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アトリエ

 何世紀も前に建てられたクラシカルな様式の建物が立ち並ぶ町並み。細い入り組んだ路地。レンガや打ちっぱなしのコンクリートで作られた民家。建物から建物へ渡されたロープに吊るされた洗濯物が風を受けて揺れている。家の前には犬や猫が寝そべり、子供たちが路地から路地へ走り回って遊びに興じている。

 そのカリタの通りにセインのアトリエがあった。1Fはパン屋。その2Fを借りている。木造の階段を上がり、屈むようにして小さな入り口をくぐると、奥に彼が画を製作するスペースがあり、手前の部屋は絵画教室のスペースだ。

 晩秋。紅葉した木の葉も落ち、ちらほらと雪が舞う日も間近い。それでも午後のアトリエには、木枠に囲まれた厚いガラス窓を通して淡い光が差し込んでいる。その光が揺ら揺らとリノウムの床に反射して、幾重にも模様を作り出している。その模様をセインは何に見えるかと連想しながら、イーグルの立ち並ぶフロアをゆっくりと歩く。何人かの生徒がイーグルに向かっている背中を見ながら、セインは思いを巡らせる。

 ミルフィーユの心を覗いたあの時。一杯の光が辺りを真っ白にし、何も見えなくさせる。そんな感じがした。人々の心の声は、振動のように脳に響いてくる感じがする。声なのか。普段声として認識している音の繋がりではないような気がする。ダイレクトにその人々の心の声は、無遠慮にセインの脳を揺さぶる。

 だけど、ミルフィーユからは、何も振動のようなものは感じられなかった。ただそこに真っ白な光に包まれた空間があった。

 なんだろう。心地よかった。人の心が聞こえないということはこんなに安堵するものなのか。

 セインは、その心地よさを何度も反復して思い出しては、楽しんでいた。


「先生。」

 生徒の一人、アリアから声を掛けられてセインは現実に戻った。彼女の側に寄り、イーグルを覗き込む。

〝この葡萄がいまいちうまく描けないわ。〟

 アリアの音のない声が聞こえる。

 部屋の中央に、こんもりと籠に盛った果物があり、何人かの生徒がそれを囲んでデッサンをしている。

「この葡萄かい?」

 セインが応えるとアリアは頷いた。

「もう少し角度を変えて見るといい。」

 セインはそう言って、アリアの左肩に手を置いた。

「こちらですか。」

 彼女が左側を指差す。

「そう。」

 アリアが椅子を少し左側に引いてみる。セインは彼女の肩に手を置いて、まっすぐ前方を指差す。

「この角度からよく見てごらん。さっきと葡萄の形や色合い、質感などが違ってみえないかい。」

 アリアが頷く。

「どうもうまくかけないなと思ったら、少し角度を変えていろんな方向から見てみるといい。同じものでも角度や方向が違うといろんな見方が出てくるから。」

 アリアはなるほどといったように又頷き、笑顔を見せた。セインも頷き、他の生徒のイーグルを見て回る。

「ここはもう少し丁寧に描いて。荒削りなタッチとずさんな描き方は違うからね。」

大きく筆を振るっている男性の生徒の後ろで、セインは声を掛ける。少し冷たく突き放すような言い方を彼は時々する。だが、生徒たちはその言い方にもう馴れていて、不機嫌な顔をすることもなく、

「この部分ですか。」

と、顔を上げ聞いてくる。それに応えて、そう、このあたりとか。などポイントをかいつまんで説明する。

 初心者の多いクラス。本格的に画を習いたいと思っている生徒は少ない。大半は、余暇の一環として趣味程度に画を描いてみようかとやってきた人たちだ。定年退職で仕事をリタイヤした男性や、子育ての終わった主婦、若い女性ならお稽古事のひとつとして。だけど、そういった気楽に画を習いたいという思いをセインは嫌いではない。プロになりたいと必死に精進する気概を持つことも良しとはするが、画を描くということは自己表現の一つであり、心を開放する手段の一つだと思うからだ。だからもっと多くの人に、難しく考えないで、気楽に絵筆を取って欲しいと思う。

 セインは画を描くことによって救われた。幼少の頃から画を描くことが好きだった。画用紙にいっぱい色とりどりのクレヨンを使って思うまま画を描いた。人と交わることが好きではなかった。ひとりで部屋にこもり、画を描いて過ごすひとときがセインにとっては心が休まる時間だった。成長するにつれ、デッサンを始め、水彩画、油絵、パステル画など、いろんな手法を試してみた。

 どれも面白いと思った。いや、どの手法というより描くことすべてが彼にとって至福の時間になった。現在はそれを生業としているが、生きていく為に描くことも彼にとっては苦痛ではなく、作品を生み出す苦労もそれを根気強く続けて行いくことも苦しいと思ったことはなかった。


 壁の時計がクラスの終わりを告げた。

「じゃあ、今日はここまで。」

 セインが声をかけると、皆それぞれ帰り支度を始める。

〝ありがとうございました。〟〝じゃあ、また来週。〟

 生徒の一人ひとりに声を掛け、戸口で見送ると、帰っていく生徒の群れと入れ替わりにひとりの少女が入ってきた。


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