Love is Lawless
「…ママはどこ?ねぇ、ママ…。」
この屋敷の主であるヴァレンタイン・イーリィの寝室から幼い娘の声がする。彼女から放たれる言葉はたどたどしい。どうやら寝言のようだった。
今日の月は新月だ。人を襲うには絶好の機会である。屋敷を出て、獲物にありつきたいというのが彼の本心である。彼はここのところ三日飲まず食わずなのだ。三日前にあの少女が来てからというもの、まともに食事をしていない。
彼は人間ではない。一度死んでいる。約八十年前に吸血鬼に襲われてから、彼は吸血鬼として生きることになってしまった。その姿も当時のまま保たれていて、人間の血を飲んで日々を過ごしていた。
「ハーモニー。おい、ハーモニー。」
ハーモニー・マー。彼の寝室のベッドで眠っている少女の名前だ。
三日前、ヴァレンタインが街の路地裏を歩いていると、前から彼女が歩いてきた。泣きながら歩いていて、前をしっかりと見ていない。いい獲物だと思い、そのまま彼女に話しかけた。そのまま会話をし、彼女を落ち着かせたあと、その首筋に手を当てた。少女の血を頂こうとしたのだが、ふと違和感を覚えた。異常なほど少女の肌が冷たい。その顔をよく見ると青白く、唇は青く血が通っていなかった。
そのまま彼女を屋敷まで連れ帰り、話を聞いたところ、彼女が既に死んでいたということが発覚した。要するに幽霊なのである。彼女の母は娼婦だったらしく、性病のような病と共に亡くなっていた。彼女自身、自分がなぜ死んでしまったのかはわからないらしい。
「…ヴァレンタインさん?」
ハーモニーがもぞもぞと起きだし、ヴァレンタインの顔を見る。まだ眠そうだ。
さすがに娼婦の娘なだけあって、彼女も少女なりに美しさを兼ね揃えていた。まだ色っぽさはないが、清楚で爽やかな少女らしい美しさがある。
「私は食事をしに行くよ。私が吸血鬼なのは知っているだろう。」
「えぇ、わかっているわ。でもちゃんと戻って来てね。」
ヴァレンタインの頬を名残惜しそうに彼女は撫でた。そのまま彼女の手は下に伸び、彼の服の裾をぎゅっと掴む。子供らしく愛らしい行動だった。
吸血鬼と幽霊では行動する時間がやはり違うらしい。
吸血鬼はどうしても太陽のいる時間帯は行動ができない。太陽の光は吸血鬼である彼にとって大敵で避けなければならない存在だった。その光に当たると吸血鬼は灰になってしまう。それ故に夜に行動し、食事をする。昼間は棺に入って、眠るのだ。
だが、ハーモニーの場合は生前に昼間は起き、夜は眠っていたので、死んでも尚、その生活習慣を崩せなかったのだ。
そのせいか、この二人が一緒に行動することはこの三日間なかった。だが、彼女が寝ている夜、独りぼっちにするのは気が引けてしまったので、外出は控えるようにした。幽霊だから誰かに襲われたりはしないのだろうけれど、その美しさ故に心配になってしまった。
私の美しい少女がどこかへ消えてしまうんじゃないだろうか。
“私の”という部分が間違っているのは確かだった。だが、娘のように愛おしい。亡くなった妻の面影を勝手に重ねているのだろう。
「ヴァレンタインさん。」
「どうしたんだい?」
彼女は上半身だけを起こして、にっこりと笑った。その表情が薄らと記憶に残る妻を思わせる。そのままベッドから降りてきて、ヴァレンタインの腰に抱きつく。
娘がいたらこのような感じだったのだろうか。
「行ってらっしゃい。」
「あぁ。」
ハーモニーが彼から離れていく。
その彼女の表情、髪、声を自分の脳裏にしっかりと焼き付ける。彼女は幽霊なのだ。いつ妻のように彼の前から消えてしまうか、わからない。
彼女を失う恐怖と戦いながら、ヴァレンタインは夜の街へと向かった。そうとなると屋敷にはハーモニーしかいない。
「行っちゃった。」
ヴァレンタインは街を彷徨っているハーモニーをここまでわざわざ連れてきた。ハーモニーは既に死んでいるのだが、彼女にとって彼は命の恩人のようなものだ。
「いつ帰ってくるかな。」
ヴァレンタインの居ない夜はとても長いに違いない。彼女はそう心の中で呟いた。
◆◇◆
彼女は、いつの間にかこの街を彷徨っていた。いつの間にか、路地に倒れていたのだ。血が出ていなければ、骨も折れていない。痛い箇所は身体のどこにもなかった。
表通りからにぎやかな声が聞こえてきたので、人がいるのだと思い、その通りへと向かった。だが、彼女を認識してくれる人間は誰一人としていなかった。人々はまるで彼女がそこに存在しないかのように無視をして通り過ぎる。たまに彼女の身体をすり抜けていく人間までいた。その現象を目の当たりにして、彼女は気づいたのだった。
もうあたしは死んでいるんだ、と。
とてつもなく長い間、母を捜し続けた。病気で亡くなった母がもしかしたら幽霊として残っているかもしれない。そう思ったのだが、見つかるはずがなかった。もう百年以上経っている。見つかれば奇跡だった。
話し相手もなく、誰にも認識されることもない。その孤独に耐え続けた。せめて母親の温もりだけでもあればと、それだけを希望に街を彷徨い続けた。
そんなある日、ヴァレンタイン・イーリィという吸血鬼に出会った。泣き崩れている彼女を彼が屋敷まで連れて行ってくれた。
その日、ヴァレンタインにいろいろなことを聞かれた。
今まで何をしていたのか。
『ママを捜してたの。』
両親はどのような人だったのか。
『ママは男の人からお金をもらうお仕事してたの。パパはいないわ。』
どのようにして死んだのか。
『ママは病気で死んじゃったの。』
どのような場所に住んでいたのか。
『小さな家に住んでたわ。ボロボロのお家よ。』
何年前に死んだのか。
『覚えてないの。でもすっごく昔よ。』
どうして死んだのか。
『それも、覚えてないの。気がついたら、この通りだったの。』
彼女のその答えを聞いて、ヴァレンタインは複雑な表情を見せた。
彼はハーモニーにしばらく屋敷にいてもいいと言った。かわいそうな少女に同情したというような雰囲気はない。不思議とそんなものは感じられなかった。
普通なら、「あらかわいそうに。」と言った目で彼女を見るはずだが、ヴァレンタインの目は違っていた。仲間を見るような温かな目をしていた。ハーモニーにとって、そのような視線を送られること自体が初めての経験で、どこか気恥ずかしかった。思わず、目線をそらして床に着くはずがない足をぶらぶらさせた。
それからヴァレンタインはハーモニーに付きっきりだった。幽霊であるからお腹を空かせるなどという生理現象はない。それでも彼は傍に居続けた。
ハーモニーはあまりにも一緒に居すぎて彼のことが心配になってきてしまった。
彼は自分とは違って幽霊ではない。何かを食べたり飲んだりしないと、死んでしまうのではないかと思ったのだ。
実際、二日目の夜の時点で、ヴァレンタインの足取りはふらふらとしている。出会ったときには既に彼の顔は白く、血色がなかったのだが、その夜においては顔に青白さまで伺える。
このままでは危ないとすぐに察した。彼が何かよくないことを考えていると、ハーモニーの直感が訴えていた。
『あなたは幽霊じゃないんでしょ。』
『そうだが。』
『だったら生きなきゃ。神様は生きている人間には使命を下さってるのよ。』
子供っぽいこと、言ってないなぁ。
そう思いながらも思ったことをヴァレンタインにぶつける。
『私は、人間ではない、もう。』
太陽が沈んで、街はまた別の顔を見せている。娼婦が金を貪り、遊び人が女を弄ぶ時間だ。もう子供は既に眠っているはずの時間である。
この別の意味で盛り上がった街を窓越しに見つめながら、彼は言った。
確かに話で聞く吸血鬼というものは“一度死んだ人間が吸血鬼になる”と言うものが有名だ。そして、陽の光に当たるか、首を飛ばすかしないと死ねないというのも有名ではある。
『ヴァレンタインさん。』
窓の傍に悲しげに立つ彼に近寄る。彼は目線だけを動かして、ハーモニーを見た。
『死にたいの?』
◆◇◆
ハーモニーのその言葉を思い出した。ゆっくりと、試すかのように彼女の口はそう言った。自分の心を読み取られたような気がして、恐怖さえ感じた。
ひとまず、喉を潤し、血を欲していた身体を満足させた。すぐにでも屋敷に帰ろうと足早に坂を登っていく。街から離れるほどあの間違った活気は遠ざかる。狂った女に声をかけられることもなければ、服の裾を引っ張られることもない。
『死にたいの?』
彼女のその声が頭の中を巡っていた。
本当に自分は死にたかったのだろうか。死ぬことはできないとわかっているのに。血を飲まずに飢えれば死ねるとでも思ったのだろうか。
屋敷に辿り着き、いつもと変わらぬように重い扉を開いた。真っ先に目に入ったのは、広間の壁際に立っているハーモニーの姿だった。彼女が壁の何かを見つめている。そこには人間だったヴァレンタインの妻の絵が飾られていた。その絵にはしっかりと時の流れが刻まれている。所々が破け、色落ちをしている。絵の中の妻は変わらぬ表情で屋敷の広間へと笑顔を向けている。
「この人、だーれ?」
ハーモニーの声が広間に響いた。
「私の妻だよ。」
ぽつりとヴァレンタインが呟く。
彼は必死に妻との思い出を思い出そうとしていた。出会いから妻の死まで、その全てを思い出そうとする。
「お名前は?」
名前。
「思い出せないんだ。気の遠くなるほど昔のことでね。今はこの絵の中の彼女しか覚えていないのだよ。」
ハーモニーが「ふーん。」と相づちを打つ。ヴァレンタインの表情を伺うこともなく、じっとその絵の中の女性を見つめていた。
金の糸のような髪、宝石のような青い瞳、女性らしい丸みを帯びた頬。妻の容姿はこの絵を見ればいくらでも思い出すことができた。だが、どのような人物だったのか、どのような会話をしたのか、そのとても肝心な所を覚えていない。
「ハーモニー、お前は母を思い出せるのだろう?」
「うん。ママの作ってくれたおやつの味も覚えてるよ。」
「お前が羨ましいな。」
ヴァレンタインは妻の絵に触れた。その身体に触れることはできない。人の温かな肌ではなく、ボロボロになった布が指先に当たる。触れれば触れるほど、ボロボロと屑が出てくる。まるで、思い出が崩れ去っていくかのように。
「ヴァレンタインさん。」
「何だ。」
「泣いてるの?」
彼の顔を心配そうに見上げるハーモニーがいた。
勝手に目から何かが流れ出ていた。目尻から頬を顎を伝って、ハーモニーの身体を透き通って、床にぽとりと落ちる。彼女は必死にヴァレンタインの頬を服の袖で拭こうとしていた。
ハーモニーに目線を合わせようと、その場にしゃがみ込む。
彼女の服の袖は彼の身体をすり抜けてしまう。彼の涙が拭けることはなかった。それでもその涙を拭こうと手を伸ばす。触れようとする。そして、すり抜ける。
ヴァレンタインはその彼女の姿を見るのを辛く思い、目を閉じた。本当に涙が頬を伝っていた。
「……私、また、あなたを泣かせてしまったのね。」
聞き覚えのある声がした。
遠い昔に何度も何度も聞いた、恋い焦がれた声。今も自分が聞きたいと願い続けた愛おしい声。
「その声。」
目を開くと、小さな女の子はいなくなっていた。
暗がりでも誰がいるのかぐらいはわかる。金色の髪に青い瞳を持つ、彼が愛で続けた女性がそこにいるということは。
ヴァレンタインはただ唖然とした。その女性が目の前にいることを信じることができなかった。これは夢なのだ。きっと幻なのだ。自分が疲れているだけなのだ。そう自分に言い聞かせた。
彼女はヴァレンタインの頬に触れ、撫でた。
そうだ。彼女が生きていた頃は、よくこんな風に、
「アレシアよ。」
「アレシア。」
私の頬を撫でて、微笑んでくれた。
「なぜ。なぜ、お前が。」
「神様。」
「神?」
「あの女の子は、天使よ。幽霊なんかじゃないわ。」
「どういうことだ。意味がわからない。」
混乱していた。目の前にいた少女がいつの間にか妻に変わり、その妻は神のおかげだと言う。あのハーモニーが天使だということも理解しがたい。
「神様のお導きなのよ。」
納得がいかないまま、無理矢理その文句を押し通された。昔、そんな風に強引に話をまとめられたこともあった。
しばらく、妻であったアレシアと屋敷やその周りの森を巡った。彼女と共にいることで、彼女との生前の記憶も思い出すことができた。生前と変わらない、他愛のない会話を繰り返す。一瞬だけ吸血鬼であることを忘れた。彼女と共にする時間はあっという間に過ぎていってしまった。
もうすぐ朝が来るという時間になった。吸血鬼はもう棺桶に入らなければならない。でないと、灰になってしまう。
アレシアはヴァレンタインの手を引き、棺桶のある部屋まで連れて行く。
「最後に、あなたに逢えてよかった。」
「そうか。これが本当に最後なのだな。」
「ごめんなさい。」とアレシアが呟く。
しばらく沈黙が続いてしまった。まだ陽が昇りはしない。陽が昇る寸前までアレシアといようと彼は棺桶の前に立ち止まる。そのとき、一つの考えが浮かんだ。
「私は、ここで死んでしまってはいけないのだろうか。お前と共に逝ってはいけないのだろうか。」
口が勝手に考えを声にしていた。
そのとき、アレシアの顔を見るのが怖くて、振り向くことができなかった。言ってはいけないことを言ってしまったのだ。
「死にたいの?」
その言葉を何度聞いたことだろう。何度心の中を巡ったことだろう。
棺桶の前に立つヴァレンタインを後ろから抱きしめる細い腕があった。幽霊のはずなのに、人の温かみなどないはずなのに、冷たくなかった。アレシアの腕だ。彼女の身体がヴァレンタインの背中にぴったりと寄り添っている。
「私はあなたの中で生きるわ。あなたの記憶として。ヴァレンタイン、あなたが死んでしまったら、私も死んでしまうのよ。」
アレシアの指に力が入る。彼の服を離さまいと必死に掴んでいる。
「あなたしか私のことを覚えている人はいないの。…ねぇ、ヴァレンタイン。」
彼女の必死さがヴァレンタインに伝わってきた。声を出すことができない。今、声を出せば、嗚咽が彼女に気づかれてしまう。
「私のために、生きて。」
気がつくと、彼女は淡い光となっており、だんだんと彼の身体に吸い込まれている。その光は少なくなっていき、弱くなっていく。
彼女に逢えなくなる。
ヴァレンタインは咄嗟に振り返った。アレシアの顔を一目見ようと。彼女の名前を必死に呼んだ。呼んでも彼女は戻ってこないだろう。それはわかっていたのだが、呼ばずにはいられなかった。
「…生きて。ヴァレンタイン。」
彼女の声が部屋に響き、光の最後の粒が彼の中に入っていった。
何度も死人の血を吸おうと、朝の日差しを浴びようとした。それらは吸血鬼にとっては自殺行為だ。だが、怖くて、死ねなかった。
「ありがとう。アレシア。」
Thank you, little angel.
Your love, Valentine Ely.
愛にルールはない
規則もない
どんなに暴力ふったって、ボロボロにしたって
それがお互いにとって愛というがあれば愛になる
周りがそれは違うと言っても
互いが胸を張っていれば、愛になる
愛しすぎて殺してしまうことも、愛になってしまうのかもしれない
正直言って、今回のこの話
あたし自身に「生きて」と言っているような話になった
死んではいけない
あたしが死ぬということは
今まであたしが会った全ての人との思い出を消すということ
死なないでってあたし自身に言いたかった
だから、死なないで