破綻のゲノム
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
しっかし、この歳になると毎回の健康診断の結果がひやひやものだよな。体重に始まり、血圧、採尿、心電図……どっかしらに異常が見られた日には、がっくり肩を落としたくなるよ。また病院に行く羽目になるかもしれないし。
俺、病院にあまりいい印象を持っていないんだ。ちょっと小さい頃の記憶が絡んでいてな。
――病院通いだったのかって?
いやそれが、俺自身が病院に通っていたわけじゃないのが、またちょっと変わったところだと思っている。
なんだ? その時の話に興味があるのか? 聞いていて、あまり気持ちのいい話じゃないかもしれないがな……それでもいいなら、話をしようか?
俺が小さい頃から、父親は泊りがけで家に帰らない時が結構あった。母親に聞いてみると、人間ドックだからだという。健康診断の一種を受けているんだと、説明されたよ。
だが、この期間が長い。一度出かけてしまうと、5日とか一週間とか帰らないのが、当たり前。それが毎月だぞ? 最初は「そんなもんなんかあ、人間ドック」と思っていたけれど、周りのみんなに聞いてみたら、親はせいぜいが年に一回程度しか受けないとのこと。我が家の受診頻度は、あまりにも多すぎたんだ。
――本当は人間ドックにかこつけて、どこかで遊び惚けているんじゃなかろうか?
具体的な内容を考え付くには、まだまだ幼い当時の俺。漠然としたイメージに留まる。でも、世の父親が汗水たらして働いているおかげで、俺たち子どもが生きていけることくらいは把握している。俺たちが家で使うお金は、そこで手に入ることも。
こんなペースで仕事を休んでいてお金が入るものなのだろうか、とも思ったよ。
それから数年ほど経ったある日。俺のクラスの女子のひとりが、右腕の指先から肩にかけて、一分の隙間もなく白い包帯を巻き、登校してきたんあ。
「おいおいおい、何かの登場人物の真似っこか? あれを解いたら第三の腕とか、うんちゃらなんちゃら波みたいな、必殺技が発射されるのか?」
俺たち男子一同からは、失笑の的だったね。その日は笑いものになった彼女だが、一日が経つと、態度が変わらない男子に対しては、女子陣のつららのごとき冷えた目線が、ぐさぐさと刺さるようになる。
どうにか女子の機嫌をとって、話を聞き出した。
彼女は本当にケガをしているらしい。見た目通りの広範囲の傷とのことだが、どうやってついたかについて、彼女は口をつぐんでおり、女子の誰にも話していないそうだ。
あそこまで目立つ傷、自分の不注意程度でつけられるとは思えない。いったい何があったのかは、聞き出せなかった。
やがて新年度の手前。俺の友達の一人が腕のしびれを訴え始めた。箸や鉛筆を握っていると、不意に感覚がなくなってしまい、取り落としてしまうことが増えたのだとか。
当事者でない俺たちには、さっぱり事態の深刻さが理解できなかったさ。四六時中、しびれるっていうならまだしも、「しびれた」と申し出てくれた時しか分からないんだから、それが本当かどうか、判断できない。
表向きは心配するふりをしながらも、痛がりならぬ、しびれたがりな態度ばかり取るそいつに、俺も周りも少しうんざりしていたよ。
それから数日後の放課後。そいつが俺よりちょっと先に校門をくぐった時、フェンスの影にいた大人の男に、声を掛けられているところを目撃した。白衣を身にまとった男性は、しばらく彼と話をした後、不意に注射器を取り出したんだ。
ほんのわずかな間のことで、俺以外の人はその瞬間に気づいていないようだった。そいつは明らかにおびえた表情で、白衣の男から距離を取ると、一気に逃げ出す。白衣の男も後を追いかけたものの、運動靴のそいつに対し、革靴走りでは分が悪かったらしい。
200メートルほど追いかけたところで立ち止まり、ここからでも見えるくらい、肩で大きく息をしていた。もちろん、校門からだいぶ離れた状態だ。
俺はそのすきに、男がいる方向とは反対側へ逃げて、そのまま家まで一直線だったよ。
どうにか玄関をくぐると、そこにはパジャマ姿の父親がいた。また数日前から人間ドックへ行っていたから、帰ってきたところなのだろう。俺に「お帰り」と挨拶してくれるのはいつものことだったが、その直後に妙なことを尋ねてくるんだ。
「白衣を身に着けて、注射器を持った男性を、帰り道で見かけなかったか?」とね。
そりゃもう、心臓が縮み上がったよ。どうして父親が、俺の下校際のことを知っているのかってね。とっさのことでごまかしきれない様子の俺に、父親は言葉を継ぐ。
「もしその人を見かけたなら、逃げ出さずに一度、話を聞いてみてほしいんだ。もしかするとお父さんの診断結果に関することを、話してくれるかもしれない」
「いや、まったく理解できないんだけど。俺には関係ない話じゃん。そもそも、なんで病院でしてくれないのさ、その話。俺はまっぴらごめん……」
「頼む。ことによっては治療が必要なんだ。お父さんを調べたことで、お前に関して治さねばいけないことが、判明したかもしれない。話を聞いてやってくれ」
「やだよ。本当に変な人だったら、ぜってえにやばいじゃん。そんな頼みは聞けねえ」
「じゃあ、お父さんの名前を聞いてくれ。それにまともに答えられない奴なら、相手にしなくていい。だが、ちゃんと答えられた奴だったら、話に付き合ってやってくれよ」
いつになく、変な頼み事だった。そんなこと、そうそう起こるわけがないって、その時の俺は思っていたんだ。
だが、その日の夕飯、俺は突然、左手がしびれてしまい、茶碗を落としてしまったんだ。母親に注意をされたが、他のものに対しても同じようなしびれが走る。それからの時間、ほぼ右腕一本で過ごさざるを得なかったよ。
翌日。俺たちクラスの男子は、どよめきを隠せなかった。白衣の男から逃れたあいつが、右腕全体に包帯を巻いて姿を現したんだ。例の彼女も、相変わらず同じように包帯を巻いているが、真似をしたにしてはいささか時間が経ちすぎている感が否めなかった。
そいつは休み時間に、俺を含む一部の友達にだけは話してくれる。昨日の帰り道、自宅のすぐ手前まで来て、左腕にまたしびれが走ったんだ。しびれはどんどん強まり、ほどなく、右腕の支えなしではろくに動かすことができなくなってしまう。
垂れ下がった腕は、血が集まっているかのようにどんどん指先が熱を帯びる。それからまた、少しずつ胸へ向かって血が上っていく感覚。それが手首の上を通過したとたん。
皮膚が破れた。同時に飛び出した血が一瞬宙を舞った後、重力に引かれてアスファルトの上にまき散らされる。
手首の上から肩近くにかけてまでぱっくりと、刃物を入れられたかのように裂けた。血もなかなか止まらない。帰り着いた家で包帯を巻いてもらい、出血はおとなしくなったものの、またいつ起こるか分からないから、この状態でいるとのことだった。
話を聞きつつ、俺は無意識に自分の左腕を握る。朝から今まで、少しずつしびれの感覚が短く、強くなってきているのを、感じていたからだ。
放課後。俺が校門をくぐると、ちょうど死角になっていた位置から声を掛けられる。
「あ、君。済まない、ちょっといいかな」
見ると白衣をまとった男。昨日、あいつを追っていた人と同一人物に思える。
「俺の父親の名前、分かりますか?」
「ああ、○○さん、だね?」
一発で、戸惑うことなく当ててきた。俺の父親の名前は、全国的に珍しめな名前と聞く。それを知っているなんて。
「お父さんを調べた結果、君に関して、治療を施す必要ができてね、待っていたんだ。時間は取らせないからいいかな?」
そういいつつ、白衣の男が外ポケットから取り出したのは、あの注射器だった。キャップを外し、細い針をむき出しにして俺へ向けてくる。
さすがに得体が知れないものを刺されるなんて勘弁だ。俺は昨日のあいつのように、背を向けて逃げかけて……できなかった。
左腕が急激にしびれ、重くなる。それどころか指先が熱くなり、熱がじょじょに腕をのぼり始める。その時に見た俺の腕は、いずれの血管も表に浮き出ているばかりか、運動会の大繩をくゆらせた時のように、大きく波打ちながら肩目掛けて駆け上っていたんだ。
時々、キーボードを打っていたりすると、腕の血管が動く違和感を覚えたことないか? あれを何倍にもした気持ち悪さだったさ。
白衣の男が俺の左腕を掴む。流れをせき止められ、皮膚が限界ぎりぎりまで持ち上げられて山となりかけるところで、男はそのてっぺんに針を刺した。
そこから注射器の中へ注がれるのは、血というにはあまりに黒く、粘り気を帯びた液体。取り込まれてからも、おのずとうねうねとくねるさまは、まるで土まみれのミミズだ。
中身がいっぱいになって針が引き抜かれると、俺の腕にはわずかな穴も、出血も見当たらず、しびれも消え去っている。「間に合ってよかったよ」とつぶやきながら、男は針の先を拭い、キャップをつける。
「こいつをね、私は『破綻遺伝子』と呼んでいる。私たちは気の遠くなる昔から血をつないでこの世にいる。そこには父方、母方の無数の遺伝子の絡まりがあるわけだけど、時々、その一部が破綻してしまうことがあるんだ。
それは先天的な障害として現れることもあれば、今の君のように後天的かつ、突発的に異状を起こしてしまう可能性もある。私は日ごろ、その遺伝子に対抗するための研究を続けているんだが、食い止められたケースはこれで3件目だ。
間に合わなかったり、対象に逃げられてしまったり……いや、私の不徳といたすところだな」
気を付けて帰りなよ、と白衣の男は去っていく。
それから俺の腕をしびれが襲うことはなくなったが、今も父親は頻繁に人間ドックへ通っている。
父親とつながる遺伝子。いや、ことによると、ずっと前の誰かの遺伝子。それがもたらす不幸と戦っているんじゃなかろうかと、俺は思っているんだ