三
「りゅーじんっ! 遊ぼ!」
「ぐっ」
美和が畑仕事をするのをぼんやりと眺めていた竜神の背に、不意打ちで二人のひっつき虫が覆いかぶさってきた。
「お前たちとは遊ばぬ。穴に落とされたこと、まだ忘れてはおらぬぞ」
憮然とした顔の竜神に、二人は「過ぎたことじゃん」と、まったく気にしてはいないようだ。長々と美和から説教を食らったはずなのに、まったく胆が据わった子供たちだ。
雄大と砂仁の後ろには、俯きがちの翔宇の姿。出会って五日が経ち、ようやく竜神の姿に慣れてきたらしい。視界に入るようになった。陽の下で見ると、肩で切りそろえられた黒髪が美しい少女だ。
「お前たち、少しは美和を手伝ったらどうだ」
竜神の両隣を元気よく飛び跳ねていた少年たちは、明るい笑い声を上げた。
「美和姉ちゃんみたいに、一日中働いてなんかいられないよ。腹が空くじゃん!」
「それに、姉ちゃんは働いてないと気が済まないんだ」
「どういう意味だ?」
二人は顔を見合わせると、声をそろえた。
『教えない!』
竜神は額を押さえて立ち上がる。
「人間とは、誠に面妖な生き物だ。特にお前たちのようにせわしない生き物は、理解不能だ。どけ」
竜神は畑のあぜ道を進む。裸足では痛いというと、美和が草鞋を用意してくれた。なるほど、これがあれば石の道でも痛くない。
美和は優しい。初めて見る竜神を家に泊めてくれ、何やかやと相手をしてくれる。そして働き者で、三人の子供たちと自分自身を養っている。常に動いているのが性分なのか、目を離すとどこかに行っていて、探し出すのが大変だ。
恋、というものはなかなか厄介なもののようで、美和とはなかなか意思の疎通を計れていない。
同胞は、「相手を前にした時、胸が締め付けられるように痛むのが恋だ」と言っていた。「それは人間にとっての病気、というものではないのか」と竜神が言うと、「恋とは病の一つなのさ。それも極上の」と返された。
病にかかることのない竜神は、せっかく人間の皮をかぶったのだから、一度病にかかってみたいと思った。おまけに恋とは、一瞬のうちに病になれるという。
ぜひ、とは思っていたが、まさかこんなに早く、とは思ってもみなかった。
昨日、落とし穴にはまって美和が顔を覗き込んできたとき、鼓動が跳ねた。美和がこれほど美しい娘だったか、と思わずその顔に見入ってしまった。下界に来て、人間を見た数は知れている。だが、村にいたどの人間よりも、美和は美しい。特に長いまつ毛に縁どられた、緑色の美しい瞳がいい。性格もいいし、困った顔など秀逸だ。
美和は「恋ではない」と言い張っていたが、これが恋でなければ、何だと言うのだ。……落とし穴にはまって、驚いたわけでは断じてない。あれしきのことで心を乱していては、神の威厳に関わる。まったく、微塵も、堪えなかった。ああ、そうだ。
ただし。ガキのしたことと一応許してやったが、次にやったら逆さ吊りにしてやるぞ、雄大、砂仁……とは思っている。
美和の姿を探すと、遠くの畑にその背が見えた。雑草を抜いているところだろう。
生き生きとした緑色の草は、可憐な花をつけているものもある。が、収穫を優先させるためには不要なものだ、と美和が教えてくれた。美和の速さには追いつかないが、今日の朝、竜神も少しだけ雑草抜きの手伝いをしたのだ。草で指を切って、あっという間に降参したが。
前に進むたびに吹く風が、心地よい。
「美和、我を山に案内せよ」
「……は?」
地面に膝をついたまま、美和は目を瞬かせて男を見上げた。竜神の後ろを金魚のフンよろしくくっついてきた少年たちは、竜神の着物の袖を引っ張って口々に言う。
「竜神、山なら俺たちが案内してやるよ!」
「そうだよ。アケビがたくさんなってるところに連れてってやるから!」
しかし、竜神はじろりと少年たちを睨みつけた。
「お前たちは美和の代わりをせよ。だいたい、いたずら者のお前たちのことだ。よからぬことでも考えているのだろう」
雄大も砂仁も、ばれたか、と舌を出す。竜神は美和に向き直った。
「美和は朝から晩まで働きすぎだ。今朝も夜が明けきらぬうちから縫物をしておっただろう。目が悪くなる。やめよ」
「そう言われても……私がしなきゃ、誰がするんです?」
美和は困ったように笑った。それは諦めているようにも、作り笑いのようにも見える。竜神は腕組みをして、少女を見下ろした。
「気晴らしが必要であると、我が判断したのだ。光栄に思い、お前は我の言うとおりにすればよい」
「はあ」
美和は手を叩いて土を落とすと、迷うように畑を見る。じろりと竜神が子供たちに視線を走らせた。雄大も砂仁も、顔を見合わせると、渋々「俺たちが引き受けます」と呟いた。
竜神は後ろを振り返る。
目があった翔宇は、慌てて地面にしゃがみこみ、雑草を引っこ抜く。竜神は怖いが、興味はあるのだろう。竜神は大股で翔宇に近づくと、その小さな体を肩に担ぎ上げた。翔宇は悲鳴を上げることもなく、ただ体を硬直させた。
「この者は静かだから傍にいてもよい。ほら、行くぞ、美和」
満足そうに手招きをした竜神に、美和はためらいがちに頷いた。
目に見える世界は少しずつ、夏から秋、秋から冬へと姿を変えていく。
少し前まで蝉が鳴いていたかと思えば、もう鈴虫の声がする。耳で、鼻で、目で、肌で、季節の変化を感じるのが、美和は嫌いではない。寒い冬を越すために、秋は蓄えなどの準備をしなければならないから、大変だけど。
美和の小屋からは見えないが、村の田んぼには秋になると、あちこちに曼珠沙華の赤い花が咲いていた。曼珠沙華には毒があるため、鼠や土竜などの害獣よけになる。見た目を嫌う村人もいるが、美和は美しいと思う。今頃は、見事に花を咲かせていることだろう。
森の中は、澄んだ空気で満たされていた。
草履をはいた足を踏み出すごとに、地面に広がる落ち葉の絨毯が、優しい音を立てて森の奥へと誘ってくれる。
「まだ目的地とやらには着かぬのか」
「すみません、疲れましたか?」
「つ、疲れてなどおらぬ!」
息を乱したその返事に、美和はこっそり笑ってしまった。
竜神の肩にかつがれた翔宇は、死人のようにゆらゆらと揺れている。子供の足では歩くことが困難な山道もあるので、担がれたままなのは問題ない。
が、実は失神してるのではないかと、美和が心配になりだした頃。
ようやく目的地に着いた。
その空間は、森の中にあって木が切られ、地面が平らにならされた土地だった。地面には緑色の苔が生え、中央に焚き火の跡がある。
「猟の時の休憩場所なんです。他にも、山菜を取りに来たりとか、隣の村へ行く途中の休憩にも使っています。私も小さい頃はよく遊びに来ていたんです」
人が十人も入ればいっぱいになってしまう場所だが、風の通りがよく、地面に映る木漏れ日の文様が美しい。
竜神はようやく翔宇を地面に降ろした。それまでほとんど動かなかった少女は途端に駆け出し、美和の背後に隠れた。そして、じっとりとした視線を竜神に向ける。美和がその背を優しく撫でた。
「翔宇、ここは初めて来たでしょう? 空気が澄んでて、気持ちがいいね」
少女は美和を見上げ、おずおずと頷いた。
一方、竜神は広場の中央にある丸太に腰をおろし、きょろきょろと周囲を見回している。
「ふむ、ここは気に入ったぞ」
「それはよかったです」
美和は微笑み、肩の力を抜いた。翔宇が気遣うように美和の顔を覗き込み、手を握る。その小さな手に自分の手を添え、美和は少女の目線まで腰を落とした。
「遊んでくるといいわ。木の実がたくさんなっているから」
翔宇はこくりと頷くと、林の中へ駆け出して行った。
「さて、聞かせてもらうぞ」
翔宇の姿が消えると、竜神は美和を見据えた。背筋の伸びた体は、ただ座っているだけなのに、堂々とした威厳がある。
「なんでしょう」
首を傾げて、美和は竜神の隣に座る。一日のうち、手を動かさない時間はほとんどない。よって、こうしてのんびり座っているのは、なんだか手持無沙汰だ。
「昨日、男が言っていたが、お前は村長の娘なのか」
「……そうです。十二歳からは、離れて暮らしてますけど」
小さな声で答えた美和に、竜神は眉根を寄せる。
「人の子は親に育てられるものと、我は聞いたぞ。なぜ、近くに親がいるのに、お前は一緒ではないのだ。雄大や砂仁や翔宇は、なぜお前と共に暮らしているのだ」
竜神は怪訝な顔で美和を見下ろした。
美和は少しの間目を伏せた。しかし結局は、説明するのに適切な言葉は思い浮かばず、諦めに近い気持ちで竜神を見つめる。
「……私の目は、黒くないでしょう?」
木々の間から差し込む光は、美和の顔を明るく照らす。竜神は目を瞬かせて、その色を答えた。
「鮮やかな若葉の色だな」
美和の笑みが深くなった。諦めたような、寂しげな笑みだ。
「私の母は、難破船に乗っていた海の向こうの人だったらしいです。今の領主様がお若い頃、まだ前領主様がご存命の時に、隣の荘園から貰い受け、村長である私の祖父に賜ったと聞いています。そして、祖父の息子である父と、母が結ばれて私が生まれました」
母がどんな人だったのかを、美和は知らない。美和が二つの時に亡くなったからだ。そして、村の誰も、母について話そうとはしないから。
「あなたの瞳も髪も、綺麗な黒い色です。でも私は。どんなに努力しても、この目の色を変えることはできません」
美和はぽっかりと空いた空を見上げた。青く、透き通るような色だ。
「父は母が亡くなると、村の女性を娶りました。そして弟が生まれたんです。小さい頃は一緒に遊んだりもしましたが、次第に疎遠になって……私は十二のときに今の小屋に連れて行かれました。村に出入りすることも、村の人が私に接触することも、村長から禁じられて。私は村に捨てられたんです」
淡々と言葉を紡ぐ美和の両手は、落ち着きなく着物の裾をいじっている。口角は上がっているけれど、笑顔に見えたかどうか自信はない。
「捨てられて、どんな気持ちだ?」
無神経な問いに、美和は無言で竜神を睨んだ。しかし、心底不思議そうな顔をしている男に、毒気が抜かれる。
「……言葉では上手く、表現できません」
竜神は「そういうものか」と頷く。「でも」と美和は呟いた。
「今は雄大や砂仁や翔宇がいるから、平気です。あの子たち、毎日何かしらやらかしてくれて、悩む暇も、嘆く暇も、与えてくれないんですから」
手に入らないものを想い、泣いて暮らすより、今あるものを大切にしたい。砂仁が来て、雄大が来て、そして翔宇が加わって、なおさらそう思うようになった。時折、腹の立つ子供たちだが、美和の心を明るくしてくれるのもまた、彼らなのだ。
「子供らの素性は、どうなっているのだ」
竜神が問う。美和は肩を竦めた。
「三人とも、山で迷っているところを拾いました。みんな、過去のことは話したがりません。どこかに帰りたいふうでもないので、きっと帰れない事情があるのでしょう」
「聞き出さないのか」
「聞いても、無力な私にはどうしようもないことだし。話したくなったら自分から話してくれるでしょう」
「なるほど」
竜神の感心したような声に、美和はくすりと笑った。
口減らしのために、親に捨てられる子供が珍しくない昨今だ。領主が好戦的な土地は働き手が少なく、食糧事情がひどく厳しいところもあるという。
今、美和が苦しいながらも暮らしていけるのは、争いを避ける領主のおかげだ。
「私は三人に救われています。ずっと一人だったら、きっと笑って生きることなんてできなかったから。お礼に、彼らの為にできることをしたいんです。流されて、現状があるわけではないのですよ」
やんちゃだけど、引くべき時を心得ている雄大。
反対に、引くべき時を間違える、いたずらが好きな砂仁。
無口な翔宇は、笑うと笑窪が出てとても可愛い。
生活は楽ではない。年貢が治められるようになったのも、ここ数年のことだ。子供たちは口には出さないけれど、常に腹を空かせている。魚を取ったり、木の実を取ったりして、夕餉に協力してくれることもある。
彼らが少しでも暮らしやすいように、いつまでも一緒に暮らすことができるように、美和にできることは、ただただ働くことくらいだ。
「あのガキ共が、美和は働かないと気が済まないと言っていたのは、このことか。単なるあやつらの甘えたがりではなかったのだな」
美和は腕組みをした竜神に顔を向けた。竜神は片眉を上げて、一人、納得している。美和は何と答えたものか、迷う。
竜神はしばらく黙った後、丸太から立ち上がった。今まで竜神が風よけになっていたのだろう。日陰で冷やされた風が直接体に当たり、急に肌寒さを感じた。
「そなたの目の色は、我の鱗の色ぞ」
背中を向けたまま、不意に竜神が呟いた。
「え……?」
美和は首を傾げた。竜神は続ける。
「我の本来の姿は、優美な竜の姿。その鱗は、川の底と同じ色。澄んだ場所でしか見られぬ鮮やかな緑色だ」
竜神は美和を振り返った。その表情は真剣で、冗談を言っている風ではない。陽の光を浴びて反射する黒髪が、ふわりと広がった。
「我と同じ色を持つ人間なら、冷静さを持て。お前がいなくなったら、たちまちあのガキ共は路頭に迷うだろう。あいつらを想うなら、まずは己を大事にしろ。指はぼろぼろで、目の下にはクマができているではないか」
ゆらゆらと、白と濃い灰色に彩られた地面が揺れる。木漏れ日という名のそれは、ひときわ強い風に煽られ、一斉に同じ方向へ揺れた。
「神である我にその目は、美しい色としか映らぬ。他がどう言おうと、我はそう思うぞ」
投げ出した手を、強く握る小さな手がある。
振り返ると、いつの間に戻ってきていたのか、翔宇が真面目な顔で美和を見上げていた。迷うように、何度か口を開け閉めした後、少女は大きく息を吸った。
「おねえちゃ、いつもありがと」
翔宇が珍しくしゃべった。それにも驚いたが、その言葉にも胸が熱くなった。
美和は翔宇の頬を両手で挟んだ。その頬はすべらかで柔らかい。額を突き合わせて、先に笑ったのはどちらが先だったか。
美和は竜神を見上げた。
普段は文句しか言わなくて、単純で変人で、どこかの村から追放された哀れな人と思っていたのに、急に反応に困ることを言う。
翔宇が竜神に走り寄った。そして、
「ん、なんだ」
差し出された右手に、竜神はてのひらを差し出して見せる。
翔宇の二倍はある大きな手に、ころん、と木の実が転がった。
「なんだこれは」
「どんぐり、あげる。おねえちゃ、すきで、ありがと」
つたない口調で言葉を紡ぐと、翔宇は美和の背中に隠れた。人見知りの翔宇の精一杯だ。
竜神は目を細め、口角を上げた。てのひらにのせられたどんぐりを、強く握りしめる。
「ああ。我は美和が大好きだぞ」
「だから、それは」
「我の心を疑うでない。我は立派な病持ちぞ」
「……あ、そうですか……」
美和の諦めたような呟きは、林の中を抜ける風がさらって行った。