【12 最後の日】
出会いがあるから、別れがある。それは突然にやってきた。
「お世話になりました」
朋日の謹慎が解けるその日、藤森は日直だった。
それは、運命の神様からのちょっとしたプレゼントだったのかもしれない。そう思えるような偶然。
朝のSHRで配られたアンケート調査のプリントを集め、職員室へと持ってきた藤森は目を瞠るような光景に出くわした。
職員室から出てきた少女はライダースーツに身を包み、腰まであろうかという長い髪が乱れるのも気にせず深々と頭を下げている。
その髪は見事なまでの金色。
交換留学生が学年に一人はいるし、街には驚くほど異国の人間が溢れている。外国人が珍しいというわけではないが、目の前で外国人特有の訛りもない綺麗な日本語で、丁寧にお辞儀をしている外国人、というのは目を瞠るものがある。
なにより、声に覚えがあった。
ぱっと頭を上げた顔の造作は見違えようがない。
くるっと向きを変えた少女とばっちり目が合った。
瞳の色まで、見知ったそれとは違う。
真っ青な空をそのまま切り取ってはめ込んだように晴れやかなブルーの瞳は、色を変えても意志の強さが窺える。なによりも、彼女のいまの気持ちを素直に表わしているようだった。
その瞳を、自分はよく知っている。
破顔一笑。
惜しげもなくこぼれんばかりの笑顔で少女は藤森に笑いかけてくる。その笑みは人に向けられるものの中でも、特に親しい人間にむけられる笑顔だった。
はっと我にかえる。
「里丘!?」
藤森の口から叫びにも似た驚愕の声があがる。
「藤森。会えるとは思わなかった」
少女は近づいてくるといっそ清々しいまでの笑顔で話し掛けてくる。もしかして他人の空似? などという疑いを挟む隙もない、間違いなく朋日だ。呆気に取られて藤森が呆然とみつめる。
「どうしたんだよ、…その髪、目も」
藤森が言うのに、朋日はついっと頬にかかる金色の髪を見やって人房摘み上げる。
「自前だよ」
いまは青い瞳に、悪戯っぽい色を浮かべている。
「ほら。私ね、帰るんだ。自分の在るべき場所に。そのために今、辞めてきた」
あっさり告げられた言葉に息を飲む。
「辞めた、って」
戸惑う藤森に、はにかむような少し困ったカンジの笑いが朋日からもれる。
「お別れだ」
朋日の言葉に、意味を成さなかった言葉がつながっていく。
『時期的には良かった』
『ここは私の国じゃない、この国を故郷だなんて思えない』
『今更学生なんて』
『帰る場所はあそこにしかない』
まさか、こんな結末が待っているとは予想だにしなかった。
言葉が、声が出ない。
何を言えばいい?
謝罪の言葉?
そんなもの彼女は求めていない。怒っているわけでもないのに、謝られても彼女はそんなもの受け取らない。
別れの挨拶?
急すぎて、実感できてさえいないのに、笑ってバイバイなんて言えるはずがない。
どうして辞めるのか、問い質す?
それはもう知っている。多分。
漠然とにすぎないが、彼女がココを必要としていないことはわかったつもりだ。
決して逃げ出すわけじゃないことも。
女子生徒らとのいざこざも、彼女にしてみれば「面倒事」の一言で済むような些細な問題でしかないことも。
引きとめることは、出来ない。
なにか言おうとして、言葉が別の想いに押し流される。どれも正しいようで、どれも違う。
藤森の葛藤を察した朋日が藤森の胸にとん、と軽く拳をあてた。驚いて朋日を見ると、泣き笑いのような表情で藤森を見ていた。
その瞳に映る自分は、今にも泣き出しそうな情けない顔になっていた。
「なんて顔してんの。朋日様のさいっこーの門出にケチつけんじゃねーよ」
ニヤリと口角を上げ、いつもと変わらぬ朋日の物言いに、藤森の頬が弛む。
彼女は決めたのだ。
ココを出て行くことを。
前進することを。
彼女にとってここはもう過去のことだと、わりきって。
「じゃぁね」
とびっきりの笑顔で手を振ると、振り返りもせず学校を後にした。
校内では午前の授業が始まろうとしていた。
一限目の教師が来るまでの時間を、生徒たちは面々に過ごしていた。
教室の中の大多数が、ふいに上を見上げた。
「上の教室、騒がしくないか」
突如、上階から聞こえてきたどよめきに驚いたのだ。窓際に居た生徒たちは開いた窓から飛び込んでくる上の教室からの驚愕の声を、かなりの大音量で聞くこととなった。
次第に真上の階の騒ぎがそのまま隣の教室に伝染したかのように拡がっていく。
数人がベランダに出て上を見てみると、上の階のベランダから何本もの腕がどこかを目掛けて指差している。自分達の教室の上だけじゃない。見る限り上階の全ての教室のベランダから腕が出ている。
UFOか? と体を逸らして空を眺めても何も無い。
もう一度指差す先を確認すると、それはどうやら校門の方をさしているらしい。
振り返ってそれをみた生徒たちは「…うそだろ」「マジ…かよ」「ホントに!」「本物!?」と口々に驚愕と疑念の言葉をのぼらせた。
上の階でも全く同様の騒ぎが起こっていた。
呼応するかのようにそれは漣の如く、上の階から下の階へと広がっていく。
「外、見てみろよ」
「うわっ、ど派手!」
「SATOKAのマシンだ!」
興奮気味にベランダから身を乗り出した生徒の横では、呆然とその光景を見下ろす生徒もいる。
「SATOKAだ……」
「わかってるよ」
みたらわかると興奮気味な生徒が言えば、呆然としていた生徒が憤然と言い返す。
「違うって! みろよあのマシン、車体に走るゴールドとブルーのライン! 女神の絵! SATOKAの文字!」
「だから、SATOKAだろ」
勢いに気圧されるように確認してくる男に、今度は呆然としていた生徒のほうが興奮気味に返した。
「お前が言ってるのは車の方だろ! その隣をちゃんと見ろって、あれってほら、去年バイクの世界レースで優勝して突然姿消したっていう。…あれじゃないのか!?」
言われた生徒が車の横のバイクに目を向ける。
遠目でよくは見えないが、白いボディにラインが二本、そして、カウリングにはチームマークである女神が描かれている。
「SATOKA? あの!?」
「そうだよ!」
「まさか?」
苦笑をはらんだ顔からぎこちなく笑みが抜け落ちていく。
「本物じゃないだろ、いくらなんでも」
力なく呟き声になるそれには、こんなところにいるわけないだろ、という想いが含まれていた。
「チャンプだぞ、世界タイトル持ってるSATOKAのマシン…な、わけない…じゃん?」
しかし、見れば見るほどそんな気がしてくる。
昨年の暮れ、何度も見た映像を思い浮かべる。
確かに、白いボディに特徴的なラインが二本、チームを象徴する女神のマークは記憶の中の映像と同じ様な気がする。
「SATOKAの本物のレーサーがいんのに、あのバイクだけ偽物? その方が変じゃねー!?」
バイクと同じペイントの施された車の横に立つ男の姿を、食い入るように見つめる。
ゴクリと喉が鳴った。
髪は全体的に金髪だが、部分的に黒いメッシュが入った男。色の濃いサングラスを掛けているので顔までは見えないが、ファンならすぐに気付くその容姿。いや、ファンでなくとも誰もが一度は目にしたことがあるはずだ。
瞳に浮かぶのは、憧れと羨望。
そう、少年ならば一度は見たことがある夢を実現してのけた男だ。
世界で20人という狭き門をくぐり、一握りの人間だけに許された栄誉を手にした男。
ざわめきは収まるどころか、一層の騒ぎを巻き起こしていた。
「そういや、いま…停学になってる女子、いたよな」
「ああ、里丘だろ」
「…名前、…なんだっけ」
「確か、里丘……朋日…」
訊いた生徒と訊かれた生徒が弾かれたように顔を見合わせる。
その表情はあっと驚きに染まった。
そしてまた、窓の外に目を向ける。
「あの人は!?」
「里丘亨日! …ウソだろ」
その時、校舎のほうから現われた人影に、全生徒の目が奪われることとなった。
長い金髪を風になびかせ、颯爽と校門に向かって真っ直ぐに歩いていく。
里丘朋日、その人だ。
チームSATOKAのメインレーサー。
何度も見ていたはずの文字『TOMOKA SATOOKA』。
昨年のバイク界での大事件だった。
当時、弱冠十五歳の少女が世界レースの優勝者となったニュースは世界を駆け巡った。
並みいる強豪を圧倒してのレース運びに、世界の評論家達も惜しみない賞賛を送った。メディアが放っておくわけがなく、日本でも大々的に報道された。
ただし、未成年であることを理由に、私生活が報道されることは無かった。
その彼女が、まさか自分達の学校で、共に学生生活を送っていたとは誰も夢にも思わなかったわけである。
「享兄、…やりすぎ」
「だ〜いじょうぶ。俺のほうはペイントだけだから」
そういう問題じゃないだろ。
グッと親指を突き出してニッと笑う享日に朋日が肩をすくめて苦笑する。
後ろを振り返るのが怖い。先ほどからの大騒ぎがこの二人に聞こえていないはずが無いわけで。
特に享日のほうはそれを楽しんでいる節があるから、手におえない。
「帰るか」
「うん、帰ろう!」
空は青く晴れ渡り、秋風が優しく二人を送り出した。