【4 化学準備室】
藤森とは合わない。決めた矢先、里丘に興味を示し始める男がいた。
週明けの校内は気だるい空気が蔓延しているようだった。
昼食をとればさらに満腹感で眠くなる。
午後の授業の予鈴がなるのを聞いていながら、里丘は中庭をフラフラと歩いていた。
教室とは違う方向に覚束ない足取りで進んでいく。
時折立ち止まってはその場でゆらゆら揺れ、首がカクンと後ろに仰け反り慌てて頭を振ると、またもフラフラと歩を進める。
と、いう動きを繰り返していた。
―――なに、してるんだ?
そんな様子を2階の通路から見ている影が一つ。
窓の外を見つめて怪訝そうに首を捻っている。
「おい紀田、さっきからなにみてんだよ」
移動教室のため、クラスメイトと地学室へ向かっていた紀田の足が止まっている。
「どうした」と近づいてきた島井が紀田の視線の先を一緒になって見た。
「おっ、里丘じゃん、五限目始まるのにどこいく気だ?」
本人無自覚なのだが、里丘は目に付く。なんといってもやはり、腰まである長い髪は一度見たらそう忘れるものではない。
「これ、頼む」
差し出したのは地学の勉強道具一式。有無を言わさず島井に預けると踵を返し走り去る。
「えっ、どこいくんだよ」
後ろから島井の呼ぶ声が響いている。
「気っ持ちいー」
そこには、ようやく目的地にたどり着いた里丘の姿があった。
理科棟化学室には実験台が9台。
表面を黒く加工されたテーブルが、動かないよう床に固定されている。
加工された台は冷たく、頬を押し当てるとその冷たさが心地よい。
五限開始のチャイムが鳴る。
化学室左奥の一番端の席にいる里丘は、一向に起き上がる気配をみせない。
この時間はサボると決めているらしい。
zzz
「まずい。…六限目がはじまるな」
「zzz」
五限終了のチャイムの音にまだ頭が重いがなんとか起きようと努力してみる。横から聞こえる規則正しい寝息が再び里丘を眠りにいざなう。
―――寝息?
聞こえてきた寝息につられそちらをみると、里丘同様寝こけている学生服の男がいる。
「んあ?」
ぼんやりとした思考でパチパチと目を瞬かせる。
授業が始まるまで一人だったとおもうけれど、隣にいるということは当然彼もサボりだろうと理解する。
「おーい、授業始まるよー」
肩を揺さぶられ、頭を持ち上げるとこちらも寝惚け眼で辺りを伺う。
「おはよう」
昼間にする挨拶じゃない。
「授業始まるよ」
弾かれたように立ち上がる紀田に欠伸を噛み殺し里丘が言う。
「や、」
「や?」
あせあせと辺りを見回していた紀田が、状況を把握したのか、またも椅子に掛けると、
「…チャイムなった?」
聞いてくる。
「まだ、五限終了のは鳴ったけど。六限受ける気ならはやく戻ったほうがいいよ」
「里丘は?」
「私はいいの、サボリ」
化学準備室に男が一人。
名を松宮双葉という。
白衣に身を包み、机に向かって授業の準備をしている。教諭暦一年、駆け出しの教師だ。
昨年大学を卒業したてで教職にありつけたのは運がいい。
それ以前に彼自身が勉強家で努力の人だということも忘れてはならない。
松宮には2才年下の幼馴染がいる。
名前を里丘享日。
朋日とは五つ違いの兄だ。
歩いて1分もかからない近所に住んでいるのだから子供の頃はよく里丘兄弟とも遊んでいた。
朋日が中学にあがる頃には里丘家の人間は揃って海外と日本を行き来していたので近所といえど顔を合わせる機会も減りはしたが、親同士の仲もいいので帰国するたびに家同士で付き合いがある。
現在でも、享日は帰ってくる度に必ず松宮に連絡をいれている。
眠気覚ましにと入れておいたコーヒーメーカーのスイッチがカチリと音をたてて切れた。
このコーヒー豆も享日からのおみやげである。好みを熟知しているせいか享日のみやげにはハズレがない。香りを楽しみながらカップに注ぐ。
バンッ
準備室の扉が前触れもなく開いた。
「松ちゃーん、コーヒーちょうだい」
無遠慮にズカズカと部屋に踏み込んできた朋日に、あやうくこぼすところだったコーヒーを机に置く。
「こらっ、先生と呼びなさい。授業はどうした? またさぼりか」
「いいのいいの、どうせ英語だし、今日は小テストの答え合わせだから、出てもでなくても一緒」
朋日のセリフに松宮がこめかみを抑える。頭が痛い。
「おーまーえーはー、性格まで亨日に似てきたな」
「兄貴の背中見て育ったからねー」
「威張るな」
諦めモードの松宮はさておき。朋日が催促する。
「それより、コーヒー二っつ」
「はー、暖簾に腕押し、朋日の耳に念仏だな」
「まーまー」
「ん、二つ?」
「連れがいるのだ。おーい、こっちきなよ」
がくーん、と音がしそうな勢いで松宮の首が垂れる。
「しくしく、どうして俺が生徒にコーヒーをふるまわねばならんのだ」
いいながらも甲斐甲斐しくカップを二つ棚から取り出す。差し出されたのは松宮の好みでアメリカン。
「いーじゃん」
「良くない!」
キッと睨み付けるのを朋日は片方の肩を軽く上げていなした。
「すみません」
朋日の隣では殊勝にも紀田が頭を下げている。
「他のクラスの子まで巻き込んじゃダメだってあれほどいったのに」
しかし松宮の叱責は里丘にのみ向けられている。当の本人は至って呑気である。
「暗〜い過去があるんだもんね、松ちゃん」
「そうだよ! 俺がお前の兄貴に巻き込まれてどれほど迷惑したことか! ぐわー、数えきれん程のこの恨みつらみどうしてはれよう!?」
お世辞にも素行が良いとはいえなかった享日の面倒をみてきたからこその松宮のセリフだが。
「知らん」
一蹴。
そっぽを向いてカップを口に運び、何事もなかったかのようにコーヒーを飲む朋日に、松宮が激昂した状態でぱくぱくと言葉をさがすが限界が来たようだ。
「……ふー」
青ざめてパタリと倒れてしまう。
「せ、先生」
「大丈夫大丈夫、ほっとけばそのうち息吹き替えすから」
慌てて紀田が助け起こすが、朋日は無情にも言い放った。
「お前なー、たまには本気で授業受けなさい。成績悪くはないんだから」
おろおろと準備室備え付けの冷蔵庫から「ひえぴた」を発見した紀田に、松宮はあてがわれたそれを額に張り付けこめかみを押さえながら説いている。
「わかってるよー」
口を尖らせ拗ねる朋日に首を捻る。
「元気か?」
付き合いの長さがものをいう。
松宮は決して鈍くはない。いつもとは違う朋日の機微を松宮は敏感に察していた。
「ふっ、朋日はいまやさぐれているのだよ、松ちゃん」
視線を落とし、ふぃ〜と溜め息つく朋日の頭をぽんと叩く。
「明日はちゃんと授業に出るんだよ」
「へーい」
途端、にやっと笑い返事する。ゲンキン。
「ごめんねー、なんだか結局サボらせたみたいで」
朋日は紀田と連れ立って教室へと戻っていた。
LHRも既に終わっているだろうが、荷物は取りに戻らなければならない。
さほど悪いとも思ってなさそうな言いっぷりに、紀田が苦笑を浮かべる。
「いや、俺は」
「里丘!」
突如、空から降ってきた声に仰ぎ見れば二階の渡りから身を乗り出し藤森が手を振っている。
「あ〜、藤森。息急切ってどうした?」
「どこいってたんだよ、探したんだぞ。俺、これから飯田と会うんだ」
「とうとうその気になったのか。頑張れよ」
「サンキュー」
時間が迫っているのか言うだけ言って慌しく去っていく。
去っていく後姿を見送る朋日に紀田が訊いてくる。
「あいつと付き合ってんの?」
紀田を見て、溜め息を一つ。もう幾度目かもわからないほど溜め息をついている気がする。
「は〜、違うよ。ただの友達」
「付き合って、ないのか?」
「藤森はねー、いい男なんだよ。一見軽薄そうにみえて中身は(意外と)しっかりしてるし。顔も女受けすると思うし、面白い。でも、本当にただの友達。第一、今あいつ何しに行ったと思う?」
「さあ」
「好きな子に告白しにいったの。どうしてみんなそう勝手に事実を曲げたがるのか不思議だよ。…たまんないね」
朋日の横顔には色濃く疲れの色がみえていた。