対策特別室の女
(スプーン対策特別室へ移動になってから、もう二年は過ぎただろうか)
ミサキは手元の書類を整理しながら、ふと思う。
◆
特殊事件対策庁での最初の配属先は、総務部だった。
高校から部活でダンスを始め、大学に入ってからも続けたくらい、身体を動かすことが好きなこともあり、現場での職務を志望したのだが。だから、総務部への配属は不本意だった。
その見た目から、ダンスのことを言うと「えっ! 全然見えなーい」と、お決まりの大きなリアクションをされることが多い。というか大抵がそう。その後に続く会話パターンにもウンザリしている。だから、ダンスはあまり自分から言わない、秘密としていた。
総務部の仕事は予想通り、身体を動かす業務とは正反対だった。日々デスクに座り、書類、数字、雑務処理。
仕事内容だけでなく、女子事務員にだけ指定された制服、そのスカートにも抵抗感があった。
(結局、女という性別の落としどころは、こういう部署なのか)
と落胆した時期もあった。だけど、働くからには責任があるし、途中で投げ出すのも嫌だ。それに努力して特殊事件対策庁に入ったのだ。当然、もったいないという気持ちもある。
うじうじと悩む自分と決別し、改めて仕事に対する気持ちを奮い立たせた。
私はどちらかといえば、ポジティブなのだ。
そうして、日々の業務自体に問題はなかったが、別の大きな問題に直面することとなる。
総務部のお局様から、嫌われてしまっていたのだ。
はっきりとした理由も、きっかけも分からない。ただ、気付くと親しい同僚から忠告を受ける状況に陥ってしまっていた。
「あんた、目付けられてるよ。」
今、思い返してみても理由が分からない。
仕事も頑張ったし、職場の雰囲気が良くなるよう振舞ったし、自分のアピールもしたが悪目立ちしないよう注意を払った。落ち度はなかったはずだ。
あと、私自身の融通の利かなさも、多少は理解しているつもりだった。
お局様の周囲を巻き込んだ小さな嫌がらせは多々あった。
一人では処理しきれない量の仕事を回してきたり、間違ったフリして書類の一部を紛失されたり、連絡事項を伝えなかったり。決して陽気とは言えない手段で。
しかし、私は挫けなかった。そんな卑劣な嫌がらせに屈するのは嫌だと、ガムシャラに仕事に取組み、どれだけ自分を犠牲にしてでも、それを完遂させた。
連絡事項については、味方の同僚がこっそり教えてくれたので助かった。
(私は、負けない)
そう心に誓っていた。
だけど、神様はそういう頑張りに、目もくれないらしい。
管理職である上司との面談の際、何気なくした相談が、運の尽きだった。
後から知ったのだが、その上司は、お局様と通じていたらしい。どのような関係だったのか、知る気もないし、知りたくもない。
ただ、結果として、人事異動が内示され、今後の昇進が見込めない部署へ送り込まれた。
それが、今いるスプーン対策特別室、というわけだ。
お局様の勝ち誇った表情と、同僚の私に向けられた哀憐の目が記憶に残っている。
◆
束にまとめた書類をトントンと整え、奥にある金属製の扉に向かい、軽くノックする。
「室長! 書類、外のデスクに置いときますね」
「おおー。ありがとー」
間延びした返事が扉の向こうから返ってくる。
配属された当初は、
(室長は、いつも奥の部屋で何をやってるんだろう? もともと設備室だった場所を改造までして)
と疑念を抱いていたが、今では日常となった。
それに、触らぬ神に祟りなし、だ。
そんな室長に初めて挨拶した時を思い出す。
◆
「来週から、よろしくお願いします」
「聞いてるよ。よろしくね」
(なんだか軽そうな人)
最初の印象はそう感じた。
「で、ミサキさんは、何をしてここに飛ばされたの?」
ド直球の質問だった。
そして、急な質問にまごつく私の様子を尻目に、室長は続ける。
「どうせ、あそこのお局に目を付けられたんだろ。そして鈍感な君は、上司との関係も知らなかった」
私の気持ちを削るような追撃。それに私はまた動揺する。
「まあ、そんなところです」
やっと絞り出した返事だった。
「健気だね。涙が出ちゃう。頑張り屋さんなのにね。」
その挑発するような言葉に、私自身の胸の奥に押し込まれていた、悔しさ、やり切れなさを強く感じる。
無意識に我慢していた気持ちが溢れそうになる。
「わたしの……私の何を知ってるんですか。」
私の声は、少し震えていたと思う。
「なんでも。」
室長の顔は変わらず柔和だった。だけど、その目には、その言葉には、力があった。
「ずっとダンスを続け、部長にもなった君には責任感がある。そして、真面目で熱心だ。
その性根は真っすぐで、挫けない。例え、自分の希望した業務に携われなくても。どんな困難に対しても。
それは、誰もが手に入れられる性質では決してない。自分の生きるの中で培われた人生の軸、魂そのものだと私は思う。
そして、その魂を、くだらない私欲で無下にすることを、私は決して許さない。
……
まあ、あいつ等をどうこうするつもりはないけどね。面倒くさいし。近付きたくないし」
すべてお見通しのようだった。この人にはかなわない。
「何で知ってるんですか。」
いたずらな笑みを浮かべた室長は「ヒミツ」とだけ言い残すと、
「じゃあ、よろしくー」
上げた片手をヒラヒラさせながら、去って行った。
室長に関して、噂を耳にしたことがある。
入庁した当初はエリートで、組織内政治を乗りこなすやり手で、出世コースを邁進する野心家だったと。
今の姿からは、全く想像できない。なぜスプ室なんかに、甘んじているのだろう。
頭をぶつけた。もしくは落雷にでも打たれたのだろうか。
ただ稀に、その当時の片鱗を感じる瞬間はある。
◆
定時になり、退勤のため立ち上がる。相変わらず扉の向こうにいるであろう室長に挨拶をする。
「お先に失礼します!」
「おつかれー」
また間延びした声が返ってくる。
「時間無制限の仕事をするヤツは、バカだ。」
これが室長の口癖だった。そのため、仕事があれば残ればいいし、なければ帰る、それがスプ室の暗黙のルールだった。
加えて、窓際の部署ということもあり、スプ室の残業代は一切出ない。だから出勤管理表もなく、私が定時退社で報告をまとめ、月末に総務へ上げている。
めずらしく自分の席に戻っていた、モロさんにも挨拶を済ます。
「うん。お疲れさま。気を付けてね。」
モロさんは元々、開発管理部にいたそうだ。
功績を上げていたらしいが、それを上司がすべて自分の手柄とし、口封じのためにモロさんをスプ室へ飛ばしたとか。本人に聞いたことはない。
ただ、所属とか、昇進に関心がないようだ。
勤務中は、いろんな部署のコンピューターの件で呼び出されたり、機械の修理に駆り出されたり、庁内の便利屋のようだった。
たまに自分の席にいるときは、デスクの上に乱雑に置かれたよくわからない機械を弄っている。大きな体形に似合わず、背中を丸めて作業するその手先の動きは、繊細そのものだ。
私はというと、スプ室の事務、アシスタントをこなしつつ、空いた時間はジャージに着替えて、倉庫としての旧庁舎の掃除、整理整頓に励んでいる。今では、他部署の人から、倉庫管理人とか、番人と呼ばれる。光栄なことだ、そう思うようにしている。
◆
旧庁舎の外は、まだ少し明るかった。
帰り道、無意識のため息が出る。
(このままでいいのだろうか。)
総務部と比べて、今のスプ室は正直、居心地がいい。
以前の私自身を思い返すと、意地を張って、すべてがガチガチに凝り固まっていたようにも感じる。それだけ、余計な肩の力が抜けたのだろう。
(だけど、何も変わらない。)
スプ室が、組織内の厄介者の集まり、窓際の部署という事実は変わらない。
いざスプ室が別部署に吸収消滅という際には、あの室長が何とかしてくれる安心感はあるが。
(どうしよう。)
資格勉強、転職活動、セミナー、趣味、いろいろな選択肢が頭の中をグルグル回る。最近、私の周りでの結婚も増えた。
「はぁ」
また、ため息が出る。祖母が言っていた。幸せが逃げるらしい。
最近の私自身を振り返ると、プライベートは、すっかりインドア派のままだ。総務部での激務の後遺症からまだ抜け出せていないのか。何をするにも億劫と思うことが習慣となってしまっている。
(とりあえず、ジム、会員登録しようかな。)
目に留まった登録料無料の広告が、今後の優先順位に加えられた。
◆
住宅に囲まれた道を歩くミサキの前に、少年が角から飛び出す。
慌てた様子で息を切らしている。
「おねえちゃん、助けて!」
ミサキの姿を確認すると、少年は腕を掴み、急いで元来た角の先へ引っ張って行く。
「どうしたの!」
「いいから!」
何度か角を曲がった細い路地の先には、塀に囲まれた空き地があった。
「で、何があったの?」
息を整えながらミサキは、少年に改めて問いかける。
背を向けた少年は答えず、黙ったままだ。
そこで違和感に気付いた。
(呼吸が全く乱れていない)
振り返った少年は言う。
「はじめまして。ミサキさん。」
その様子には、子供らしさはなかった。