官能小説家
春が近づき、風もずいぶん暖かくなった。
私は、昨年勤めを終えて退職して以降、妻と続けている川べりの道の散歩に出かけた。
「ずいぶん暖かくなったもんだ」
「ええ」
「梅が散り、桜がちらほらと咲いている」
「きれいですね」
「……友美に最近恋人ができたそうじゃないか?」
「もういい年ですしね」
「先方には、早いうちにはっきりして欲しいもんだ」
「一度、友美と話し合いを持ちましょうか」
「そうしよう」
さっそく週末の夕方、娘を居間に呼び出した。
「やあ、最近恋人ができたみたいじゃないか」
努めて軽い口調で話した。
「わかったの?」
「そりゃあ同居しているものね」
妻が答えた。
「交際を始めてどれくらいになるんだい?」
「四か月よ」
「相手は何をしている人だい?」
訊かないわけにはいかない。
「……小説を書いているの」
娘はやや間を置いて答えた。
「そうか。立派じゃないか。ペンネームは? お父さん知っているかもしれない」
「お父さん、その小説というのがちょっと特殊でね」
「どんなだい? 言ってごらん」
「官能小説よ」
びっくりした。
妻の顔を見ると、平然としていたので、私もそう努めた。
「官能小説って言ったって、ちょっとした腕利きよ。大手の週刊誌に書いているんだって」
娘は語調を強めた。
「大手の週刊誌の官能小説?」
娘は、著名な週刊誌の名前を挙げた。私もよく買う週刊誌だった。
「ああ、あのシリーズか。お父さんも知っているよ」
最近ご無沙汰していたが、思い出した。
私はあまり読まなかったが、私が幼いころからずっと続くシリーズだ。最近の痴情事件を脚色して、四ページほどで読ませる。
やや身がこわばったが、なじみの週刊誌の名前が出てきて安心した。聞こえこそあまりよくないが、もちろん社会的意義のある立派な仕事だ。
「あれを書いているのか」
「二か月に一回、出稿するんだって。収入は悪くないって話してたわ」
「そりゃいいことだ。もちろん意義のある仕事をしている」
「ありがとう」
少しばかり沈黙があって、
「まあとにかく一度、家に連れて来なさい」
「言ってみるわ」
「近所の料理屋を押さえておく」
話を終わらせ、娘は部屋に戻っていった。
妻に向かい、
「どう思ったかい?」
「いいと思ったわ。大切なお仕事なんでしょう」
妻はあっさり答えた。
「そりゃあそうだろうけどね」
「じゃあいいじゃない」
「普通の小説がだめだから、そうしているんだろうか?」
「それはそうかもしれませんね、不人気な仕事でしたらね」
そうだったらどうかと思った。
彼は諦め切って、官能小説を書いているのだろうか。それとも好きでそうしているんだろうか?
私は新聞社の文化部の記者をしていたので、小説には多少の心得がある。文芸時評欄を担当して、小説家とも多少の接触があった。
時評欄に掲載されるような作家は、一様に威風堂々としていた。肩で風を切るというのだろうか。
私自身も、小説家に憧れた時期がなかったわけではないので、うらやましく感じたものだ。彼がそんな小説家だったらうれしかったろうか?
そうでもないだろうと打ち消した。
どんな社会にだって裏方さんというものがある。彼はさしずめ、小説界の裏方だろう。
細々と官能小説を書き続け、おそらくそうは多くない稿料を得ている。娘はいい選択をした。
だが……と思った。
彼はまだ若い。普通の小説を書くのを諦めるのは、まだ早いだろう。彼がどんな考えで官能小説家をしているのかを、確かめてみようと思った。
二週間後の週末、彼は娘と共に、私たちの待つ料理屋を訪れた。
ややくたびれたフロックコートを着ており、私は旧制高校生を髣髴した。
「やあようこそ」
「遅れてすみません」
「私が待ち合わせに遅れたから」と娘。
「いやいいんだ。まあコートを脱ぎなさい」
彼はコートを脱いで、たたんだ。その所作を見ていると、なるほど彼は会社員には少し不向きだろうかと感じた。
「気楽にして」
「ありがとうございます」
おずおずと答える。
「今日はわざわざありがとう」
「いえ私こそ、ご招待にあずかりまして」
受け答えは、まあまあしっかりしていた。
「まあかけて」
座椅子を勧め、彼は腰かけた。
「コース料理を頼んであるんだ」
「それでよかったわ」と娘。
ビールと最初の料理が届くと、私は世間話もそこそこに、彼の身の上を尋ねた。
彼は、東京の二流の大学の文学部を、六年かけて卒業したこと、卒業後は小さな出版社に就職したが、仕事が続かなかったこと、退職後はしばらく小説の投稿生活をしていたが、芽が出なかったこと、縁あって今の仕事を始めたこと、そうして今の職には満足しているともそうでないとも言えない、中くらいの気持ちで続けていることなどを話した。
「私も、あの週刊誌は愛読しているんだよ」
「そうですか」
「失礼ながら、あの小説は、そんなに読まないけど」
「そんな人が多いと思います」
「君は今の仕事に、必ずしも満足していないのか」
「普通の小説で、芽が出ずに選んだわけですから」
「じゃあ不満足かい?」
「そうでもないんです」
彼は困惑した。
私は畳みかけた。
「著名な作家で、直木賞受賞後に、官能小説を書き始めた人がいるね。知ってるかい?」
「はい、存じております」
知らないかと思って尋ねたが、知っていた。
「どうだい君、君もそうなってくれないか?」
「直木賞、ですか……」
「そうまでは言わない。多少の文学賞なら何でもいい。世間にはいろんな文学賞があるね。そのうちの一つでもいいからものして、そうしてから官能小説でも何でも書けばいい。娘との結婚までに、そうしてくれないか?」
「……文学賞なら何でも構わないんでしょうか?」
「地方の文学賞とかが最近増えているね。そういうのでも構わない」
「わかりました」
彼は彼らしくなく、強い言葉で答えた。
「そうして応募した作品は、私にも見せてくれたまえ」
「友美さんにお渡しするようにします」
「それでいい」
妻と娘は黙って聞いていた。急に決めたことで、二人には話していなかったが、二人は反対しなかった。そうして食事の席が終わった。
彼は、丁寧に酒食の礼を言い、古いセダンを駆って一人で帰って行った。
私は彼の一挙一投足が、どうしても会社員として務まるように思えず、彼の生きる道は、作家しかありえないのではないかと感じた。
残った三人で自宅に戻り、居間に集まった。妻が茶を入れ、家族会議の始まりだった。
「お父さん、あんな話、私聞いていなかったわ」
娘が唇を尖らせた。
「悪かったな、でも俺も急遽思いついたことなんだ」
「彼、以前も投稿生活を続けて、傷を負っているのよ」
「そうかい、悪かったな」
「じゃあ取り消してくれる?」
「いやだ」
私は答えた。自分でも、いつ決めたことなのかもわからず、あるいは彼を目にして初めて思いついたことなのかもしれなかった。
「彼のためにもそうした方がいい」
「賞なんてどうだっていいじゃない、ねえ母さん?」
「お父さんの気持ちを大事にしてあげなさい」
妻は、私の側に立った。
「どんな小説を書くにしろ、それを仕事にするんなら、ちっぽけな賞でもいいから受賞しておくべきだって、悪くない考えだと思うよ」
私に賛成するのは意外だった。
「本当に、どんな賞でもいいのね?」
娘は気を害していた。
「何でもいい、日本にあるどんな最果ての文学賞でも」
私は答えた。娘は、
「じゃあ、私が、ありとあらゆる賞を調べて、一番通りやすそうなのを、彼に伝えるわ」
「それで俺たちは満足だ」
しばらく黙って三人で茶をすすり、そうして娘は部屋に戻っていった。ため息が出て、大きな話になったなと思った。
「私も半分、友美に同感よ。どうして急に文学賞を獲れなんて言い出したの?」
「自分でもよくわからなくてさ。でも彼のためにもそうした方がいいと思うんだ」
「そう?」
「彼自身、普通の小説がだめだったから今の小説を書いていると言ったろう。今回の結婚話を機に一つ、挫折を消してやろうと思ってさ」
「無事、受賞できたらいいけどね」
「どんな賞でもいいと言っておいたろう」
私は腹を括った。
「それさえ叶えば、友美を嫁にやろう」
「そうしましょうか」
“やれやれ”
書斎に入って独り(ひとり)言ちた。
彼は応じた。妻と娘も、いやいやながらかもしれないが、応じた。
文学賞は、締め切りから結果発表まで半年くらいかかる。長い戦いの始まりであった。
彼には、作家を名乗る以上は、多少の賞は獲っておいて欲しかった。
官能小説を生業にしていることは、別に構わなかった。ただし、全く一般小説で通用しないからそうしているというのは、嫌だった。
“例の直木賞作家は、どういう了見だったろうか?”
直木賞受賞作家が、こんな小説をよくもと、憤る声はなかったろうか?
多少インターネットで調べたが、よくわからなかった。そうしてパソコンを落として寝た。
彼は、再びとなる小説の投稿生活に入ったらしかった。
パソコンに弱い彼のため、娘はネットを駆使して、検索にかかりにくい文学賞まで調べ上げて、彼に伝えているらしかった。
もともと二か月に一作、四ページの小説を書くだけの仕事だから、暇は十分にあるという。
娘はなるべく短い枚数で済む文学賞を彼に勧めたが、彼自身も、そうして私にも娘にも、それでは気が済まないと答えたらしい。
「彼、まじめだから」
「ああ」
「短編では申し訳ないっていうのよ」
「そんなことはないと伝えてくれ」
「伝えておくわ。何枚くらいならお父さんは満足?」
「三十枚。できれば五十枚」
即答した。私も私で、ネットで今、日本中である文学賞を隅々まで調べ上げていた。
「彼は、五十枚じゃ、なんだからって悩んでいたけど、それじゃあ五十枚の賞でいいのね」
「十分だ」
地方の文学賞に、短いのはいくらでもある。十枚くらいからあるが、さすがにそれでは気に入らなかった。
彼も、以前とは違い、官能小説ながら、小説について学んだところはあるのではないか。できれば中央の文芸誌の賞を取り、直木賞とは言わないが、候補作ぐらいになってほしかった。
勤めていた新聞社から、一日三時間ほどの嘱託で来ないかという依頼があった。迷ったが、妻と娘が行けと言うので、行くことにした。
文化欄の編集に校正。つまらない仕事だが、経験豊富ということで、重宝された。退職後の生活だったが、再びスーツを着て会社に向かう生活に戻った。
午後一時から四時まで働く。終わればバーで数杯飲んでから帰る。彼が現れてからの新しい生活の始まりだった。
バーでは娘の恋人のことが頭を離れない。厄介な要求は、自分にも跳ね返ってきた。
“さっさと芥川賞や直木賞を獲ってくれないか”
乱暴な考えがちらついた。
“世には、芥川賞作家や直木賞作家を婿にもらう父親がいる。どうして俺はよりにもよって、官能小説家の父親になるんだ?“
そんなことまで考えた。
例の週刊誌のことを考えた。有力週刊誌だが、例の小説連載だけは、私の少年時代から延々続いているのだった。
“どういう了見だろう”
知る由もなく、そうして酒を干すと家路に向かった。
彼の最初の小説が届いた。食事会から一月後のことだった。三十枚ほどの小説で、私もすぐに目を通したが、散々だった。
学生時代の思い出を私小説風に描いたものだったが、体験をそのまま文章にしただけで、小説の体を成していなかった。
「こりゃひどい」
私は思わず口走った。
「そんなにひどい?」
「ひどいもんだ」
「私もそう思ったわ。でも彼が一生懸命書いたもんじゃない」
「そりゃあそうだろうが」
私は大体の感想を娘に伝え、彼に伝えさせた。後日、彼からは、次作に取り掛かるとの返事が来た。
私も、最近の小説に目を通し始めた。文芸誌や小説誌を近所の本屋で定期購読することにした。
たまに、地方の文学賞の受賞作が掲載されることもあり、丹念に読んだ。
プロの小説と比べると甘さが残り、彼にもこれくらいなら書けるのではないかと思った。
高齢者の受賞が多い。私にも書けそうだと思ったが、やめておくことにした。
妻とは毎朝、川べりを散歩した。昔は犬を飼っていたが、数年前に死んだ。
娘の恋人の話をする。
「お前も彼の小説を読んだかい?」
「読んだわよ」
「どうだった?」
「小学生が書いたのかと思ったわよ」
妻は毒を吐いた。
「俺もひどいと思った」
「けど彼、週刊誌には小説を連載しているのよね」
「ありゃあ、特殊な小説だ」
「どんな小説でも、書き続けていれば、そのうち様になってくるわよ」
「そうかな?」
半信半疑で答えたが、妻は本当にそう考えているようだった。
「きっとそうよ。だから長い目で見ましょう」
「そりゃそうだ」
季節は夏に近づいていた。風が暖かくなり、散歩では多少の汗をかくほどだった。
彼の第二作を待ち焦がれた。多少の前進が見られたらと願った。
娘が彼の小説を持って帰ってきた。今度は五十枚余りの小説だった。相変わらずの私小説で、小説家志望の青年が、文学賞への投稿を続ける話だった。
それはいいのだが、やはり体験をそのまま小説の形にしたような代物で、到底小説の体を成していなかった。
「こりゃあだめだ」
「やっぱり?」
「お前もそう思うだろう?」
「そうね」
「彼、官能小説なら、わりあい腕利きなんだろう」
「官能小説ならね」
「感想を伝えてくれ」
何度か無理無理読み直し、おおざっぱな感想を娘に伝えた。
「更なる精進を望むと伝えておいてくれ」
そうしてどっと疲れてソファーに横になった。
彼は文学賞を獲れるであろうか?
相手のあることである。いい小説でも見る目が悪ければ落とされる。それはそうだが、彼の小説はそれ以前の問題だったのである。
「お前も読んだか?」
夕食の後片付けを終えて、居間にやってきた妻に尋ねた。
「読んだわよ」
「どうだった?」
「どっと疲れたわ」
「やっぱりそうか」
所詮は、官能小説で満足していたらよかったのである。悪いことでもなんでもない。
娯楽小説の延長線上のものだ。立派な官能小説を書けばいい。
問題は、彼が普通の小説に挫折して、いやいや書いているふしがあったことだ。官能小説しか書けないから書くか、普通の小説でも実績を持ちながら書くかで、彼の人生観は変わるだろう。
しばらく辛抱して、文学賞が無理だったら、それでも娘との結婚を認めようとは思っていたが、どれくらい待つかは考えていなかった。読める小説を書いてきたなら、それで良しとしようと思った。
必ずしも私や妻のためでなく、彼自身のためにもと思って与えた課題だったが、彼には重荷になっているようであった。
“どんなのでもいいから文学賞を獲れ”という命題がそこまで重いとは、地方の文学賞のレベルからは思えなかった。私でもそれ位なら書けるのではないかと思われた。
「彼は俺を憎んでいるかな?」
妻に尋ねた。
「そんなことはないわ」
妻は答えた。
「作家を名乗って結婚を望むんだったら、つまらなくていいから、文学賞の一つくらい獲ってしかるべきでしょう」
妻は今や、私以上に強気だった。
「あなたの課した課題はそんなに高くないわよ。それ位、友美と結婚するならこなしてもらわないと」
妻の強気に気押されて、そうして彼の三作目を待とうと思った。
家族三人で、伊豆に日帰り旅行に出かけることにした。言い出しっぺの妻が、一番楽しみにしていた。
車での道中、私は娘に話しかけた。
「文学賞の話、悪かったな」
「いいのよそれ位」
「彼、困っているだろう」
「少しくらい困った方がいいわよ。私と結婚できるんなら」
娘も強気になっていた。
「今のところ、入選の見込みはゼロだな。お父さんの見立てでは」
「楽な小説ばっかり書いて、精進しなかったせいよ」
「彼に苦労させる償いに、お父さんも苦労して応募してみようかとも思うんだが」
「そんな必要ないわよ。それにお父さんが先に入選したら、彼の立つ瀬がないわよ」
「それもそうか」
ほっとした。
「お母さんはどう思っているんだい?」
「それくらい、苦労させてもいいんじゃない? あの人も、今は楽な稼業をしているって言ってたんだし」
「そうか」
今や、私以上に女二人が強気になっているのであった。
奮発した伊豆のレストランで海の幸を食べ、そうして帰路に就いた。
私たち一家の生活には変わりない。私と妻は年金生活を送り、娘はOLをして、多少の金を入れる。必要もない金だが、妻も娘もそうするほうが良いと言ってきかなかった。
たまに旧い友人と食事に出かける。ゴルフをすることもある。今回の件は、退職後の年金生活に降って湧いた騒動であった。
官能小説を書いていると聞いてびっくりはしたが、馴染みの週刊誌の名前を聞いて、安心した。別に、一生あの連載に参加してくれてどうということもないが、物足りないものがないではなかったのだ。
直木賞を獲った作家が官能小説を書いていた逸話に引きずられた面もある。下読みがどれだけの質かもわからないし、賞だ賞だと息巻くのも馬鹿げている気もする。
とにもかくにも、言い出した以上は、なかなかすぐには降りるわけにはいかなかった。
数か月ののち、彼の三作目の小説が届いた。今度は大正時代の文士を主人公にした群像劇であった。
またしても小説家が主人公で、またかとは思ったが、彼自身が作家の端くれなのだから、一番書きやすい設定なのだろう。
多少の向上が見られ、ほっとした。構成はしっかりしていたが、人物造形やら細部の書き込みが甘く、そんな感想を娘に話し、彼に伝えさせた。
妻も彼の小説を読み、一言、
「前よりは良くなったんじゃない」
と言った。
一番喜んだのは娘だった。
「だいぶんましになったんじゃない?」
「まあそうだ」
「甘さは残るけどね」
偉そうなことを言った。
「同感だ」付け加えて、
「この調子で書き続けてくれれば、地方の賞くらい獲れるだろう」
「そうだといいんだけど」
新聞はもちろん、勤めている会社のものに決めている。
文化欄が一番気になり、面白ければうれしいし、つまらなければ心配になる。
担当していた文芸時評欄は当然ながら気になる。純文学だとかなんだとか言って、訳の分からない小説を取り上げるのが、一番嫌なのだった。丹念に、地道に努力して書かれている良作を取り上げて欲しいのだった。そうして彼にもいずれ、そうやって取り上げられる作品を書いて欲しかった。
いろんな作家がデビューし、そうして同じ数の作家がひっそりと消えていく。幸い、妙な小説を書く作家は、デビュー時に出版社に華々しく取り上げられても、すぐに消えて行った。
消えていくのはかわいそうだが、仕方がない。小説の本道を極めて、精進してもらうしかない。みんな大変な思いをしてまともな小説で勝負をしている。そこから逃げるわけにはいかない。
芥川賞より直木賞のほうが好きだ。奇を衒わず、本道の小説が選ばれている気がするからだ。そうして婿となる彼がいずれ、直木賞を獲ることを願った。
以前の同僚と食事に行く機会があり、娘の恋人の話を聞いてもらった。
「そういう要求を課したのはどうだったかと思っているんだ」
「別にいいんじゃないか? 一人娘を取られるわけだろう」
「そういうわけで、一般小説を書かせているんだけど、今のところ、芳しくない」
「楽な小説ばっかり書いているからだ」
「おいおい、有力週刊誌の人気連載だぞ」
そうはいえ、恋人君自身が楽な仕事だと言ったのだった。
「特殊な小説だからな。慣れさえすりゃあ、ありゃあ簡単な仕事じゃないかな。しかも四ページだろあれ」
「そうかな」
「俺もたまに読むけど、当たり外れがあるかな。彼は、外れの回の担当者かもしれんぞ」
「そうか」
「まあ長い目で面倒を見てやるといい。感想を聞かせてやるだけでも、成長するかもしれん」
「そうするつもりだ」
そんな話をして食事を終えた。
一家の生活に変わりはない。妻はたまに習い事に出る他は、家で家事をしていた。近所の農家の人からもらう野菜を漬物にしたりするなどして、暇をつぶしていた。私は、彼がらみで始まった、小説賞の研究を続けている。
彼が連載に加わっていた、著名週刊誌は最近、買っていない。食い扶持を稼ぐために、今も書いているんだろうが、興味がない。まずは、普通の小説で実績を残してほしかった。
娘は勤めを終えると、おおかたまっすぐ家に帰ってくる。週末には、妻に代わって料理を作ることもある。
なかなか上手に料理する。年の割には上々だろう。
「今日の肉じゃが、なかなかうまかったぞ」
褒めてみる。
「ありがとう」
そっけなく答える娘。
「彼にも作ってやれ」
「そのうちね」
「早く彼が大成すればな」
「大成なんてしなくていいわよ」
「そんなこと言うな」
「ちっぽけな賞でいいから獲って、お父さんに認めてもらえればそれで十分よ」
「直木賞を獲ったら、偉そうな顔ができるぞ」
「そんなのどうでもいいわ」
娘は皿洗いを終えると、早々に部屋に戻っていった。
また数か月が経った。彼の四作目の小説は、なかなか到着しなかった。
「おい次の小説、ちょっと遅いんじゃないか」
娘に話した。
「今まで楽ばかりして、読書を怠っていたので、古典小説を読み込んでいるんだって、言ってたわよ」
「そりゃあ、いいことには違いはないが」
「一応催促はしておくわ」
「そうしてくれ」
一年に一度、文芸誌は新人賞を発表し、そうして半年に一度、芥川賞と直木賞が発表された。日本各地で行われている地方文学賞からも、毎月のように受賞作を発表される。
地方文学賞の受賞作は、彼に要求を突き付けている以上、掲載誌を取り寄せることにしていた。目を通したあとは、何かの参考になればと彼に渡すことにした。
地方文学賞の受賞者には、高齢者がちらほらといる。小説学校の生徒だったりして、高齢の受講生が割にいることが窺われる。
“なぜ六十を過ぎて小説を書き始めるのか? 書いてどうなるというのか?”
脳裏をかすめる。
まあそれは愚問だろう。別に老齢の作家デビューを考えているわけでもなく、書きたいから書いて、応募して、落ちたらまた反省して書く。そのうち入選したら喜ぶ。ちょっとした人生のサイクルの試みなんだろう。私自身もたまに、そういった人たちに混ざって小説を書いてみたいと思うことはあるが、今のところ、実行に移していない。
“娘の恋人君の一件が無事終わって、一段落ついたら、挑戦してみようか?”
そんなことを考えた。
彼からの小説が届かないまま、一年が過ぎた。文壇では次々と新人がデビューしている。地方文学賞では年配者が活躍している。
そんな中のある日、大学時代の友人とゴルフに出かけた。終わってから居酒屋に寄り、食事をした。
私は娘の恋人君の相談をした。
「それは難題を吹っ掛けたね」
「やっぱりそうか」
「彼、以前も投稿生活をして挫折しているんだろう」
「うん」
「古傷を掘り返すことにならないか?」
「そうだな」
「それに官能小説の連載、うまくいってるんだろう」
「そうみたいだ」
「それで十分じゃないか。楽だと本人は言っても苦労はあるだろう」
「そうだな」
「俺もたまにパラパラと見るよ、あの連載。立派なもんじゃないか」
「そうだな」
友人は、私の課した課題に反対なのだった。私自身もだんだんとまずかったかと考え始めていたので、納得させられた。
帰宅後、届いていた小説誌の新人賞受賞作に目を通しながら、二人の友人は逆の意見だったななどと振り返った。
なんにでも両面がある。二人の友人の意見は、今回の件を反映したものだろう。わたしも当事者だから、双方の意見は当然、自問自答の範疇にあった。
彼には、受賞まで辛抱してもらおう。そうして暁には、娘を多少の持参金と共に与えようと思うのであった。
しばらくして彼の小説が届いた。百枚枚程度を書き上げた力作だった。
うーむと唸らされた。ずいぶんうまくなっている。彼はこれを、大手文芸誌の文学賞に応募するんだと、息巻いているらしかった。
「私は、競争率の低い賞を勧めるんだけど」と、娘。
「大手の賞を獲って、世間に大きな顔をして、官能小説を書くんだ、だって」
「好きなようにさせなさい」
そう答えた。
例の官能小説の連載は、私は知らなかったのだが、友人によると。著名な作家がペンネームを使って執筆するケースも多いらしかった。彼もそうなればいい、と思った。私にも大きな顔をして官能小説を書き続けられる。
“受賞できるだろうか?”考えた。
最近の文芸誌の受賞作は、妙なものも多いのである。首をかしげるような選考がなされる。そうでなければ多少の可能性はある。
「今回のがだめだったら、地方の賞に専念させるわ」
「それがいい」
私もその方がいいと思った。
娘は都内の中高一貫校の出身で、系列の短大を出て、銀行でOLをしている。彼とは友人の紹介で知り合ったという。
官能小説家という職業に、最初は引き気味だったが、彼が強く交際を求め、娘が折れたという経緯だったらしい。そのため彼は娘に頭が上がらず、今回の私たち一家の要求にも、辛抱して応えようとしてくれている。
おおまか二年をめどに切り上げ、だめでも娘は彼にやるつもりだった。意外なのは、娘と妻のほうが、今回の要求に乗り気になったことだった。
「それくらいのこと、言ってやったらいいの」
妻は言うのであった。娘も娘で、彼には檄を飛ばしている様子だ。
しょぼくれた風体の彼がかわいそうになってきて、解放してやりたいとも思ったが、今や時遅しだった。たとえ十枚の賞でもいいから、獲ってくれと願うばかりだった。
会社員時代に行きつけだったスナックに、久しぶりに行った。
「あら、お久しぶり」
「ずいぶんぶりだね」
「もう来てくれないかと思っていたのよ」
「年金生活者になって、懐が寂しくてね」
ママは、気さくだった。以前はずいぶん世話になったものだ。
「今はどんな生活を?」とママ。
「することがなくて、小説を読んでいるよ」
娘の恋人の話をした。
「あら、いいじゃない。あの連載をしているの?」
「ママ知っているの?」
「私、ファンよ」
仕事柄、週刊誌には多数目を通しているらしかった。
「あれを書いている人を、お婿さんに? いいじゃない」
「それじゃあ物足りなくてね」
「贅沢っていうものよ」
「やっぱりそうかな」
ママは、彼に好意的だった。
「まあ、いい連載を続けてって言っておいて」
「うん」
店に変わったことはなかった。若い子が新しくなっていたくらいだ。
勤め人時代によく通った店だ。ママとは二十年来の付き合いになる。
「ママは小説は好き?」訊いてみた。
「新聞と、週刊誌の連載は欠かさず読んでるわよ」
「やっぱりその中でも、一流の作家から、三流のもまでいるね」
「そりゃあそうね」
「やっぱり婿には、ピンキリのうち、ピンの作家が欲しいもんだね」
「そりゃあ贅沢ってものよ」
ママはさっきの言葉を繰り返した。
「あなたは恵まれていたから、そう思うかもしれないけど」
「そうでもないよ」
比較的、貧しい家庭に育った少年時代を振り返った。
「私なんかから見たら、二流三流の作家さんのほうが良いんじゃないのって思うわよ」
「そんなものかな」
「そうよ。羽振りのいい一流作家さんより、そっちのほうがお婿さんにいいわ」
「そんなことはないだろう」
「いえそうよ。私なんかに言わせれば」
語気に押され、そんなものかなあと思い、そうして家に帰った。
また彼の作品が落選した。
「もう十枚の作品でいいから、応募しなさいと伝えてくれ」
娘に話した。
「だめよ。せめて三十枚は書いてもらわないと」
娘は手厳しかった。
「そうでなければ、小説とも言えないでしょう」
「それもそうだけど」
私は続けた。
「彼がかわいそうになってきてさ。お前たちも後々、尾を引くぞ」
「そんなことは考えられないわ」
娘は応じなかった。
「それくらいの要求には応えてもらわないと」
娘は話し、そうして部屋に戻っていった。
「やれやれ、友美は強気だ」
妻に話した。
「それくらいでいいのよ」
妻もそんな調子だ。
「まあ、競争率の低い地方の賞を勧めておいたから、何とかなるかもしれない」
私は話し、二年をめどに、この話は切り上げようと思った。
彼は、娘の勧める地方の賞に、目標を切り替えたらしかった。よかった、彼の負担も減る。あと半年ほどで、何とかしてほしいのであった。
妻とは毎朝、川べりを散歩する。娘の恋人君の話はしないことにしている。妻も何も言わないが、心配なのは夫婦で同様だろう。
しばらく原稿が届いていない。娘によると、同時並行で三作を書いている最中だとのことだった。
私自身は小説を書いたことはない。書く苦労というものはわからないが、やはり何も浮かばなければ辛いだろうし、筆が止まってもやはり辛いだろう。一方で、うまく書ければうれしいだろうし、賞を獲ったり稿料を受け取っても当然充実感があるだろう。
所詮は、彼が一身で受け止める類の事柄なのだった。なにもしてやれない。
次の小説が届くのを心待ちにしながら、毎日を過ごした。
彼がきっかけで始めた、文学賞の受賞作巡りも楽しいものだ。文芸誌ほか、小説誌の新人賞受賞作、および地方文学賞の受賞作。
特に、地方文学賞は、年齢の近い人が受賞していることが多くて、親近感がわく。多少の略歴および写真が掲載され、ふうんと思う。一念発起というのだろうか、そういうものがあって応募したのだろう。
受賞者の陰には無数の落選者がいるはずだが、作品を仕上げて応募に至った充実感というものには変わらないだろう。なかなかいいイベントだ。私は楽しませてもらっている。
味わい深い小説が多い。プロの目から見たら、粗いとされるものが多いだろうが。
その地方を舞台にしたものでなければならないという賞もあるが、そういう賞は、やはりレベルが下がってくる。そういう限定をしない鷹揚な賞のほうが、おのずと作品のレベルが高い。
応募総数は三百作から五百作くらいが多いであろうか。多ければ千作を越えるものもある。最終選考者はやはり芥川賞作家が多い。彼がそういった中の入賞者になることを、心待ちにしているのだった。
娘が、彼の作品三作を持ち帰った。
「これでだめだったら、君との結婚は諦めるよって言ってたわ」
「そんな弱気な」
「いえ、自信があるということなんでしょう」
「まあ、読ませてもらうよ」
目を通した。なかなかいい。地方の賞の受賞作のレベルには、達しているのではないか。こうしたらもっと良くなるとかいう類のことは考えたが、口には出さないようにした。
「彼に、良くできていると伝えてくれ」
「アドバイスはないの?」
「特にない」
娘は下がった。
私には、もはや彼が賞を獲るとか獲らないとかいうことは、どうでもよかった。娘は彼にやるつもりだった。五十枚ほどの良作が三作。彼なりに苦労したのだろう。
私の経験から言えば、どれか一つが受賞しなければおかしいレベルだった。地方の賞の過去の作品は、手に入る限り手に入れて目を通しているのだった。
“やれやれ、この一件はこれで終わりだ”
そう思い、籐椅子に横になった。
長かった。彼にも長かったろうか。
“小説の種類は何であれ、それで身を立てているのならいいじゃないか”
今回の課題に反対の友人は、そう言ったのである。私の中では、だんだんその考えが強まってきて、後悔したものだ。そうして、彼の苦労を思い遣るたびに、自分にも苦労がかかってきた。
とにかくこの一件は終わりだ。結果を待つまでもない。翌日、妻と散歩中に、彼の話題を持ち出した。
「お前、今度の小説は読んだかい?」
「昨晩読みましたよ」
「どうだった?」
「ずいぶん良くなったと思ったわよ」
「俺もそう思った。今回の件は、今度の作品で終わりにしないか?」
「そうねえ、賞を獲るのも大切だけど」
「もういいんじゃないか?」
「私もそう思うわ」
結果発表までの半年は、夏がひどく長く感じられた。一家で避暑に出かけようかと考えたが、彼のことを考えて取りやめた。
“稀代の新人現る”などと銘打った文芸誌を読んで、がっかりしたりした。その夏は、高校野球を熱心に見た。恋人君は三十歳ほどだが、中年の球児のようなものに思えた。
私の希望は、文壇での優勝ではなく、ベスト十六、ないしベスト三十二くらいだろう。それ位の目標を達成して、晴れて娘を娶り、そうして大きな顔をして官能小説を書いて欲しいのだった。
彼の小説は、無事そのうちの一作が地方文学賞を射止めた。
彼は泣いて喜んでいたと娘は話し、娘も少し涙ぐんでいた。妻の表情も明るかった。
私はと言えば、多少地方文学賞を軽んじていたことを恥じ、レベルは中央の文学賞に勝るとも劣らないものだと考えなおした。中央の若い人の小説より、地方の賞の、中高年の書いた作品のほうが楽しく読めたことを思い返したのである。
彼は表彰式に出席し、無事挨拶を済ませた。選考委員の芥川賞作家は、彼の作品を絶賛し、次作が待たれると発破をかけた。
表彰式をすませた彼を、前の料理店に呼び出し、四人で食事をした。明るい雰囲気で食事が進み、私と彼は、酒を酌み交わした。
めでたい席であった。私にとっても人生で何度あるかわからない、うれしい場であった。
「娘は君にやるよ」
酒がやや進み、彼の頬に朱がさしてきたころ、私はおもむろに彼に伝えた。
「ありがとうございます」
彼は、やや詰まりながら答え、笑顔を見せた。
「君はよくやってくれた」
「ありがとうございます」
彼は繰り返した。その様子は、会社員のそれではなく、作家として十全にやっていくべき人間のそれであった。
妻は涙ぐんでいるようであった。娘は笑っていた。そうして娘は彼のもとに嫁に行った。
引っ越しを終えて、最後に娘が家を出るとき、
「彼にもお前にも悪かったな」
「いいのよ。いい考えだったわ」
「ありがとう」
「ちょっとした一件だったわね」
その夜、妻が話した。
「ああ」
「よかったわね、結局」
「そうだな」
ひたすら疲れていた。
「どっと疲れた」
「私もよ」
そうして明日、元気があったら、今回の件で渉猟した小説をすべて、古本屋に売りに行こうと考えた。
彼はその後、小説誌に小説を書くようになった。
必ず目を通す。多少の粗が目につくが、意見はしないことにしている。この調子で書き続ければ、直木賞も夢ではないかもしれない。
娘は逆に、私に感謝している様子だ。私も慚愧の念に堪えない。
今回の件に賛成した友人とも、反対した友人ともそれぞれ会って、結果を報告した。結果オーライで、鼻高々だった。二人とも、結果を祝福してくれた。スナックのママにはまだ報告できていない。
一件が終わり、自分でも地方文学賞に啓発されて、書こうと思っていたが、実現しない。何十枚もの小説を組み立てて書き上げるということの困難さに直面するばかりであった。
“やっぱりプロは大したものだ”
そうして彼も当然そうだと思うのであった。
妻との川べりの散歩は今も欠かさない。今のところお互い健康に不安はない。
「やれ今年も桜が咲いた」
散歩しながら私は妻に話しかけた。
「そうですね」
妻が答える。
「彼も立派になった」
「そうですね」
「いずれ直木賞が獲れればいいんだが」
「そう欲張らずに」
賞を獲らねば娘を嫁にはやれないと息巻いていた面影は、すっかり消えていた。
「まあこの調子で書いていたら、いずれお声もかかるさ」
「でしたらいいですね」
穏やかな妻に戻っていた。
ところで彼は、まだ官能小説を書いているのだろうか? たまに気になるが、訊かないことにしている。