ソニピア
ソニアとピアのお話です
ヴェルガ国の裏社会で名を馳せているモーテンセン家。
密輸、賭博、売春、殺しなどで組織を拡大し、今や暗黒街でその名を恐れない者はなかった。
大都市にある高級ホテルを住まい兼事務所とする一方で、街外れには広大な敷地の中に建つ豪邸も有していた。
風に春の匂いが混じり始めた、ある夜のことであった。
ボスであるヴィゴ・モーテンセンの実子、ヨセフ・モーテンセンは酒の匂いを漂わせて豪邸へ帰ってきた。
夜半過ぎに帰宅したヨセフを出迎えた執事とメイドは状況に少々困惑した。
高級車で出かけたはずのヨセフはタクシーで戻ってきた。酔いが回っているのか、青白いはずの顔は熟れた林檎のように赤い。フラフラとした足取りでタクシーを降りると、懐から出した紙幣を運転手に投げつけた。
「俺を見るんじゃない! 不愉快な奴だ!」
と、こめかみに静脈を浮き立たせて怒鳴り声をあげる。
甘やかされて育った故かヨセフは癇癖持ちで、たびたび理屈に合わない激怒を示す。理不尽な手打ちに合った使用人も多くいた。
ヨセフはそのままタクシーのトランクを開け、中から何かを引っ張り出した。
それを見た使用人達はいよいよ目を丸くした。
「降りろ!」
「いっ、いたい」
ヨセフに髪を掴み上げられて出てきたのは黒髪の少女であった。
褐色の肌でぼろきれ一枚を身に纏っている。
その容姿から奴隷であると見て取れた。
まだ十歳ほどに見える少女は細い足をがくがくと震えさせ、瞳に涙を溜めながら小さな唇を噛みしめていた。
「っひ、ひぅう、っふぅ」
「おい泣くな!」
背中を蹴られた少女は勢いそのままに、地に叩き付けられた。
舌打ちをしたヨセフは執事の一人に大まかな事情を説明した。
酒の席で賭けをしたら大損した。車は取られたが、一人の奴隷は手に入れた。奴隷と同じ車に乗るなどあり得なかったので、トランクに詰めておいた。ということである。
「こいつと車を交換した、どちくしょおめがっ、割に合わねえ。明日からこき使ってやれ、休む暇なんて与えるなよ? もし死んだらその辺に捨てとけ」
モーテンセンの豪邸で奴隷となったのは、ピア・フローリオという十一歳の少女であった。
元はヴェルガ近辺の国、シャシールの住人である。シャシール人は褐色の肌と大きな瞳が特徴の朗らかな民族であるが、白い肌を持つ一部の人々からは差別的な目で見られていた。
例えば、外で遊んでいたシャシール人の少女を攫い、それを奴隷として売りさばくヴェルガ人がいても誰も気にかけず、咎めもないのである。
ピアがモーテンセン邸に来て一年が経っていた。
メイド服を身に纏ったピアは今日もバケツと雑巾を持って、ヨセフの部屋を綺麗に磨き上げる。
床とガラスを拭き終え、本棚の埃を払おうと踏み台に乗った時である。はたき棒を動かしていたら、肘の先が戸棚に置いてあった花瓶にトンと触れた。花瓶はぐらりと傾いて床に落ちかける。
「あっ・・・・・・!」
慌てて花瓶を支えたので落ちることはなかったが、中に入っていた水が零れた。磨いたばかりの床が水浸しになってしまった。
「――よかった」
しかしピアは心底安堵したように息を吐く。
ただでさえヨセフは褐色肌の人間を嫌う傾向があった。その上、ピアの顔を見ると賭け事で大損した夜を思い出すようで、理不尽な暴力を振るうことがあるのだ。それを知る使用人たちも、もらい火を恐れてピアを助けようとはしなかった。
できるだけヨセフには見られず、関わらないようにしないと命に関わる。ピアは床に跪き、雑巾で濡れたところを拭きながら思う。常に注意を怠らないようにしなければならない、この掃除はそのための戒めだ。
邸内の掃除を終え、ゴミを捨てて使用人専用の食堂へ足を向ける。
ピアが部屋に入ると、メイドたちの談笑の声が消える。重苦しい沈黙の中、ピアは自分の分の皿を手にして食堂を後にした。
皿には小さなパンと、味の薄いスープがカップにあるだけであった。「あの奴隷にヴェルガの使用人と同じ飯を与えるな」というヨセフの指示である。
ピアは裏口から外に出て、縁石に腰かけてパンをかじる。そうして持参した本を読み始めた。ページをめくる指は水仕事のせいでできた赤切れが目立つ。十分でない食事のせいで、モキュモキュと動く頬もこけ気味であった。
裏庭で日向ぼっこをしていた猫がひょこひょこ寄ってきて、ピアの足に体を寄せ付ける。反応してくれない少女に、猫は寂しそうな声を出す。それでも一心不乱に本を読み続けている。
猫は肉球をピアの膝の上に乗せ、何事かと鼻を本に近づけた。
「あ、駄目です」
ピアは優しく猫の頭を撫でてやる。
「お勉強してるんです。色んなお医者様の本を読んで、身を立てられるようになったらここを出て行きます。ヨセフ様は国立病院の試験に合格できれば、私を解放してくれると約束してくれました」
いつかヨセフがひどく上機嫌だった日のこと。彼は興味本位でピアの出生を尋ねたことがある。
ピアはシャシールで名医と呼ばれた父と母の間に生まれた子であった。それを正直に告げると、ヨセフは楽しげに笑った。
『それでお前は奴隷か! 屑みたいな奴だな、母ちゃんが今のお前の有様をしったら泣くだろうよ』
かあっと肩のあたりが熱を帯びた。
好きでこんな場所にいるわけではない。シャシール国で通っていた学校から帰る途中、突然ヴェルガ人達に攫われたのだ。
『お前はここだとゴミ以下の存在だからな』
何人かの使用人がつられて失笑している。
心がざらざらになると同時に泣きそうになった。そんな時――
『悔しかったら医者になってみろ、そしたらここから出てっていいぞ。そうだなぁ・・・・・・国立病院の試験を受けてみろよ、金は出してやるから』
そう言って、確かに約束してくれた。
国立病院の試験に受かるなどほんの一握り。しかし、自由になるチャンスを与えられた。何としてもこの試験に合格し、この国を出て両親に会いに行きたかった。
・・・・・・・・・・
ヴェルガ国騎士団にはメルリスと呼ばれる者達がいる。
メルリスとはヴェルガ国の自由と正義の守護者達をさす。ヴェルガ国騎士団の中でも特に抜きんでた才ある者のみで結成された集団である。
そのメルリスの中でも、異彩を放つ者がいた。
「それまで!」
弾かれた木剣が修練場の床に落ちる音と、騎士団長の声が響き渡ったのは同時であった。
吹き飛ばされたのは齢二十くらいの、凛々しい顔つきをした女騎士である。悔しさに歯を噛みしめた表情は、未だ戦闘意欲を強く宿していた。女騎士が勝負はこれから、と言わんばかりに落ちた木剣を拾い上げようとした時、
「それまでと言った」
騎士団長の熱を帯びた声が再び響いた。
ゆったりとした緊迫の時間が流れたが、やがて女騎士はくぅ、と一声だけ呻くように漏らし、「まいった」と呟いた。
無念を歯噛みしている女騎士を見下ろしているのは、赤髪の女騎士である。
細身でありながらも、すらりと伸びた手足は女性特有の奥ゆかしさを思わせる。赤い髪の下には、翡翠色に輝く双眸。剣士には似つかわしくない白い肌と、人懐こい微笑み。天界の住人であるかのような美しさを持つこの騎士。木剣を手にしている今は、その立ち姿には何人も寄せ付けぬという力強さをも感じさせた。美しさと強さを併せ持つその姿は、まさに伝説の戦女神そのものであった。
彼女が構えを解いて木剣を引っ込めると、その動作に応じて背にあった赤髪がふわりと舞った。
「いい勝負だったね、大丈夫?」
赤髪の騎士は倒れ伏した相手に言葉をかけ、手を差し伸べる。しかし、相手は鋭い一瞥をくれるだけだった。
パシン、という音が響く。
差し伸べた手を思い切り叩かれた。
「あなた手加減してたわね・・・・・・私とは本気で立ち会うこともしないのね。この屈辱は忘れないわ」
相手は静かに、けれど荒々しい足取りで修練場を出ていってしまった。
「敗者に情けをかけるでない」
騎士団長が苦々し気に言う。
「情けなんて、私そんなつもりじゃ」
赤髪の騎士はしょんぼりと肩を落とした。
「あの相手で今日は十五連勝か――もうお前に勝負を仕掛けるものはおらんのソニア」
「・・・・・・」
「だからといって傲慢になるなよ? 鍛錬を怠るな」
騎士団長はそう言って去っていった。
修練場は火が消えたように静まり返った。そうすると先刻までは気づけなかった音が聞こえてくる。流れる風が木々の葉を揺らす音、鳥の囀り、洗濯場で水が跳ねる音。それらがやけに大きく聞こえる。
一人になってしまった。
後に残った赤髪の騎士は、木剣を握る手に力を込める。
胸の淵に、ある種の猛りが浮かぶ。それはひどく不快な場所でくすぶる焔のようなものであった。足の指をぎゅっと丸めて、ため息をついた。
このソニア・エルフォードと呼ばれる騎士は極めて特異性を秘めた者である。
かの者いわく、太古に滅んだエルフの魂を継ぐ者。
エルフとは美と創作の神、世界の恩恵を受け、あらゆる生命の中で優れた資質を持つ者達。触れただけで万物の構成を見透かし、ありとあらゆる分野において才能を発揮したという光の種族である。
ソニアが三歳の時、ヴェルガ国随一の建築家でありパズル作家でもある男がスクエアキューブというものを作った。作った本人ですら完成させるのが難しいと言われたそれを、ソニアはものの四十秒で組み上げた。
六歳の時、難関大学の学生でも解くのが困難と言われる空気力学の方程式を解いた。
十歳の時は追剥をしていた強盗二人組に挑み、これを打ち負かした。
天才と呼ばれた少女も、今年で十九歳。ヴェルガ国騎士団のメルリスに在籍していた。
修練場で汗を流したソニアは、シャワールームに向かった。
熱いお湯が舞い落ちて肌に触れる度、水のことが手に取るようにわかる。
どんなものでも一度手にすれば構造が頭に流れ込んでくる。川が流れるのも、お日様の光で麦が育つのも全部、構造があるんだ。私にはそれがわかる。自然が創り出すものに比べれば、人が作り出すものの構造など簡単に読み解ける。
「はあぁぁぁ~」
長い溜息が出た。
皆が喜んでくれるのが嬉しくて、誰かの役に立ちたくてメルリスとなったはずである。
しかし、周囲の人間はどこか自分を疎んじている節がある。
親しい人を作ろうとしても、皆の輪には加われず、露骨に避けられることもある。未だ友達が一人もいないこのヴェルガの城で、居場所はどこにもないように思われた。
思えば才能を発揮するたびに、親しい人は自分の元から去っていったような気がする。
私、一人ぼっちだ。




