邸に戻られた。
馬車に乗り込む時に振り返って、「そう言えば伝えていなかったが、子どもが出来た。男の子だ。あとあと形式的に君の養子にするつもりなので、世継ぎの心配はないので安心してほしい」と仰った。
とりあえず「おめでとうございます。安心いたしました」と申し上げておいた。やれやれ。
ハインリッヒさんやミアさんだけでなく、お屋敷の皆が怒っていたので、「私のことならば気にしなくていい」と宥めておいた。誰も納得はしていなさそうだったけれど。
時は経ち、私がお屋敷に来て3年となった。
普遍法で白い結婚が3年以上続いた場合、妻からでも離縁を申し出ることが出来ると定められている。その年限を迎えたのだ。
ハインリッヒさんが心配そうに尋ねてきた。
「奥様。当家をお出になるなどということはございませんでしょうな。」
私はそのつもりもないので、「私から申し出ることはないですけれどね……」と答えておいた。御夫人との間の男の子を私の養子にするとか仰っていたけれど、御夫人と一緒にこのお屋敷に戻られるならば、私の養子にする必要もない。
ハインリッヒさんも私と同じことを考えたようで、「そこまでなさることはないと信じております」と力なさげに言っていた。
私は「私もそう信じています」と言っておいた。どうなることかしらね。
その時は突然やって来た。
1年半ぶりに旦那様がお屋敷に帰って来られると、そのまま私の部屋にお越しになって、気まずそうに言われた。
「気の毒だが、離縁したい。」
意外と私は冷静だった。やっぱりどこかで覚悟していたのだろう。
「承知いたしました。」
言おうと思えば、嘘つきだの、浮気者だの、人でなしだの、いくらでも非難できたと思う。けれど、私は旦那様に伯爵家から解放してもらった恩がある。
旦那様が「理由は聞かないのか?」と言ってきたので、
「私にはもはや関わりのないことでございます」と丁重にお断りしておいた。
旦那様は驚いた様子だったけれど、何を今さら驚くことがあるのかしら。
旦那様が帰った後、ミアさんや使用人さんたちが泣いて引き留めてくれた。
私は、「私のことは心配ないから、これからも侯爵様のことをお願いします」と言っておいた。珍しくハインリッヒさんも泣いていた。こんなに親身に思ってくれる人たちに出会えて良かった。私は果報者だ。
荷物を少なくしていて良かったと改めて思う。
侯爵様から離縁を言い渡されて2日後には、離縁同意書にサインをして、手荷物一つでお屋敷を出た。
最後まで皆引き留めてくれたけれど、離縁された以上居候するわけにもいかない。
私は呼んでもらった乗合馬車に乗って、辺境の修道院に向った。この日のために、少なくない額の寄付をしておいたのである。修道院に急ぎの使いをやってこちらの意向を知らせると、修道院からも受け入れる旨の知らせが来たので早々に出発したのだった。
お屋敷があった王都から丸一日かけて修道院に到着すると、院長たちが迎え入れてくれた。
「大変でしたね。」
と院長から声をかけられた。
私は「想定内です。これからお世話になります」と答えておいた。大変も何も最初から失敗していたのだから、こうなるのは時間の問題だったのだと思う。
それから、私は修道女見習いとして祈りと労働の日々を送っていた。
お屋敷の人たちのことは心配だけれど、ここは元旦那様を信じるほかにない。
いつものように畑仕事を終えて帰ってくると、来客があると修道女様が教えてくれた。
「どなたでしょうか?」と尋ねると、
「侯爵家のメイドでミアさんと仰ってました」と教えてくださった。
まあ、ミアさん、懐かしい、と喜ぶ一方で、何かあったのかしら、と不安になった。
「奥様!」
「ミアさん、私はもう奥様じゃないわ。それにしても、お久しぶりです。お元気でした?」
「いえ、あまりお元気ではありません。」
「まあ、どうかしたの?」
「奥様、いえ、エーリカ様がお屋敷を出ていかれてからというもの、もうお屋敷はたいへんでして。」
「まさか」
「ええ、そのまさかです。侯爵が御夫人と御子息を連れてお屋敷に戻ってこられて、御夫人との再婚を告げられたのです。」
「あら、やっぱり。でも、ちょっと大胆じゃないかしら。」
「そうなんです。これが陛下のご不興を買われてしまったり、貴族の方々からも除け者扱いされるようになったそうで、雲行きが怪しくなってきたのです。それだけではありません。」
「他にも何かあったの?」
「伯爵様が怒鳴り込んでこられまして。」
「まあ。慰謝料をふんだくるためでしょうけど。」
「いえ、それが……。奥様への仕打ちについてひどくご立腹で、慰謝料など要らないので奥様を返せ、と。」
「まさか、私の居場所を。」
「いいえ、まだお伝えしておりません。しかし、時間の問題かと思います。」
「まあ、父は私をまた下女扱いしたいのね。すごい執念だわ。」
「そうでもないようなのですが。」
「いいえ、慰謝料を増額させるためのお芝居に違いありません。それで、ミアさんはどうしてこちらに?まさか私に伯爵家に帰るよう説得しに……」
私がそう言いかけると、「違います。そんな訳ありません」と強く否定された。
ミアさんによれば、侯爵から一度お屋敷に戻って来て、本人が了承していることを陛下や伯爵に説明してほしいということだった。
ちょっと虫が良すぎるお願いではなくて?
けれど、ミアさんのことも心配。
私がそんなことを考えていると察したように、ミアさんは「ご心配なさらず。私はもう侯爵家には帰りません。最後に一度ご挨拶申し上げたかっただけですから」と言った。
私は思わず「じゃあ、ミアさんも一緒に修道院に入らない?」と言ってしまった。ミアさんの希望も聞かず。
ちょっと心配だったが、ミアさんは嬉しそうに頷いてくれた。
その後、ハインリッヒさんが秘かに送ってくれた手紙が届き、事の顛末を知ることができた。
手紙によれば、侯爵と御夫人の再婚は陛下によって却下され、御子息を養子にすることも認められず、侯爵後継者として侯爵の従甥が勅命により迎えられた。後継者を育成する義務を負った侯爵を残して、御夫人と御子息は別邸に戻ってしまったらしい。
また、伯爵家では伯爵と母が離婚し、入り婿だった父は伯爵でなくなったけれど、陛下から特別に一代貴族となることを許されたそうだ。伯爵家は父の才覚におんぶにだっこだったから、これからどうなるのか少し心配だ。
色々あったけれど、私はいまミアさんや新しく出会えた修道院の皆さんとともに、慎ましくも充実した日々を過ごしている。
普通の御令嬢から見れば惨めなのかもしれないけれど、私が幸せなのだからそれでいい。
私は決して気の毒なんかじゃない。
(完)