決意
主人公がハイイロオニグマと闘う決意をします。
そして、この章はグロになってしまうのでしょうか?(^^;
「どうしたの? さえない顔して……」
「いや、何でもない」
「何でもないはずはないでしょう。顔、真っ青よ」
牧場を取り囲むようにして張られている木柵の上に腰掛けていたラティは、柵によりかかるようにして立つ私の顔をかがむように覗き込んで、柳眉を逆立てた。
彼女が心の底から心配してくれているのが痛いほど分かった。だが、ハイイロオニグマが、徐々にこの村に近づいてきている事を言う訳にはいかない。彼女を脅えさせたくはない。
「ハイイロオニグマの事ね?」
私はどきりとした。
このラティと言う女性。彼女は、たまにとてつもなく鋭い時がある。それはあまりに鋭すぎて、自分すら傷つけかねない諸刃の剣……。
彼女は、柵の上から私の首に腕を回した。そして、私の頭を彼女の胸に引き寄せた。彼女の柔らかい胸が私の頬に当たったが、彼女は更に私の頭を強く抱きしめる。私はちょうど体を釣り上げられる形になった。
「みていればわかる。本当のあなたの気持ちが……。恐ろしくて仕方ないのでしょう? 半年前、あなたをあんな目に合わせたハイイロオニグマですものね」
「……」
「え、何?」
「奴なんだよ」
「やつ?」
「ああ。私の背に傷を残したあいつだ」
「どうしてわかるの?」
ラティは目を丸くして聞いた。
無理もない。
ハイイロオニグマにも、一頭一頭若干の個体差があるなど、誰が知っているだろうか?
いや、知りようもないはずだ。
ハイイロオニグマに襲われた者は、ほぼ完全に生きて帰れない。理屈から考えれば、一頭一頭違うのは当然の事。だが、その違いを認識、記憶し、他の人間に伝える前に、襲われたものはこの世を去っていると言う事なのだ。
そういう意味では、私は奇跡を二度体験した事になるだろうか。
「あの爪。あれは、ハイイロオニグマにしても大きすぎるんだ。
ハイイロオニグマの爪痕は、普通は山刀で木の幹を思いきり切りつけたような傷がつく。
けれど、あの傷は、どう見ても、木を叩き切ろうとして鉞を振るったようにしか見えない。かといって、人がつけたにしてはあまりにその場所が高すぎる。
つまり、クマの腕の一撃がそれだけ強力だったという事だよ。そして、その個体がとてつもなく大きい事を意味する。
巨大なハイイロオニグマとて、あそこまで大きい奴はそうはいないだろう。あのクラスのハイイロオニグマは、私の知る限りでは一頭だけ……」
彼女の表情がさっと青ざめていくのが分かった。
だが、態度は毅然としていた。私を怯えさせないようにしていたのだろうか。
「……まるで、そのハイイロオニグマをよく知っているような口振りね……」
彼女は、恐怖を押し隠そうとして口を尖らせたが、それは、どう見ても私の女性関係を咎めているような言い方だった。その言い方を聞いていると、自然と、私の中の奴に対する恐怖がゆっくりと融けて、体の外に流れ出ていくような気がして、不思議と笑みがこぼれた。
そんなことはないよ。私は君一筋だ。
何の臆面もなく、そんな言葉を吐けるような、そんな気持ちになった。彼女の声は、私にとって、不思議な癒しだった。
「知っているさ。奴は片目なんだ。そして、その目を潰したのは、私……」
ラティは私の顔を凝視した。私にハイイロオニグマの知り合いがいる事が、驚きだったらしい。
「私は、若い頃、軍にいた事がある。兵役だよ。ディルコンデラ辺境警備隊だ。何年前になるのかなあ。少なくとも、十年以上は前だな」
彼女の表情には、何も浮かんでいなかった。驚いて、呆然としているようだった。人間余りに驚くと呆けるものなのだ。
「うそ……。信じられない。あなたが軍にいたなんて……。軍隊って、あなたみたいな運動神経がない人でも勤まるの?」
私は思わず苦笑した。別に、通常生活において機敏であったり、運動神経がよかったりするのを見せびらかす必要もないだろう。そう思ったが、あえて言う事はしなかった。
人間の第一印象など、あまり当てにならない事を私はよく知っている。運動が得意そうに見えて、あまり得意ではない人など、世の中には五万といる。その代わり、端から見ると、愚鈍そうにみえる男が、実はとんでもなく機敏であったり、鋭そうな人が実は、恐ろしく抜けていたりする場合もある。
私は研究者という立場上、人間観察をよくするが、そういった第一印象がいかに外れているかを、身を以て体験していた。かといって、私に人間の本質を見抜ける力があるわけでは決してない。私が言えるのは、第一印象などまるで当てにならない、と言う事だけだ。
「おいおい。こう見えても、私は軍の中でも一、二を争うほどの腕前だったのだよ。軍が独自に開発した戦闘術のね」
賢明な彼女の事だ。私の表情が突然曇ったことに気づいたはずだ。
「そして、軍の中でも一、二を争うほどの恐いもの知らずでもあった。その証が、背中にある交差した爪痕のうちの、古い方だ」
彼女は、愛を交わすとき、常に私の背中の傷をやさしく撫ぜてくれた。その愛撫が、私の心の傷をどれほど癒してくれたかは、彼女は分かっていないだろう。彼女の唇が、手が、私の古傷に触れるたび、体の実際の傷の痛みではなく、同時に負った心の傷が癒されていった。心の傷はまだ痛む。だがその傷は、彼女のおかげで、今や思い出に昇華されつつあった。
私は、背中に一つ目の傷がつけられたときの話をした。
それは、私がまだ、兵役で軍に身を置いており、研究者になろうと志す前の事だった。この時の私は愚かで、自分より強いものなどいないと思っていた。実際、軍の中で、一対一の勝負ならまず負ける事はなかった。
私は、案の定城塞都市ディルコンデラのなかでも、もっとも危険にさらされている城壁の内側の詰め所に配属になった。
私は、うれしくて仕方なかった。危険に隣り合わせという事は、常に敵がいる事を意味する。そして、その敵を倒す事で、当時の私は満足感を得ていたのだ。
その敵とは、外部からの侵入者だ。具体的には、他国のスパイであったり、他国の軍隊であったり。そして山賊たち。
山賊たちは、どうやら、ここを攻める事を集団の儀式の一つとしていたようだ。確証はないが、おそらく、少年が大人になるための儀式。一年のうち、決まった時期に山賊の襲撃があったことと、私が倒した者に少年が多かったことも肯ける。そして、その事実は、今でもひどい心の痛みを伴っている。
その部署は、一ヶ月に一度は血まみれの戦闘のあったところなのだが、戦闘好きの当時の私が辺境警備隊から身を引く契機となる事件が起こった。
それが、奴の襲撃だった。
襲撃と言うには、あまりに突発過ぎた。
今考えてみると、奇妙だった。
本来ハイイロオニグマは群れで動くのにもかかわらず、奴は単体で行動していた。おそらく、群れからはぐれたオスが、人里まで降りてきてしまったのだろう。しかも、ただのクマではない。立ち上がれば、身の丈がヒグマの倍以上あるハイイロオニグマだ。そして、とりわけ奴は体が大きかった。立ち上がると、私の身長の三倍はあっただろう。
本来、そんな化け物を相手にするのは、素手では無理だ。
だが、この頃の私は血気盛んだった。今まで鍛えた成果も試してみたくて、私はそのハイイロオニグマに素手で勝負を挑んだのだ。
若さゆえの過ちとはこういう物を言うのだろう。
私は、なすすべもなく倒された。背中の一つ目の傷は、この時のものだ。
私は、奴に倒されたと同時に、奴が進行していく先々で恐ろしい破壊と殺戮をもたらすだろう事を予測していた。何しろ、奴は、飢えを満たすためにここを訪れたのだ。
私が倒された後、他の兵士たちは、弓や槍、火縄銃などを試したが、効果はなかった。奴の分厚い肉を少々傷つけるに過ぎなかったのだ。
奴は、そのまま町を進み、手当たり次第に町並みを破壊していく。
動くものを見ると、見境なく攻撃を仕掛けるというハイイロオニグマの特性。そのせいで、死なずに済むはずの人々が、奴の爪に倒れた。確かに、奴の注意をあたかもひくようにして逃げ惑ったのもまずかったのだろうが。
奴は、四日ほど留まっていただろうか。四日目に、傷の仮の手当てをした私は、ありったけの爆薬を持って奴に再び勝負を挑んだ。
私には、奴に挑まねばならない訳があった。
私の幼い頃からの友人と、その父親が奴に襲われたのだ。父親は死亡。友人も脊髄を損傷してしまい、立つこともままならない。
私が自分の力を過信せずに、城壁で奴の侵攻を止めてさえいれば、友人の父は奴に殺される事はなかったのだ。
その友人も、今は奴のせいで寝たきりの生活を送っている。既に、ボケが始まっているかもしれない。たまに、あの時の恐怖を思い出すのだろうか、奇声を発するという。
夜遅くに、彼と彼の家族も眠りについた沈黙の闇の中、突然家の天井がはがされ、巨大な顔が生臭い息と共に覗いた。その次の瞬間、父親がまず頭のみを奴に食いちぎられた。その後、母親を頭から胴まで咥え込んだと言う。唖然とする友人の目の前に、下半身のみの母親が落ちてきたという。
彼の心に大きな傷が残ってしまうのも無理もない。それを聞いた時には、さすがの私も竦んだ。だからこそ、私は自らの手で奴を倒したかった。
最後の挑戦だった。今度仕損じたなら、私も殺されていただろう。
今度は、私が比較的得意としている飛び道具、弓矢を使った。
本当は、矢尻に仕込んだ爆薬を、比較的弱い目にぶち込み、殺すつもりだったのだが、奴はとっさによけたため、左目元に刺さっただけだった。だが、その爆薬の力で、奴は片目を失った。
目を潰された奴は、怒り狂い、暴れながらこの町を去った。
その時、私は暴れ狂う奴に踏まれ、戦士としてはもちろん、兵士としての将来を絶たれたのだ。
それからだ。火山研究にのめり込んだのは。ハイイロオニグマを生んだと言われる、あの火山活動がなぜ起きたのか。私の関心は、そこに移っていった。
その過程で、私はナミィと出会った。
私は経緯を説明した後、大きくため息を吐き、そして言った。
「……私の背にもう一つの傷をつけたのも奴だ。おそらく、目を潰された仕返しだろう。ハイイロオニグマは恐ろしく知能が高い。おそらく、別の種類の動物でも、個体が判別できるはずだ」
「という事は……?」
「奴は私を覚えている。奴がここにくると言う事は、私を殺しにくると言う事だ」
言ってしまった後、私は地面にへたり込んだ。自分の言葉が、かつて奴に感じた恐怖を蘇らせたのだ。
奴は私を殺すためにここに向かっている……。
十年前に感じた恐怖と、半年前奴に植え付けられた恐怖とが一つになり、津波となって押し寄せてきた。
攻撃する事も逃げる事もできぬ恐怖。飲まれ、殺されるしかない恐怖。
今の私には、負けると分かっていて、殺されると分かっていて、奴に立ち向かえる勇気はない。年齢の性だろうか。殺されても、一矢くらいは報いてやる、と言う、かつてならば持ち得た蛮勇とも言える類の勇気も、既に枯れ果てていた。
ここから逃げ出したい。すべてを捨てて。そして、いつものように、何もかも忘れて、最初から生きていけばいいではないか。明日、村を出よう……。
と、柵に座っていた彼女は私のそばで、私を心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫? 顔色、さっきより数段悪いわ」
当たり前だ。恐怖を今まで閉じ込めていた心の帳を、自らの言葉で引き千切ってしまったのだから。溜まり溜まった恐怖は膨張し、練られる。そして、更なる恐怖になる。その恐怖に、私は屈してしまった。
半年ほど前の恐怖は、酒もあって、言葉で吐き出してしまう事で恐怖はある程度半減できた。だが、今は、私の中にも、恐怖を吐き出してはいけない、と言う理性が働く。だが、その恐怖は無意識のうちに頭の中で反芻され、増幅していく。
ラティは、がたがた震える私の体を、包み込むように抱きしめてくれた。すると、不思議な事に心が穏やかになった。もちろん、決して恐怖がなくなる事も、その恐怖の圧倒的な存在感が小さくなる事もなかったが、それでも、少し私の中で落ち着いてくれたようだった。それは、生涯二度感じたことのある不思議な感覚……。
「幸せの村って知ってる?」
「幸せの村?」
「住んでいる人がみんな幸せなの。誰にも気兼ねすることなく生きて、嫌なこと一つなく生きていけるの。そこだと、以前に受けた心の傷も癒されるというわ。素晴らしい所だと思わない?」
―ここがその場所なのだよ。私にとって。
そう言えないまま、私はしばらくそのままでいる事を望んだ。だが、体は止まらなかった。人間に関わらず、動物は、自分が危機を迎えると、必ず子孫を残したいと言う欲望に刈られるようだ。そして、その危機が大きければ大きいほど、その衝動は大きくなっていった。
だが、私は、それを彼女への愛だと勘違いし、そして、事実、愛だった。その危機感は、愛を大きくする意味合いしか持たなかった。
私は、もてる彼女への愛をすべて託し、彼女も、私の愛に精一杯答えてくれた。また、彼女も私に愛を与えてくれた。
いとおしく、切なく、苦しいくらいの愛。今まで生きた過程で持った、互いの苦しみを二人で共有し、互いの欠如した部分を埋め合おうと、二人が一人になるための行為。
二人の愛が絡まり、大きなうねりに乗って空へと駆け上がっていく。
火照る体を風に当てて覚ましながら、私は隣に横たわるラティを見やった。
彼女は、顔を背けたまま、こちらを見ようとはしない。だが、こちらを明らかに意識しているようだった。
そんな彼女がいとおしく思え、私は彼女を抱きしめた。
私の中で、何かが変わった。
確かに、私は彼女を愛していたが、自分自身の中に、この村に対する思い入れはなかったような気がする。実際私は奴の存在を知ったとき、この村から立ち去ればいい、とまず考えた。危険から遠ざかりたいと感じるのは、動物の性であるから、仕方のない事なのだと自分に言い聞かせ、今まで生きてきた。
だが、このときの私は、彼女はもとより、彼女の育った環境や、彼女に多大な影響を与えただろう村の人々も守りたかった。
彼女を引き寄せながら、耳元で囁いた。
「奴と戦う。そして、君と君の育ったこの村をなんとしても守る。相手は奴だ。決してただでは済まないだろうが、もし……」
私は一回言葉を切った。一気に言い切ることができなかったのだ。
「もし、また君と会う事ができたら、一生私についてきてくれるか?」
しばらくの沈黙が続く。一瞬が永遠に感じられ、風が草むらを静かに駆け抜けていく音と、小鳥が囀る音だけが、私の耳に届いてきた。
気づくと、ラティはすすり泣いていた。喜びとも悲しみともつかぬすすり泣きの声。
言葉で示された訳ではなかったが、向こうを向いたまま小さく何度も何度も肯くしぐさが、言葉以上にはっきりと答えを教えてくれていた。




