「このまま、時が止まってしまえばいいのに……」と思った結果
わたし今、幸せの絶頂にいる。
街を見下ろす高台にある、静かな公園。聞こえるのは微かな葉擦れの音だけ。眼下にはクリスマスイルミネーションに彩られた美しい夜景が広がり、そして隣には──最愛の恋人。
「薫子」
その彼……郁人くんの呼ぶ声に、わたしは振り向く。
すると、郁人くんはどこか切迫した表情を浮かべていて……いつも穏やかな笑みを絶やさない彼のそんな姿に、わたしの胸は高鳴った。
「っ! 薫子!」
突然、もう堪らないといった様子で力強く抱き締められる。思わぬ大胆さに少し驚くも、すぐにその情熱的な行動に胸が熱くなった。
「好きだ、愛してる! 僕と、僕と──」
繊細な容姿に反して、意外なほどに逞しい郁人くんの体。そこから、高鳴る鼓動まで聞こえてくるようで……ああ、もうこのまま……
(時が、止まってしまえばいいのに……)
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……………………?
…………ん? あれ? 間が……長くない?
ちょっと? 余韻を持たせるにしても限度ってものが……いくらなんでも焦らし過ぎじゃ……って、ん!?
(あ、あれ? なんで? 体……動かない?)
郁人くんの横顔を窺おうとするも、顔も目も動かない。郁人くんの肩に口元を埋めたまま、前を見ることしか出来ない。
(な、なんで……動けな、やだ、苦し──!!)
全く動けないということを脳が理解した瞬間、凄まじい恐怖が腹の底からせり上がって来て、肺を、心臓を覆いつくした。
まるで、透明なプラスチックで全身隙間なく固められてしまったかのような閉塞感。今やこの体は“わたし”という意識を閉じ込める牢獄でしかなく、もしこのまま、ずっとこの状況が続いたらと思うと──
(ダメ! 考えちゃダメ! これ以上考えたら確実にパニックになる!!)
崩れそうになる精神の均衡を、ギリギリのところでなんとか立て直す。そして、落ち着くために深呼吸をしようとして……気付いた。自分が、呼吸すらしていないことに。なのに、苦しくない。いや、苦しいは苦しいのだが、それはこの閉塞感から来る心理的なものだろう。
(どういうこと? こんなの、まるで──)
時が、止まったかのような……?
その言葉が脳に浮かんだ瞬間、わたしはつい先程自分が抱いた願望を思い出した。そうだ、わたしは確かに望んだ。あまりの幸福感に、このまま時が止まってしまえばいいのに、と。
(まさか、そのせい? いや、そんなまさか……)
笑い飛ばそうとするも、他に思い当たることはない。というか、解決の糸口を見付けたという考えに縋り付いていないと、頭がおかしくなりそうだった。
(んん~~~!! 動け! 動け動け動けぇぇ~~~~!!!)
自分の願望が原因なら、自分の意志でこの状況は打破できるはず。その可能性に掛けて、わたしは全力で念じ続けた。
すると──
バギバギバギィ!!!
(うわっ!?)
静寂に包まれていた世界に、突如響いた巨大な破砕音。まるで、積み重ねた幾十枚ものガラス板を、プレス機で圧し砕いているかのような……思わず顔をしかめたくなる轟音。しかし、わたしはこの停止空間に遂に訪れた変化に、内心歓喜の声を上げていた……の、だが、
(……え? ナニアレ?)
視界の左端、郁人くんの頭の向こうに見えた光景に、わたしは思わず呆然となった。
空が、割れている。
見たままを言えばそうなる。夜空にビシビシと亀裂が走り、端から徐々に砕けていく。その先に覗くのは、暗灰色に様々な色が入り混じったヘドロのような空間。
(……世紀末?)
自然と、そんな考えが浮かんでしまった。しかし、実際ファンタジー映画のワンシーンのようなその光景は、世界の終わりを想起させるに十分だった。
なんとかその全容を捉えたいと思ったが、視線を動かせないのでそれは不可能。それでもどうにか、この怪現象を直視しようと足搔いていると、更なる驚きの事態が。
「来たか──!」
怪現象とは逆方向。右側……この高台に繋がる上り坂の方から、不意に聞こえた少年の声。そして微かに聞こえる、こちらに向かってくる複数の足音。
人間だ。この停止した世界に、動いている人間がいる。その事実が、わたしに僅かばかりの安心感を与えた。動いている人間がいるなら、この状況を打破することも出来るかもしれない。
そう、思ったのだが……視界に入り込んで来た足音の主たちの姿に、わたしは内心真顔になった。
(……勇者パーティー? の、コスプレ?)
そこにいたのは、王道RPGのパッケージに登場しそうな、ファンタジー衣装に身を包んだ少年少女5人。
勇者っぽい少年。見るからに魔女っぽい少女。シスターもいれば西洋甲冑もいるし、なぜか侍っぽいのもいる。そして揃いも揃って顔がいい。
(な、なに……? まるで、RPGの最終決戦みたいな……)
そんなわたしの感想を肯定するように、左側で一際派手な破砕音が響いたかと思うと、視界の端に巨大な触手が伸びてくるのが見えた。
(うげ、なにあれ)
うぞうぞと動く、高層ビルを簡単に薙ぎ倒せそうな黒い触手。それが4本。でも、本当はもっとたくさん数があるのだろうと、わたしは直感した。
「あ、あれが……次元の狭間に巣食う邪神、ゲルミュニュート……!!」
ゲル……なんて?
シスターさんが戦慄気味に漏らした名前に、わたしは内心眉をひそめる。当然わたしの疑問に答えが返されることはなかったが、彼らがこの状況に対してある程度の理解があるということは分かった。であれば、彼らならこの状況を解決できると考えるのが自然……
(って、解決って……アレを倒すことでは?)
わたしの予想は正しかったようで、少年少女は口々に互いを鼓舞しながら、戦闘態勢を整えていく。
「大丈夫だ。敵は途方もなく強大だが、オレ達なら乗り越えられるはずだ!」
「で、あるな」
「大丈夫よ。あたし達ならやれるわ」
「うむ、今こそ我らの死力を尽くすべき時」
「そうですよね……行きましょう! 世界を護るために!」
いや、なんかマジで最終決戦っぽい。
なんだか覚悟を決めたらしい5人組は、一斉に高台の柵に向かって駆け出すと……躊躇いなくその向こうに身を躍らせた。……普通に考えたらダイナミックな投身自殺だけど、たぶん飛んでるんだろうね。見えないけど……って、
「砲撃、来るぞ!」
? 砲撃、とは?
その疑問に対する答えは、直後に閃光と爆音という形で現れた。
(えーー……)
なんか、街の方で土煙上がってますけど? あの美しい夜景が、目も当てられない惨状となっている光景が容易に想像できるんですけど?
「ああ、街が!」
「敵に集中して! 大丈夫! 街なら後であたしが魔法使って直すから!」
おお、やっぱりそういう修復魔法的なものがあるのか。それは是非お願いしたい。このままではわたしの町を謎の大惨事が襲うことになるので。いや、もう襲ってるんだけども! 何してくれてんだ今日クリスマスだぞ!!
(まあそれでも、ちゃんと戦いの後に直せるなら──)
「でも、その魔法って詠唱に90秒くらい掛かるんじゃ……」
「大丈夫だって! たしかに、時間停止が解けてから0.5秒以内に修復しないと壊れた状態で固定されちゃうけど、ちゃんとタイミングを見計らって詠唱し始めればイケるイケる!」
(やめてーー!! そんなギリギリを狙わないでーーー!!)
90秒前に見切り発車して0.5秒のタイミングを狙う!? シビア過ぎませんか!?
「でも、街の人達は……」
「気にするでない。この停止空間では、皆意識はない」
(もっしも~し! ここにバッチリ意識ある一般人がいるんですけどぉ~!?)
もしかして、意識があるのはわたしだけなのだろうか。郁人くんも……意識はないのだろうか?
そんな疑問が浮かぶが、今のわたしに確かめる術はない。ただ、こちらに流れ弾が飛んでこないよう祈ることしか出来ない。
(せめて、戦いの様子を見たいんだけど……視界の端にチラチラ見えるくらいじゃ、何が起こってるのか分からな)
「奴の目を見るな! 目を合わせたら発狂するぞ!」
「見るなって、数え切れないくらいあるんだけど!?」
(前言撤回見えなくてよかったというか視界に入ってこないでねお願いだから!!)
触手に無数の目とか、それだけで発狂してしまいそうだ。こちらに来ないことを切に願う。なにせ目を逸らすこともつぶることも出来ないんでね!
「食らえぇ!!」
「その腕、もらった!」
「そぉぉ、れっ!」
「ぬぅぅ、この程度では斃れんぞ!」
「回復します! 皆さんこちらへ!」
動かぬ体で必死に祈っている間にも、視界の外で何やら激しい戦いは続いている。何が起きているのかは声で判断するしかないが、どうやら今のところは、誰一人欠けることなく善戦しているらしい。
(ガンバレ! 超ガンバレ! 特に街を再生する人!)
心の中で応援と自己保身半々の声を上げていると、やがてズズゥゥンという大きな音と共に歓声が上がった。
「よし! これで後は核だけだ!」
「一気に畳み掛けるわよ!」
勇ましい声に、仲間達が力強く答える。どうやら、決着が近いらしい。けど……こういうのって、大体……
「待て! ……何か、おかしいぞ?」
(って、やっぱりぃ~~! フラグ立てるんじゃなかったぁ~~!!)
嫌な予感が的中したらしい雰囲気に、わたしは内心頭を抱える。
(そりゃそうでしょ! ラスボスって第二第三形態があるのが普通なんだから! よくある展開だと、本番はこれから────え?)
刹那。幾筋もの紫色の閃光が、空間を貫いた。
それに続いて響く、凄まじい爆発音。遠くに見えるビル群がそれに巻き込まれ、派手に崩落していく光景が目に映る。
(アカン)
第2ラウンド開始を告げるゴングにしてはヤバ過ぎだった。それは戦っている当人達も同じ意見のようで、焦りに満ちた声が聞こえてくる。
「くっ、こいつ……! まさか、今までは本気じゃなかったのか!?」
「さっきよりも、明らかに気配が……こ、こんなの……っ!」
「気圧されている場合ではないぞ! また来る!」
「皆さん! わたくしの後ろに──」
その切羽詰まった声の直後、視界の端で再び紫の光が炸裂して────一条の閃光が、わたしの方へ、あ、これ、
(死────)
その予感が脳を貫き、わたしは瞬間的に覚悟を決めた。襲い来る死の恐怖に耐えるべく、我が身を抱く最愛の恋人、その感触に意識を集中させる。頭の中を、郁人くんとの楽しい思い出の数々が駆け抜ける。ああ、これが走馬灯というやつなのかもしれない。でも、悪くない。愛する人の腕に包まれて死ぬのなら、それはきっと幸せな…………あぁ?
(あれ? 郁人くんの腕が……体が離れ……ってか郁人くん動いてる!?)
「まったく、騒々しいな……」
普通に動いている恋人に呆然とし、そのいつもと違う声と表情にまた呆然とする。
(えっと、郁人クン? なんでそんなラスボスみたいなセリフを……ってかキャラ違くない?)
「消えろ」
郁人くんがそう冷たく言い放った直後、わたし達を呑み込もうとしていた紫の光はあっさりと消えた。
(えぇ~~)
超展開についていけないわたしを余所に、郁人クンは戦場の方を見上げて忌々しげに言う。
「無駄にデカいだけの下等生物の分際で、このオレのプロポーズを邪魔するとは……万死に値する」
(下等生物とか言っちゃったよ……)
完全に上位存在のセリフを吐いた郁人クンは、右手をゆっくりと持ち上げるとグッと拳を握り込んだ。
「失せろ、ゴミが」
途端、世界がモノクロになった。色と音の失われた、白黒のみの世界。そして、数秒後に色と音が戻った時には、空にあったひび割れもキレイになくなっていた。恐らく、邪神なんちゃらも消滅しているのだろう。
「お、お前は一体……」
左斜め上方向から、少年の声が聞こえる。それに対し、郁人クンは傲岸な態度で鼻を鳴らした。
「当代の守護者共か……やめておけ。貴様らが何をしたところで、オレには届かん」
(言ってること完全に裏ボスじゃん……)
ダメだ。結婚後に多少裏の顔が見えることは覚悟していたが、裏ボスの顔は想定の範囲外だ。守護者とやらの手に負えない人間(?)が、一民間人であるわたしの手に負えるとは思えない。正直まだ彼に情は残っているが、わたし達の関係については一度考え直し──
「案ずるな。オレに人類に敵対する意思はない。貴様ら人類の中にも、好ましく思えるものはいるので、な」
(あれ? これ別れられないやつ? わたしがプロポーズ断ったら人類滅亡? アハハッ、ちょーウケる)
頭の中で虚ろな笑い声を上げる。そうして現実逃避していると、いつの間にやら勇者パーティー(?)の気配は消えていて。気付けば、いつもの表情に戻った郁人クンがこちらを向いていた。
「僕と──結婚してくれ!!」
……ああ、そう言えばプロポーズの途中だった。というか、体も動くようになってる。っと……ダメだ。自分の体を見下ろしたりしたら、時間停止中も意識があったことがバレる。
(アハハ、意外と冷静じゃんわたし。あまりにも理解できない状況が続くと、逆に冷静になっちゃうのかな~)
どこか他人事のようにそんなことを考えながら、わたしは笑みを浮かべた。正直、引き攣っていない自信がなかったので、感動してる振りを装って両手で口元を覆うことで誤魔化す。
「郁人くん……わたし、嬉しい……っ!」
おお、我ながら名演技。実際には声が震えてるのは別の理由からだけど、今なら感動に打ち震えているように聞こえるだろう。実際、郁人くんもすっかり騙された様子で、とろけるような笑みを浮かべていた。
……20分前のわたしであれば、素直に愛おしいと思えただろうが……今となってはその笑顔もどこか恐ろしい。もしさっき意識があったことがバレたらどうなるのかと、内心戦々恐々だった。
(ああ、逃げたい……とにかく逃げ出したい。この場から)
そう、切実に思ったその瞬間。
わたしの足元から、謎の光が立ち上った。
「え?」
「薫子……!」
反射的に地面を見て、そこに魔法陣らしきものがあることを確認した直後。わたしは光に呑まれ──気付けば西洋風の大広間にいた。
「ふぁ?」
「おお、成功したぞ!」
「聖女様のご降臨だ!」
呆然とするわたしを余所に、何やら盛り上がっている声が周囲から聞こえる。うん、これはもしかしなくても……異世界召喚ってやつだよね?
「ん? なんだあの男は。聖女様と一緒に召喚されたのか?」
「馬鹿な、そんなはずは……」
(うん、そしてこれは、いわゆる巻き込まれ召喚ってやつだよね?)
「陛下! あの男、なんのスキルも保有しておりません!」
「なんだと!? なんでそんな異物が紛れ込んでおるのだ!」
(わたし知ってる。これ、レベル差あり過ぎてステータス鑑定失敗してるやつだ。勘違い追放からの壮絶ざまぁ展開だ)
ざわざわしている周囲はひとまず置いておいて、わたしは一緒に召喚されちゃったっぽい郁人くんの顔を見上げる。すると……そこには、先程停止空間で見せていたのと同じ、恐ろしく冷酷な表情をした郁人くんがいて。
「オレのプロポーズを邪魔するとは……虫けら共が……」
(あきまへん)
至近距離で聞こえた殺意ビンビンな囁きに、わたしの危機感はピークに達する。しかし次の瞬間、郁人くんはいつもの笑顔でわたしを見下ろすと、優しい声で言った。
「ごめんね薫子。少し、目をつぶっててくれるかな?」
「ハ、ハハ、ハ……」
追放を待たずして迫る壮絶ざまぁの気配に、わたしは引き攣った笑みを漏らし……
(もう、どうにでもな~れ~)
そう思った直後、静寂と共に世界がモノクロになった。