第一話 悪夢の世界
ボクは猫だったと思う……名前は無い…
暗闇…瞳に映るものは何も無い…じっと目を凝らす…ボクには大きい金色の瞳があったはず、しかし僅かな光も映らない。耳を澄ます…ボクには大きな耳があったはず、しかし耳鳴りさえも聞こえ無い。息を吸い込む…滞った大気、鼻腔には僅かな香りさえ匂わ無い、渇き切った口内…その舌には唾液の味さえ感じ無い。ヒゲ、手足、尻尾、躰中のどこにも触れる物は何も無い…ここは暗闇だけの世界。
ボクは記憶を辿る…蒼い空…翠の山々…朱い門…石の路…木の柱…そしてボクの姉妹の姿。
様々な色、音、香、味、感触で満ち溢れた世界があったはず、けれども今は何も無い。気づけばボクはひとりだった…起き上がれない…躰が重く沈み込む…このまま朽ちていくのだろうか…不安と恐怖で蝕まれ心が深く沈み込む…
これがただの悪夢だったらいいのに……
………
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どれくらい時間、月日、歳月が過ぎたのだろう?ふと何かの予感を感じた。霧のように薄らいでいた自分の存在…そこに僅かに意識が戻る。残った生命をふり絞り、瞼を開き暗闇を見つめる。
ぼんやり何かが瞳に映る。ふわっと浮かんだわずかな光、ゆっくりとそれが近づいてくる。
かすかに何か聞こえる。耳を傾け、探り、澄ます。
「だいじょうぶ だよ…」
やさしい声が心に届いた。
静かに息を吸い込むと心地よい香りに満たされた。
ちいさな指先が乾いた唇と舌先に触れた。澄んだ水が指を伝わり流れ、躰に広がり、染み込み、潤う。
「きみ は ここ に いるよ…」
ちいさな手で躰をふんわりと撫でられた、ボクはまだ存在していたようだ。
それは輝く少女だった。金色の瞳は涙を滲ませながらもボクに微笑む。長く伸びた柔らかそうな金色の髪がゆっくりと滑らかに揺れた。
『ん゛… く゛ぅ゛ぅ゛…』
ボクは躰中に力を込めた。暗闇に差した光に縋り、
僅かに僅かに這いずりながら、その光へと近づく。
少女はやさしく腕の中へとボクを引き寄せる、柔らかい布の感触と温かな体温が伝わってくる。袖や裾がヒゲや尻尾に触れるとくすぐられているようで、少しむずむずしたけれど、それさえうれしく感じる。
「わたし は めありぃ
もう キミ は ひとり じゃないよ」
『うん…』
しっかりと喉も動いた、ちゃんと鳴けるようだ。
「きみの なまえは? おしえて?」
『無い…』
名前なんて元々無いのか、それとも忘れてしまったのか…目を伏せてボクは答えた。
「そぉ なぃ っていうの いい なまえ ね」
めありぃはそう言って微笑んだ、その時、ずっとボクを深く沈み留めていた何かが零れた。
ボクは猫だ 名前は『なぃ』
そう呼ばれるようになった。
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瞼を開く…そこに金色のひと『めぁりぃ』がいた。金色の髪は輝き、しなやかに緩やかな曲線を描き、跳ねた毛先が揺れている。温かく湿った柔らかい布で、優しく丁寧に躰を拭かれる。
『なぁ…』
ボクがありがとうと鳴くと微笑みが向けられた。金色の瞳でやさしく見つめられると暖かく穏やかな気持ちになる。
「ホットミルク だよ のめる?」
浅いお皿に注がれた、おいしそうなミルクが差し出された。チロっと舌先を浸ける、ほんのりした甘さと温かさがじんわり浸み込むようだった。猫用だから安心してねと言っていた。夢中で半分ほど飲むと満腹感で眠くなる。優しくて、暖かくて、柔らかい…ボクは確かにここに存在している。ボクは再びこの世界に生まれた気がした。
金色の瞳、大きな耳、小さな鼻、黒い毛並み、しっかりとした手足、桃色の肉球、しなやかに動く尻尾、中々立派な仔猫だ。ボクは鏡に写った自分の姿を見つめる。
「げんきに なったね よかった」
そう声をかけてくれる彼女の名前は『めぁりぃ』、ボクは彼女を『めぁ』と呼ぶことにした。その方が短くて呼びやすい、りぃってうまく発音できないし。
『なぁあぁぁ』
ボクは元気だよと大きく答え、めぁの前をゆっくりと、行ったり来たり歩いてみせた。ついでにきょろきょろ辺りを見渡してみる、ここはめぁのお部屋らしい。木でできたおうち、木の床、白いもふもふした敷物、これはごろごろすると気持ちいい。ボクの寝床のふかふかのタオル、その隣にはめぁの寝床、ちょっと飛び跳ねれば登れるかも。もふもふはしてないけど温かそうだ。
「んふふ いい おへや でしょ。
これ は つくえ と ほんだな。
これから がっこう に いって
もっと にほんご べんきょう するんだよ。
なぃ にも おしえてあげるよ」
めぁは部屋のあちこちを指差しながら、言葉をいろいろ教えてくれる。
「ソファ テーブル でしょ クロゼット」
柔らかそうな二人掛けの低いソファ、小さな木のテーブル。中々快適そうな部屋だ。
ウォークインのクロゼット、吊るされた数着の服、小さな木の箪笥。それと積まれた段ボール。
「まだ ひっこし した ばかり なの。
こみんか を リフォーム したんだよ。
ほかの おへやも みる?」
一通りめぁの部屋の中を見回した後、扉を開けて廊下へ出た。とことことこと一緒に歩く、ぽかぽか日差しが暖かい。
「ここは リビング だよ。
おくが キッチン。
こっちは たたみ の おへや」
リビングには大きめのソファーとテーブル。テーブルの上からはおいしそうな匂いがしてちょっと気になる。たたみは草の匂いがする。大きな柱があったので爪をたてようとすると、めぁに慌てて止められた。爪とぎにちょうど良さそうなのになぁ…
「つぎは パパ の おへや だよ。
パパ いる?」
「あぁ、いるよ。メァリィどうした?」
扉が開くと大きな男の人が出てきた。めぁと同じ金色だった。
「なぃ を あんない してるの」
「おぉ随分元気になったな。よかった」
頭をごしごし撫でられた。めぁと比べるとちょっと乱暴だけど、やさしい顔はそっくりだったので嫌じゃなかった。
グラッ…「わわわっ」ズッダーーン!
「いったぁい…」
めぁが片付け中だった床の箱に躓き辺りに荷物を散らかしたので、ボク達は部屋から追い出された…
「ここが どま だよ。
ちょっと おそと でてみる?」
下を覗くと家の中なのに地面があった。めぁの隣にぴょんっと飛び降り、とことこ一緒に外にでた。
『なぁぁぁぁ…』
その光景に思わず声が漏れた。まだ雪が残り少し寒いけれど、きれいな草花と木々の鮮やかな色彩が目に映る。風に揺られ音を奏で、ここまで香りが運ばれてくる。足元の草を踏む感触も心地いい。
『な゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛』
…ついでに味見もしておこうと調子に乗ったのがいけなかった…口した草はとっても苦い味がした。
「くんしんぼ だね」
めぁはくすくす笑った。
「ほら こっちだと おうちが よく
みえぇぇぇぇぇ」 ズテンッ!!
後ろ歩きをしていためぁが転んだ…心配して駆け寄ったが怪我はなさそうだ。
「あはは へいき へいき」
どうやらめぁはよく転ぶようだ、これはボクが気を付けてあげないと。
気を取り直し後ろを振り返える。どーんと大きな屋根が一番に目に入る、壁や窓は新しく柱は古い、どっしりとした良いおうちだ。ここがめぁと一緒に住むおうち、そう考えると見ているだけでなんだかとてもうれしい気持ちになった。