第六章
第二部
男が宣言をした後、普段の喧騒からは想像できない静けさが広がる。
しかしその静寂は一瞬だった。
どこからか声が上がる。
誰かの一声を皮切りに、あらゆるところから聞こえ出す悲鳴。何という言葉にしていいのか分からないような、人から出てくる様々な音。
多くの人、それよりさらに多くの人工知能。その全てが無秩序に混ざっていく。
人工知能が人を襲いだす。逃げ回る人。人工知能に捕まって襲われる人。それを助けようとする人。
何が何だかもう分からなかった。
それに加えて後ろから急な爆発が起こる。
「うそ……だろ?」
目の前の光景。後ろで燃え上がる駅。つい三十分前までは日常だっただろう世界が、完全に壊れてしまった。
前を見ても後ろを見ても地獄。その中で立ち尽くす。
だがそこで自分以外に守らなければいけない人がいるのを思いだして我に返る。
「有理! 大丈夫か?」
何がどう大丈夫なのか、そんなことを聞く余裕もなく、聞きたいわけでもなく、まず隣の女の子に声をかけて、自分を落ち着かせるきっかけにしようと思った。
「え…、しん、しゅ? うそ」
鞄を落とし、顔を真っ青にして何かをつぶやいている。手を取り、目を見てもう一度声をかける。
「有理! まず落ち着こう! な?」
自分も全く落ち着いてないのによく言えるなと心の中で自虐。だが明らかに今の有理の様子は危険だった。
「やだ……はやく、はやくお母さんの所に行かなきゃ!」
俺の手を払いのけて、地獄と化した街へ走り出す有理。
「有理! 待った!」
俺もすぐに追いかける。おそらく母親のことが心配で家に向かっているのだろうが、危なすぎる。心配するのも、じっとしていられないのも当たり前のことだとは思うが、今考えもなしに動くのは自殺行為だ。
そして、速い。危機的状況であるためか、普段は俺のほうが足は速いはずなのに追いつくことができない。
「頼む有理、少し止まってくれ!」
一人で突っ込むのは危険すぎる。俺が先を行きたいのに、聞こえているのか聞こえていないのか有理は返事をしない。
駅前の人が多い道を人工知能を避けながら駆けていき、住宅街に入る。
普段静かな場所なのに、時折悲鳴が聞こえたり、大きな物音が鳴ったり異様な雰囲気になっていた。
「くそっ」
異常事態への不安、恐れ。そういうものが俺を襲う。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い……。
「いったい、なにがどうなってんだよ」
何を言っても仕方ないが、それでも漏らしてしまう言葉を抑えられなかった。
前を走る有理を見て、それを全力で追いかけ続けている自分にも気づく。自分はこんなに走り続けられるほどに持久力があったのだろうか。
そう思ってしまった瞬間に体が重くなりはじめる。
それでも有理もさすがに疲れてきたのか、かなり距離が詰まってきていた。もう少しで追いつくというところで、先にゴールへ辿り着く。
「お母さん? いるよね? 開けて! お母さん! お母さんってば!」
ドアを叩きながら叫ぶ様子が、あまりに必死で胸が締め付けられる。
返事を待つのを諦めてドアを開けようとするが、鍵がかかっているようだ。
「有理、鍵は持ってるのか?」
「えっ? あっ鞄の中だ」
「くそっ。駅ってことか」
他に家に入れる場所がないのかざっと見渡す。窓を割れば入れないこともなさそうだった。
「仕方ない。窓割って入るぞ!」
「分かった!」
ドアから少し離れ窓のほうに近づく。カーテンがしまっていて中は見えない。
ただ明かりは漏れている。家に誰かいることは確かだ。
「非常事態だから許してくれるだろう」
教科書や部活着でなかなかの重量を持つバッグを、窓に向けて振りかぶる。
その時ドアのほうからガチャっと音がした。
「えっ?」
俺たちの視線は自然とドアへ。
ゆっくりとドアが開く。
「なんだ?」
警戒していると中から人が出てきた。
「お母さん!」
有理のお母さんだったようだ。無事で良かったと息を吐きだす。
いまにも泣きそうな顔をしながら有理は母のもとに駆け寄っていく。
「お母さん……よかっ」
しかし有理の言葉は言い切られることはなかった。
有理の母は体を支えるものがないかのように、有理の目の前で倒れていく。
「えっ……?」
俺たちから見えるようになった後頭部からは、一目で手遅れと分かってしまうほどの血が流れ出していた。
死。
強烈にその一文字が頭によぎる。
「うそ……だよね? お母さん?」
有理の崩れ落ちる。膝をつき、お母さんの体に触れた。
「ねえ。うそでしょ。何してるのお母さん? 早く起きてよ」
何度も何度も揺らす。しかし反応は無い。彼女に返ってくる言葉も、わずかの動きすらない。
「うあーーーーーーーーーーー」
有理が叫ぶ声を聞きながら俺はどうすることもできなかった。
ただ立ち尽くしてしまう。
こんなことが現実にあっていいのだろうか。
現実を見たくない、これは現実ではないという思考が俺を硬直させる。
だがそれでも、ドアからはみ出した光るものを見て咄嗟に体が動いた。
「有理!」
走ってドアに近寄り、有理を胸に抱えてその勢いで転がる。先ほどまで有理がいた場所にはバットがあった。その先は少しへこんでいて、赤い液体が垂れ落ちている。バットの持ち主は人工知能。メイド服にバットというだけですでにミスマッチであるのに、更に返り血で汚れた顔は感情のない瞳と合わさり、ひどく恐ろしかった。
「有理、平気か?」
声をかけるが、胸の中で震えるだけで返事はない。人工知能のほうを見ると、こちらを見つめていた。
バットを引きずり、ゆっくりと近づいてくる。
「ちょっと待っててくれ」
有理を胸から離して座らせる。立ち上がってゆっくりと近づいてくる敵と向かい合うと体が震え出す。
いつもの何倍も体が重く感じる。
「頼む。動いてくれ……」
一瞬有理の方に目を向ける。震えて自分で動ける状態ではない彼女を見て、自分が守るんだと弱い心に鞭を打つ。
誰かのためにと思うと体が少し軽くなった。
「……まず有理から離さなきゃな」
俺が覚悟を決めた途端、ゆっくり歩いていた敵はバットを振り上げて走り出す。
「ちっ」
避けたら有理に敵が近づいてしまう。そうすると俺の選択肢は一つしかなかった。
「おらぁー」
陸上のおかげで瞬発力には自信のある俺の突進は、いろんな意味で相手には予想外だったらしい。
バットを急いで振り下ろそうとするが遅い。その前に相手の体を掴み、勢いのままに倒す。
「うっ」
初めて声を漏らす人工知能。俺の拘束から逃れようと殴ったりもがいたりするが、俺は離さない。殴られるのも気にせずに何とか片手を自由にし、密着しているためあまり威力は出ないけれど、顎にアッパーを食らわせる。
「うごっ」
痛みでひるむ相手から咄嗟に離れる。
思いのほか効いている様子の人工知能を見て、その用途によって構造が変わり、メイドなどの家庭用はかなり体が脆くて、戦闘には全く向いていなかったことを思い出す。
なかなか立ち上がれないメイドに近づいていき、思い切り顔を蹴りとばすと、ぶちっといやな音がしてそのままあるべき場所から離れていく。
「はぁはぁ……」
普段なら決して出るはずのない汗と、変な息切れを同時に体験する。
息を切らしながら人工知能の様子を確認すると、首から何か液体が出ているが、特に動くような様子はない。見ていて気持ちのいいものではなく、すぐ顔をそらす。
「あっ」
体の力が抜けそうになる。勝ったとはいえ一歩間違えば死ぬところだったのだ。
まだ倒れることはできないと自分に言い聞かせ、有理に近づいていく。
「有理」
返事がない。もう一度声をかける。
「有理」
消え入りそうな声で返事が返ってくる。
「……もういいから」
「何がだよ」
「全部!」
そういって、あげた有理の顔には悲しみ、親の死を目の前で見た恐怖、悔しさ、自責の念、そして諦め。様々な感情が含まれていた。
「良くない。一回冷静になれ、有理」
「冷静になって何が変わるの!」
怒気すらも含まれている声で叫ぶ。
「いくら冷静になっても変わらないの! お母さんが死んじゃったのは何も変わらない! 今起こっている現実も何もかもね! もう無理でしょ? もういいから。うちのことは放っておいて」
どんどん声も小さくなっていき、しまいには下を向いてしまう。
確かに有理の言うことは否定できなかった。冷静になっても何も変わらないのかもしれない。今この瞬間でさえ様々な音が耳に飛び込んでくる。周りの最悪な状況は何も変わらない。
でも、だからといって諦めるのは正しいのだろうか? 正直分からない。今の状況も、なんと有理に声をかければいいのかも。当たり前だがこんなこと経験したこともないし、ただの高校生に生き残る術があるとも思えない。考えれば考えるほど諦めるべきだと思ってしまう。
だから俺は……余計なことを考えるのをやめた。
「ふぇ?」
有理を思い切り抱きしめる。初めて触れる大好きな女の子の体は想像以上に柔らかく、温かかった。
「えっ? なにをしてるのモモタロー?」
モモタローと彼女から名前を呼ばれるのもなんだか久しぶりのような感じがする。
「考えるのを……やめたんだ」
「はっ? 何を言ってるの? 意味が分からないんだけど?」
俺の腕の中で慌てる有理に言ってやる。
「うるさいぞ」
「はい? なんで今うちが責められたの? 本当にわけわかんないよ」
「有理が、もうどうでもいいって言ったから、もうどうしようもないって言ったからさ」
「うん……」
「じゃあ変にいろいろ考えるのをやめようと思って」
正直に言葉を綴っていく。
「それは分かったけど、ならどうしてこういう状況に……」
「それくらい分かるだろ。好きだからだよ」
「えっ、いやっ、ちょいまち」
一生懸命俺の腕から抜け出そうとするが離さない。
「有理、大好きだ。確かにさ、有理の言う通りもうどうしようもないのかもしれない。人類に意味はないのかもしれない。滅亡するべき運命で、それが最適なのかもしれない」
「だったら……」
俺の話を遮ろうとするが俺はさらに大きな声で言い返す。
「それでも俺は今好きな子を抱きしめて、胸が満たされた。生きていて良かったって思えたんだ」
「……」
「あいつの言うこともわかる。そして言い返せないくらい今は穴が見つからない。でも、こんな地獄みたいな場所でも、こうやって抱きしめたら、好きだって溢れてくるんだ。もう少しそばにいたいって。この感情に意味がないって、それは本当に真実なのか? 好きで幸せだっていう思いなんかより、人工知能のように効率だけを追い求めることが大切なのかな? この後どうなるかなんて誰にも分らない。でも俺はどうしても、もう少し有理と一緒にいたいんだ。自分で答えを見つけたい」
必死に思いを伝える。抱きしめる腕の力もどんどん強くなっていく。
しばらく有理は黙ったままだった。
どれくらいたったのだろうか、有理がようやく口を開く。
「……絶対無理だよ? 結局人は全滅するよ?」
「それでもそばにいたい」
「お母さんがいなくなって辛くて。うち死にたいんだよ?」
「俺が許さない」
「……傲慢だ」
「ここで傲慢にならなかったらいつなるんだよ」
「それもそっか」
また有理は口を閉じる。だが、次の行動が起こるのにさっきほど時間はかからなかった。
「有理……」
今までは俺から抱きしめるだけだったが、有理の手が俺の背中に回る。顔が俺の肩にのる。そして今度は有理がゆっくりと話し出した。
「あのね、さっきまでほんとにこのまま死ぬつもりだったんだよ?」
「ああ」
「朝やっぱり家に残れば良かったとか後悔してたの」
「ああ」
「そうやって後悔したりするたびにお母さんのこと思い出してさ、お母さんの笑顔とさっきの姿を思い出して」
「ああ」
今度は有理の俺を抱きしめる力が強くなっていく。
「世界は理不尽すぎるよ。もう無理だって、立つ力もなかった」
「……」
「なのに、急に抱きしめて好きとか言って、ばかじゃないの?」
「……ばかはお前だぞ」
「うるさい」
「……」
「でもね……」
少し声が優しくなって有理は続ける。
「うちも、ばかなのかも。だって、モモタローが好きって言ってくれて、もう少し一緒に生きようって言ってくれて、うれしかったの」
何も言わずにまた有理を抱きしめる力が強くなる。
「モモタロー。うちも好きだよ。大好き。うちもあの男と同じことをよく思った。何のために生きるのか、感情すらも必要ないのかって」
有理の話す声のほかに鼻をすする音も聞こえる。泣いているのが分かってしまう。
「でも、モモタローが好きって言って抱きしめてくれて、もう少しこの人と一緒にいてみたいって思えた。だからさ……」
有理の声が涙でつまる。
「今だけ思いっきり泣かせて」
「いくらでもなけって」
「サンキュ」
そこから彼女は泣いた。意味をなさない言葉を叫び、たまにお母さんと呟く。俺はその間ずっと、一人じゃないってことを伝えられるように、ギュッと彼女を抱きしめ続けた。