ポタージュとレスティ
主人公がとある村のベッドで目を覚まします。
思い出せば思い出すほど、獰猛なあのクマがなぜ自分を見逃したのか。
しかし、体力を消耗しきった主人公にはそれすら考えることができませんでした。
気がつくと意識があった。
不思議な気持ちだった。
今までずっとここで、取り止めもない事を考えていた気がする。
睡眠と覚醒の狭間で、私は天井を朦朧としながら見つめていた。見たことのない木目。しかし、それが当たり前のようにそこにあることに、何の疑問ももたなかった。
何も考える事はできなかった。
いや、考えてはいたようだ。目まぐるしく頭脳が機能している感じはした。しかし、考えると言う行為をする自分が、酷く他人事のように思えて仕方なかった。夢の中で、とりとめのないことをひどく真剣に思い悩み、思考を繰り返す。そんな感じだった。
小さい頃、野山を駆け回ってはむき出しの溶岩石に足をとられ、生爪を剥いでは泣いていた記憶。学生時代に親友と大喧嘩した記憶。妻ナミィとの婚約。ハイイロオニグマに殺された親友の父の話。
それらの記憶が、写真が無秩序に貼り付けられたアルバムを見ているかのように、何の脈絡もなく蘇ってきた。
面白い事に、その映像の中には、私の親友の父とナミィとが、仲良くテーブルを囲って談笑しているものもあった。彼らは面識がないはずなのに。言葉こそ聞こえないが、しきりに耳たぶをいじるナミィのあの仕草は、何か恐いもの見たさで話を聞いているときの物だった。親友の父は、おそらく自分がクマに殺されたときの話をしているに違いない。おかしな話だが、それが一番納得の行く状況に感じられたのだから不思議だ。
油の切れかけた蝶番の音が、私を現実へと連れ戻した。
ふと右手を見やると、ベッドからほんの少し離れた部屋の入り口に、壮年の女性が立っていた。手にした盥の縁に手ぬぐいがかけてある所を見ると、私を看病してくれていたようだ。
「気がついたかい」
女性は、私の混乱など知らぬとでも言うように、つかつかとベッドに近づくと、すぐ側にある木製の棚の上に盥をおいた。
私が思わず上半身を起こすと、なにかがぽとりと掛け布団の上に落ちた。額にかすかに感じる喪失感と湿り気。
私が拾うより早く、彼女は手ぬぐいを拾い、私をベッドの上に押し返した。女性の所作はいささか強引だったが、つっけんどんな感じよりは、むしろ懐かしさが先に感じられたのが不思議だった。
「まだ起きてはいけないよ。今、温かいスープを作ってくるから、大人しくしてな。それを飲んでまたぐっすり眠れば、体力ももどってくるだろうさ」
絞りたての新しい手ぬぐいを私の額の上に載せ、私の頬を軽く叩くと、女性はそのまま部屋を出ていった。
―ここはどこだ? 彼女は誰だ?
まだ霞がかかった頭でしばらく考えた後、何気なく左手の窓の外を見ようとして体を起こしたその瞬間、再び蝶番の音がした。振り返ると、木製の丸い盆にスープ皿を載せ、先ほどの女性が部屋に入ってきたところだった。
彼女が部屋に入ってきた瞬間、ポタージュ独特のまろやかな香が私の鼻腔をくすぐった。その次の瞬間、唾液が口の中に見事に膜を張った。私はポタージュが酷く好きなのだ。
「ん? うれしいねえ。あたしも腕によりをかけて作った甲斐があるってもんだよ」
私は思わず表情を引き締め、彼女が持つ皿から視線を外した。確かに酷く腹は減っていたが、そこまで物欲しげな表情をしていたろうか。
彼女は、ベッドの脇に丸椅子を置くと、そこにどっかりと腰を降ろした。そして、私の口元に皿を近づけ、そこから木製のスプーンでスープを私の口元まで運んでくれた。
スープをスプーンからすすり上げると、甘味の中にほのかに香るとうもろこしの風味と、ミルクのまろやかさが心地よく口の中いっぱいに広がった。それはあたかも、山中で味わった恐怖で凍りついたままの私の心を溶かしてくれるかのようだった。
私は思わず溜息をついた。
飲めば飲むほど力が湧く、とはこのスープのためにある表現だろう。私は、半ば強引に女性から皿を受け取ると、掻き込むようにスープを口へと運んだ。
そんな私の様子を見て、女性は苦笑していたようだったが、私はただ、一刻も早くスープで口の中を満たしたかった。
口に含みたい。だが、含むとそれには物足りずに飲み込んでしまう。飲み込んでしまうとすぐに次が欲しくなる。不思議なスープだが、これならいくらでも飲めそうだった。だが、実際にスープをもう一杯頼む必要はなかった。皿の容積が考えていたよりだいぶ大きかったのか、一杯で私は十分に満足した。
満腹、そして満足の溜息の後、私は改めて女性に礼を言った。
その女性は、気にするな、という身振りとともに、自己紹介をした。
彼女の名はレスティ。
薄いピンク色の三角巾で頭を覆っているせいか、栗毛の美しい髪がどの程度の長さなのかはわからない。決して目を引く美人ではないが、側にいると不思議と安心感を覚える女性だった。
年を聞く事はしなかったが、容貌からして、彼女は私よりだいぶ年上だろう。彼女の通りのよい声は、耳に心地よく、聞いているだけで応援されている気になるから不思議だった。はきはきとした物言いも、少し砕けた表現も、彼女の声であれば許される気がした。
以前の私は、言葉づかいにはかなり神経質だった。言葉づかいの悪い人間は、それだけで品格が劣っているように感じられたものだった。実際、私は口論をするときでさえ、決して言葉使いを汚すことはしなかった。だから、私自身はもちろん、ナミィや、それ以前に交際していた女性にも、言葉づかいについてはかなり口やかましかったことを自認している。もっとも、彼女たちは私のそんな一面をかなり疎ましく思っていたのだろうが。
スープと、彼女の声とで元気を取り戻し、ふと表に出たくなった私は、何の準備もなく、突然立ちあがろうした。だが、元気になったのは気持ちだけだったらしい。ベッドから両足を下ろし、立ち上がったその次の瞬間、自分の意思に反し、体は大きくよろけ、ベッドの上に倒れこんでしまった。
そんな私に向かって、彼女は小さい子供を叱るように少しきつい口調で諭した。
「なにやってんだい! まだ無理に決まってるだろう! あんたは背中に大きな怪我をしてるんだ。今は安静にしてなっていったろう! 今でこそ意識ははっきりしているようだけど、あんたは三日間眠りっぱなしだったんだからね」
私はおとなしく再びベッドに戻った。なんとなく、逆らってはいけないような気がしたからだ。言われて初めてずきずきと傷口が痛んだ。だが、痛んだのはその一瞬だけだった。
彼女は私の体に毛布をかけ、にっこりと微笑んだ。
「あと数日もすれば、体力も戻るだろうさ。そうしたら、この村を案内してやるよ」
レスティは、ベッドの側の木製の丸椅子に再び腰を降ろした。
しばらくの間、私は口をきかずに、窓の外の風景に視線を移していた。すると、彼女は誰に話すでもなく、ゆっくりと口を開いた。だが、それは間違いなく、私に向けられたメッセージだった。
今、私がその場にいたら、かなり不思議な状況におかれていると感じただろう。実際、確かにそれは不思議な時間だった。
彼女は私に対して話し掛けているのだが、私の返事を特に望んでいるようでもなかった。だが、口下手の私にすれば、それは結構な事だった。
彼女は、私とは初対面のはずなのに、私が安らぎを感じる雰囲気を、空間を、時間を見事に紡ぎだしていた。そして、私はいつのまにかこの上ない居心地の良さを感じていた。何度か感じたことのある居心地のよさ。しかし、それがなんだったのかは、この時の私にはわからなかった。
彼女の話を総合すると、私は、どうやらこの村の門のすぐそばに、血まみれで倒れていたらしかった。だが、不思議な事に外傷は殆どなく、あったとしても擦り傷程度だったという。背中にある大きな切り傷を除いては。
私を発見した村人は、最初私の背中の傷を、山刀か何かの切り傷だと勘違いしたらしかった。後日鏡で見た傷は、確かに右の肩口から右の肩甲骨の左側を通り、背骨から左の腰に抜けるようにつけられており、刀傷と見間違えるのも無理もなかった。あまりに切り口が綺麗であったため、傷の治りも早かったのが、不幸中の幸いだったというべきか。
これは、熊につけられた傷だと彼女に教えると、レスティは驚いたようだった。
ハイイロオニグマの手は、その巨体に違わず非常に大きい。成体だと、手の大きさはおそらく普通のクマの二回りから三回り以上になるだろう。そんな巨大な前足になれば、爪も太く、指の間も広いことはすぐに考え至る。熊の一撃が繰り出され、命中したとしても、人間という小さな標的に命中する爪は一本か二本だろう。
それが、私の傷口を刀の一撃に見せた。そう考えるのが一番妥当だ。
私をこの家まで連れてきてくれたのは、近所の樵の老人だったそうだ。
樵という職業柄、筋骨隆々としていることを考えると、老人とはいえ、それほど大柄ではない私をここに運ぶことは簡単だったろう。
不思議なことと言えば、その熊の一撃で大きく傷つけられたはずの背の痛みが、まるで感じられないことだが、今の私にとって、その痛みがないことは幸いだった。
彼女の話は楽しく、時を忘れさせた。
彼女は非常に博識だった。そして、年の功もあるだろうが、この村の事をよく知っていた。私の傷を治すために用意された薬も、彼女が集めてきた薬草から作られたものだったのには、さすがに驚いたが。
彼女は何事にも興味を持った。それは、火山のことについても例外ではなかった。彼女はあれこれと私に質問をした。彼女の質問は的を射たもので、答える私も、なぜそんな鋭い質問ができるのだろうか、と驚きながらも楽しく彼女に講義をする事ができた。
一通り彼女が話し終わるころには、私も彼女との会話が楽しめるようになっていた。
彼女の会話がうまかったのは言うまでもない。学術的な話から与太話まで、どちらかに偏ることなく、絶妙のタイミングで進められていった。
人間が大好きであることを臆面もなく表現する彼女だ。人を楽しませることに長けている彼女と一緒にいて、退屈な思いをするはずがなかった。彼女が私にとって恋愛対象外だったことも幸いしたかもしれない。
私はいつになく喋った気がした。といっても、話している時間からすれば、彼女のほうが遥かに多いのだが。何しろ、私が一番喋る機会が多いのは、火山観測隊の報告プレゼンテーションのときだと周囲の人間に言われつづけていた私だ。
喉が渇くほどに喋ったのは、本当に久しぶりだった。




