第1章 変調の兆し 1-6
「ええ、オーレンドルフ家です」
それが何かと訝し気に娘の顔を見つめた王后は、アウレリアの顔色が青褪め、
そして真っ赤に紅潮していく様子を具に認めると、
「まあ、どうしたのです?」
わざとかどうか、頓狂な声を発した。
一方のアウレリアは目を怒らせた。
「結婚なさるのは長男ではありませんね?」
「仮にあの家の長男が結婚するとしても、
その案内がオーレンドルフの名で私に届くと思いますか?」
「それならば長男は当然除け者ですわね?」
「さあ、そこまでは判じかねます。私の手元にあるのはこの招待状だけです」
淡白な調子を崩さぬ王后は、
そう言いながら視線を再び下げて盤上にある狼の〈女王〉を動かした。
そのまま狐の〈王〉の前にそっと置く。
それは、一見するなら自殺行為の一手だった。
次の手で〈女王〉が敵の〈王〉の餌食になるように見えるからだ。
しかしこの二者に隣接する枡目に他の駒が一つも置かれていない場合にだけ、
その意味が真逆に変わることを知らぬ者はない。
未だ誰も実現させたことのない幻の一手、それゆえに神の采配とも呼ばれ、
神の名に恥じぬ絶大な効果を持つ一手。
まさか! なんてことなの⁈
瞬間アウレリアは逆上し、それ以上の会話を続けず、
そして母に対して暇も告げずに踵を返した。
慌ただしく立ち去っていく娘の足音が聞こえなくなるまで
じっと盤上の一点だけを見つめていた王后は、
やがてふうと疲れきった様子で深い息を吐き出した。
それから視線を流し、手にしたままの封筒を見つめるや、
徐に中の紙を取り出し凝視する。
整った眉尻が僅かに吊り上がったが、
何を思ってのことかは本人にも説明が付かなったはずだ。
ともあれ彼女が手にしたものはただの白紙で、
わかっていたが敢えての確認だった。
それから王后は盤上をしばらくじっと見つめると、
やがてゆったりとした動作で狼の〈女王〉に指を添えた。
「せっかちな娘に育ったものね」
ぽつりと零れた言葉には有り余る皮肉が滲んでいた。
「まったく、困ったことに」
呟きながら王后は、
今でも王位継承権を握る娘の将来を考え暗澹たる気持ちに沈みかけてはっとなり、
首を振った。
嘆いたところで何かが改善するわけでもない。
それこそ神が采配を振らぬ限りは……。
諦めた様子で王后は目を閉じた。
フォルクハルトが生まれるまでの十数年、
この国の王位継承権はアウレリアだけのものだった。
しかしそんな彼女が王の素質を持たないこともまた当時から自明だったはずで、
あの頃から問題がなかったわけではない。