序章
真っ暗な夜道。
突然の黒い集団。
バラバラと提灯を投げ捨
て、店主と番頭が一目散
に逃げ去った。
襲ってきた相手は6人。
いずれも黒い覆面で顔を
覆っている。
命を狙われていると、幻
十郎に用心棒を頼んだ店
主と番頭が逃げたという
のに、この刺客達、逃げ
た店主達には目もくれず
、なんの躊躇いをみせず
幻十郎を取り囲んだ。
笠岡の下卑た顔が頭をか
すめた。
あの男に嵌められたか
・・・
胡散臭い話だとは思った
が・・こう言うカラクリ
か。
どうやら狙いは私らしい
そう、悟った幻十郎は、
ススっと身を大木の背に
張り付かせた。
六人とも、中々な手練だ
。
手加減などしていては、
我が身が危ない。
スラリと引き抜いた刀の
切っ先を足元に垂らすと
、油断なく六人を見渡し
た。
中ほどの一人が、頭目ら
しい。
この男の殺気は相当なも
のだ。
目線の合図と同時に二人
の刺客が小さな気合とと
もに、幻十郎に切りかか
ってきた。
難なく交わした。
交わし際二人の、胴と背
を切り裂き、切った相手
には目もくれず残りの四
人に切っ先を向ける。
ザザッと四人の輪が広が
った。
幻十郎の腕を見くびって
いたようだ。
互いに目線を交わしあっ
ている。
切っ先が少し震えていた
。
今だ!
幻十郎は自ら切りかかっ
て行った。
攻撃は最大の防御だ。
左、右、そして腹部に突
きと、あっという間に、
三人が呻き声と共に崩れ
落ちた。
残った頭目らしい男が、
林の中から一般道に逃げ
た。
いや・・
逃げる気はないらしい。
足場を確認すると、その
刀を中段に構えた。
ギラつく眼差しを幻十郎
に向けると、やにわに、
黒覆面を片手で剥ぎ取る
や、地面に放り投げた。
眼光鋭い、精悍な男だ。
「何ゆえ私を狙う」
男がニタリと笑った。
と・・突然
そのまま切っ先を幻十郎
の喉元に二度三度と、突
き刺してきた。
「喪心流か」
男の顔に狼狽が走った。
「邪剣と忌嫌われ、その
流派は無くなったと聞
いていたが」
なおも呟く幻十郎に、男
はさらに突きを放つ。
軽やかな足さばきで、す
んでのところで、その突
きをかわす幻十郎に、男
は、それでも執拗に突き
を放つ。
と、突然
月明かりの中、幻十郎
の足もとに、一匹の蛙
が現れた。
刺客の突きをかわしなが
ら、このままいけば、蛙
を踏みつぶす・・
咄嗟に思い、ほんのわず
か足元をずらした時、隙
が生まれた。
中々の手練だ。
この隙を見逃すはずがな
かった。
男の放った突きが、幻十
郎の腹部に深く突き刺さ
った。
離れ際、幻十郎も負けじ
と男の脇腹に刃を突き刺
した。
相討ちだ。
そのまま離れた二人は、
しばらくにらみ合ったま
ま相手を見据えていたが
、やがて、男は剣を鞘に
納めると
「とどめはいらぬな」
そう言い捨てると闇の中
に溶けて行った。
確かに、このまま捨て置
いても幻十郎は危ないか
もしれない。
突かれた腹からはおびた
だしい血が流れ出してい
た。
このままでは、間違いな
く死ぬだろう。
そう思いながらも、幻十
郎は、月夜に光る蛙を見
ていた。
「お前のせいじゃないぞ
。我が未熟のせい・・
いや天命やもしれぬな
」
そう微笑みながら、幻十
郎は刀を鞘に納めると、
鞘ごと刀を抜き、杖代わ
りに、歩きはじめた。
確か、この先に常磐津の
師匠の家があった。師匠
には迷惑だが、私を葬っ
てもらうにはうってつけ
だ。
最後ぐらいは美しい人に
看取ってもらいたいし・・
ぼんやりとした視界の中
に、見おぼえある常磐津
の師匠の家が見えた時、
幻十郎はそのまま深い地
の底に引きずり込まれて
行った。
天井の節目が笑っていた
。
左右を見ると、小奇麗に
片付いた六畳ほどの一間
。
中央に敷かれた布団に幻
十郎は寝かされていた。
そっと掛け布団を跳ね上
げ、腹部を手でなぞって
みた。
真新しいサラシで腹部が
固く巻かれている。
突かれた場所あたりを手
でまさぐってみたが、わ
ずかに痒い感じはするが
、痛みはない。
どうやら生きているよう
だ。
死んでも惜しいとは思わ
なかったが、こうして生
きているところを考えれ
ば、まだまだ神は私を生
かしておくらしい。
上半身だけ起こしてみた
。
わずかに痛みは走ったが
起きられない痛みではな
い。
床の間には、自分の刀が
置かれてあった。
常磐津の師匠の家か・・
そう、思いだした時、隣
の部屋から、聞き覚えの
ある、男の声がした。
「おう・・邪魔するぜ常
磐津のう」
笠岡の子分の万吉の声だ
。
親分の笠岡と違って義に
は厚い男だ。
幻十郎がいる部屋は一番
奥の部屋らしい。
「なんです、いきなり扉
を開いて」
甘ったるい、師匠の声だ
。
「親分からの言いつけで
、30両取り立てにき
やした」
ん・・常磐津の師匠、笠
岡に借金があるのか。
「何言ってるんですかね
え・・私が親分からお
借りしたのは、一両、
たった一両だけですよ
。その一両も親分さん
が、たっての願いだか
ら借りてくれと、無理
やり頼まれて借りただ
けのお金じゃありませ
んか、それが、なんで
すかねえ・・いきなり
30両だなんて」
どうやら、ややこしい話
になりそうだ。
幻十郎は、枕元にたたん
で置いてあった着物に、
袖を通した。
真新しい着物だ。
常磐津の師匠が用意して
くれたものだろう。
香まで焚いてくれたのだ
ろう。
いい匂いがする。
綺麗で独特の世界観を持
った師匠だが、その生い
立ちは何も知らない。
笠岡の屋敷で知り合い、
気がつけば軽口を言いあ
うそんな程度の仲なのだ
が、死の間際で常磐津の
師匠を思い出すとは・・
幻十郎は、思わず苦笑い
をした。
その師匠が、借金の取り
立てに遭うとは、穏やか
な話じゃない。
「すんません、師匠。あ
っしは詳しいことはよ
くわかりやせん。とに
かく親分から30両も
らってこい、さもなき
ゃ、師匠を連れて来い
と言われただけでして
」
「あたしを、どこに連れ
て行くつもりなんだい
?」
常磐津の師匠が笑いなが
ら聞いた。
いつも、あれだ。
のらり、くらり、笑顔で
相手を煙に巻いてしまう
。
しかし、今回のこの話は
どうも、胡散臭い。
どう考えても金に困って
ない常磐津の師匠に無理
やり1両借金させ、揚げ
句に30両返せとは、穏
やかな話じゃない。
いくらあこぎな笠岡でも
、こうも露骨な手を使う
にはそれなりのわけがあ
るんだろう、これは、師
匠の笑顔だけでは解決で
きそうな問題じゃないぞ
・・
幻十郎は刀を脇に差すと
勢いよく障子を開いた。
「あっ!」
万吉の目が、ひっくりか
えった。
恐ろしいものを見るよう
に幻十郎を見つめている
。
「万吉の兄い・・どうし
たんだよ。まるで幽霊
を見るような顔をして
」
「せ・・先生・・先生は
死んだって聞いてたも
んで」
「親分がそう言ったんだ
な」
「へい」
合点のいかない顔でいつ
までも、幻十郎を見つめ
ている。
「ほれ、私はちゃんと足
がついている。幽霊な
んかじゃないよ」
自然と常磐津の師匠をか
ばうように、万吉と師匠
の間に胡坐をかくと、脇
差を抜いて横に置いた。
どうも立っていると刺さ
れたわき腹がうずいてし
ょうがない。
「で・・先生がどうして
ここに?」
「どうして・・て。万吉
の兄いよ。おまえさん
も無粋なことを聞くじ
ゃないか。男と女が一
つ屋根のしたにいるん
だよ、聞かずともおお
よその事は想像つくだ
ろうが」
「そりゃ・・まあ」
「で、万吉の兄い、さっ
きの話だがな、一両借
りて30両の返済・・
こりゃ穏やかな話じゃ
ないよな。師匠その一
両はいつ借りたんだい
?」
「二日程もまえかなあ」
とろんとした声で常磐津
の師匠が答えた。
「兄いよ。おかしいと思
わないかい。1両が
2日で30両だぜ。
こんなあこぎな商売、
笠岡一家ではやってい
るのかい」
「いえね、先生、こう・
・先生の前だから言い
やすがね、あっしもお
かしいとは思ったんで
すがね、やっぱ、親分
の指図には逆らえやせ
んし」
「じゃあ・こうしようや
。ここは私の顔を立て
て、このまま帰っても
らう。しかし兄いもま
さか、手ぶらでは帰ら
れないだろうか、この
話は私が後から親分の
ところに話をつけに行
くって・・これでどう
だろうか」
まだ、納得のいかない顔
をしている万吉に
「なんなら、ここで
(どんぱち)やって兄
さんの顔に一つ二つ切
り傷でも作ろうか、そ
うしたら兄さんの面子
も立つだろうし」
「いえ・・も・・もう・
・めっそうもない。先
生にたてつくなんて、
あっしにはできやせん
し」
幻十郎は、用心棒をしてい
た笠岡一家の若いもんに剣
術も教えていた。
教えるというより、暇を持
て余していたので、退屈し
のぎといったところか。
その中でも万吉は稽古熱心
な男だった。
もともと剣術が好きなのだ
ろう。
幻十郎の顔を見つけると、
しきりに稽古をつけてくれ
と寄ってきた。
だからこそ、幻十郎の強さ
をよく知ってる男だ。
「わかりやした。すべて先
生におまかせします」
丁寧に戸を閉めて帰って
行った万吉達の気配が消
えると、幻十郎は常磐津
の師匠を見た。
目を細めて幻十郎を見つ
めている。
「すまない師匠」
「あら、、ぴったし。少
し長いかなあと思いま
したが、丈もちょうど
いい」
「おお、この着物も、わ
ざわざすまぬ」
「こうして改めて見ると
、やっぱ旦那はいい男
だねえ」
目を細めてジット幻十郎
を見つめる。
「なにはともあれ、師匠
、相すまぬ」
「何が相すまぬ?なんで
しょうかね」
「血まみれの男が転がり
込んで、さぞかし驚い
たことでしょうね」
「幻十郎の旦那にこんな
手傷負わせる人なんて
、いるんですねえ・・
お江戸は広い」
「江戸の広さを感心する
前に、驚きましょうや
・・師匠」
幻十郎の呆れ声に
「いえね、ちょうど幻十
郎の旦那の事考えてい
ましたらね、外でごそ
ごそ音がしましてね、
見たら、幻十郎様がい
らっしゃるじゃありま
せんか。ははん、これ
は神様が私に好きに使
え・・てくださったん
だな・・て思って、家
に引きずり込んじゃっ
たんですよ」
まるで玩具扱いだ。
「傷の手当ては?」
「私がしましたが、痛み
ますか」
「え・・師匠が?」
相当の深手だ。
素人が治療できる傷では
ない。
さっき触った感触では、
治療は完璧だ。さらしの
巻き方など、とても素人
の出来る巻き方じゃない
。
医療に心得があったのか
常磐津の師匠は・。
「あまり動き回りますと
傷口が開きますよ」
「師匠は、医術の心得も
おありなんですか?」
「見よう見まねで」
とろんと語りそのまま、
黙ってしまった。
微笑みを幻十郎に投げか
けているだけだ。
思わず幻十郎の方から目
線を外した。
不思議な人だ。
そばにいるだけで、温か
みを感じる。
「師匠、ひょっとして武
家の出では?」
フト思いついて聞いてみ
た。
一瞬暗い顔をしたかと感
じた師匠だが、よく見れ
ばいつもの穏やかな顔で
「で・・幻十郎様はどう
なさるつもりで?」
と話をすりかえる。
「どうなさるとは?」
「まさか、先ほど、お話
されたように、私の為
に笠岡の親分さんに掛
け合いにいかれるわけ
じゃないでしょうね」
「行くといいいましたか
ら、もちろん行きます
よ」
「おやめなさい。私ごと
き女子に、幻十郎様が
お関わりなさると、ろ
くな事はございませぬ
」
「そうは申されても、こ
のまま黙って引き下が
る親分とは思われませ
ぬが」
「殿方の扱いは私は十分
心得ているつもり。な
あに、なんとかなりま
する故」
師匠のニコニコ顔を見て
いると、本当になんでも
ないような事に思えてし
まうから不思議だ。
しかし、捨ててはおけな
い。
なんにしても常磐津の師
匠は命の恩人だ。
こうして幻十郎の命があ
ったのも、案外常磐津の
師匠を助けるために生か
された命なのかもしれな
い。
これはある意味天命だ。
関わるなと言われても関
わらざるを得ない。
「ちょいと出かけてきま
す」
ひょいと立ちあがった。
痛みが無い。
少し驚いたが、おくびに
も出さず、刀を腰にさし
た。
「まだ太刀回りなどでき
るお身体じゃありませ
んよ」
あくまでも、冷静に師匠
がほほ笑む。ここに及ん
で、何を言っても止めな
い幻十郎の気質を十分知
っているのか、じっと座
ったままだ。
「太刀回りにならぬよう
話し合いだけで解決つ
けてきますから」
「だといいんですが・・
」
足早に立ち去ろうとする
丸二日寝たきりとは正直
驚いた。
道理で腹に力が入らない
はずだ。
ならば、まずは(あそこ
)に行かねばなるまい。
行き着いた先は料亭柳。
暖簾をくぐって店内を見
る。
誰もいない。
相変わらず不用心な店だ
。
奥に行こうとすると、そ
の奥から娘が出てきた。
「あ・・!」
幻十郎の姿を見つけると
小走りに寄ってきた。
10歳になる、お小夜だ
。
わけ合って、柳の店で働
いている。
「女将さん呼んできます
」
お小夜が飛ぶように店の
奥に入ると、やがてカラ
カラと下駄の音が響いた
。
「ま・・旦那、、何して
たんですかね・・どこ
かにいい人でも見つけ
たんですか?」
「いや、チョイ大きな虫
に腹を刺されてね」
自分の腹を軽く叩き、よ
ろける素振りをした。
「あら、お怪我?」
気のいい女将だ。
幻十郎の仮住まいにもな
っている。
亭主の橋爪厳衛門とは義
兄とのつながりで、なん
となく居候する形になっ
ていた。
物騒だから用心棒代わり
に居てくださいと頼まれ
ている態だが、義兄が裏
で画策しているとは、幻
十郎も薄々気付いてはい
たが、知らぬふりをして
いた。
堅物で、何かといえばそ
ろそろ身を固めろと、口
うるさいので、幻十郎も
ついつい、疎ましくなり
、結局笠岡の家に入り浸
り状態になってしまって
いたのだが・・・。
「厳衛門さんは?」
「留守ですよ」
幻十郎のホッとした顔を
見て、女将は思わず笑っ
た。
「いえ・・そうじゃない
んですが・・・」
女将にも逆らえない。
「何か御召しになります
か?」
「そうそう、ひさし振り
に女将さんの手料理食
べたくなりましてね」
「何をすっとボケたこと
いってるんですかねえ
・・うちの料理はみん
な、板さんが調理して
るでしょうに」
「あはは・・そうでした
」
「いつものお部屋で待っ
ててください。すぐに
用意させますから」
「すまない、女将さん。
ところで矢七はいます
か」
「ええ、いますが?」
「ついでに呼んでいただ
けませんかね」
「また、何か、危ないこ
と始めるんじゃないで
しょうね」
女将が眉をひそめたので
、幻十郎は慌てて打ち消
した。
「違いますよ。聞きたい
事があるだけですから
」
矢七は、幻十郎が料理を
おおかた平らげたころ、
現れた。
気のつく男だ。
お盆に、徳利を二本乗せ
、「いきますか」と飲む
仕草をしながら入ってき
た。
昔は名の知れた盗賊だっ
たが、ある事件をきっか
けに、きっぱり足を洗っ
ている。
今では、女将が褒める程
の板前だ。
「相変わらず矢七さんの
料理は旨いよ」
「女将さんが言ってまし
たよ。旦那は御世辞が
下手だと」
「何が?」
「その料理は安が拵えた
やつで」
安とは矢七の弟子だ。
「ひどいなあ、せっかく
矢七さんの料理が食べ
られると思ってきたの
に」
「あはは、すいません。
あっしです。あっしが
作りました」
矢七は幻十郎の前で胡坐
をかくと、二人の間に徳
利が乗ったお盆をおいた
。
「殿様がご心配されて
ますよ」
「またまた、矢七さんま
で厳衛門さんみたいな
ことを言って。もう勘
弁してくださいよ」
「ま・・一献」
矢七がついでくれたお酒
を飲み干すと、
「うま・・い」
「でしょ。朱鷺の熊酒で
すから」
「ああ・・道理で。じゃ、
矢七さんも、まずは一
杯」
「へい・・すみません」
一気にあおると、目を細
め、しばらく酒の味を楽
しんでいたが、やがて目
をあけ、口元を緩め
「で・・あっしに用とは
?」
「この二日程で、浪人者
の死体が五つほど出た
って噂聞かなかったで
すか」
矢七の目がキラリと光っ
た。
「浪人者の死体が五つ・
・
また、物騒な話ですが
、さあ、とんと聞いた
ことござんせんが」
「そうですか。やっぱそ
んな話はありませんか
」
どうやら、幻十郎が切っ
た浪人どもの死骸は誰か
が運んで行ったようだ。
「そのお腹の傷と関係あ
る話なんですか」
幻十郎の膨らんだ腹を見
ながら矢七が尋ねた。
もう一杯、今度は手酌で
酒を注ぎ、ぐいと飲み干
す。
「わかりますか、この傷
」
「着物の隙間から、真っ
白なさらし、そりゃ目
立ちますよ。で・・傷
の方は大丈夫なんで?
」
「死にそこないましたよ
」
「出歩いて大丈夫なんで
」
「常磐津の師匠に助けら
れましてね」
「常磐津の師匠に」
一瞬驚いた顔を見せたが
、すぐに元の表情にもど
ると、酒を幻十郎にすす
めた。
そこで、常磐津の師匠の
一件を、ざっと話してみ
た。
「旦那が常磐津の師匠の
家に倒れ込んだ話は、
しちゃ、いただけない
んで」
いや、その件は私にも皆
目わからないんだ。
そう言うと、幻十郎は、
覆面の浪人に襲われたく
だりも、矢七に話した。
矢七に隠し事は、初なっ
からするつもりはない。
「どう思います。矢七さ
んは?」
「そうですねえ・・それ
だけでは・・なんとも
」
「で、ちょっと調べても
らえないかと」
「常磐津の師匠の件、そ
れとも旦那を襲った浪
人の件」
「いえね、私が思うには
この二つの事件、なん
だか関わり合いがある
ように思えて、ですか
ら、どっちを調べてい
っても最後は同じとこ
ろに行きつくんじゃな
いかと」
「なるほど。わかりやし
た。で・・旦那はこれ
から、笠岡のところに
行くおつもりで?」
「もちろん行きますよ。
なんたって命の恩人で
すから」
「なんなら、あっしも」
「いや・・私一人の方が
」
「そうですか・・」
矢七が心配そうに幻十郎
をみつめた。
料亭柳から出、ぶらぶら
歩いていると、南町奉行
所の門から一人の男が出
てきた。
幻十郎を見つけると親し
げに寄ってきた。
「幻十郎殿、お久し振り
で」
「おお、丁度よかった。
実は米山殿にお聞きし
たい事があって」
「え、私に?また何か事
件でも」
「いえいえそうじゃあり
ません」
幻十郎は慌てて手を振っ
た。
米山は南町奉行所の同心
だが、少し早とちりのと
ころがある。
うかつなことを言うと、
義兄の耳に入らないとも
かぎらない。
「中に入りますか?」
「いえ、今日はやめてお
きます」
「どうしてですか、雪絵
様もご心配されていま
すよ」
「あ・・いや、姉上様に
は私がここに来た事は
内密に」
幻十郎は慌てて手を振っ
た。
「で・・私に聞きたい事
とは?」
実は・・
源三郎は、ここ最近浪人
同士の騒ぎがなかったか
聞いてみた。
矢七に聞いたところでは
なさそうだが、ひょっと
したら、浪人といえど武
士は武士。
あるいは、奉行所で話し
自体を抑え込まれている
やもしれないと確認にき
たのだ。
幻十郎を襲った浪人者は
いづれも、相当の手練達
。
手加減などできず、いづ
れも致命傷になっていた
はずだ。
あたり前にいけば、その
死骸が発見されていいは
ずが、そんな話はないと
いう。
誰かが死骸を片づけたの
だろうが、手際が良すぎ
る。
訝しがる米山に、軽く暇
を告げると、幻十郎は笠
岡の屋敷に向かった。
常磐津の師匠の件もある
が、もともとあの用心棒
の話は笠岡から頼まれた
話だ。
しかもその頼み方が、あ
まりにも軽かったので、
幻十郎もつい軽く引き受
けたのだが、相手は、間
違いなく幻十郎を狙って
きた。
ここは、どうしても笠岡
の話を聞く必要がある。
もし、最初から幻十郎の
命を奪う事が目的ならば
、このまま笠岡の屋敷に
行く事は飛んで火に入る
夏の虫に近い。
しかし、幻十郎には、笠
岡から命を狙われる覚え
はトントない。
むしろ、今日まで仲良く
やってきたぐらいだ。
その笠岡が急に幻十郎の
命を狙いだした・・裏を
知りたくなるのは人情と
いうものだ。
だいいち、笠岡の器で、
あれだけ手練の浪人を一
時に集める事などできな
いだろうし・・
裏で糸引く男をどうして
も見つけてみたい、元来
の好奇心がむずむず騒い
でしかたがない。
笠岡の屋敷に行けば、は
っきりする。
幻十郎は、足早に、笠岡
の屋敷に向かった。
奉行所から少し離れたと
ころで、息せききって走
ってくる男に出会った。
道場着を着こんでいるの
で、どこぞの門下生か。
少し見覚えのある面構え
だが・・
そう、いぶかしんでいる
と、一時は通り過ぎた男
が、慌てて戻ってきた。
「あ・・やはり幻十郎殿
だ。これはよかった。
大変です、みさとさん
が一大事なんです」
「みさと殿が?」
みさととは、若くして、
女だてらに道場を切り盛
りしている、女剣士だ。
幻十郎もこの道場の門下
生で、その昔、道場の跡
目騒ぎでやめた経緯があ
った。
「道場破りです」
「道場破り?、しかし、
みさと殿の実力ならば
、そうそう遅れをとる
相手もいませんでしょ
うに」
みさとの腕は、幻十郎が
認めるほどの腕前だ。
そこいらの生半かな腕で
立ち向かえば、まずは叩
き伏せられる。
それよりも、みさと殿が
立ち会わずとも、あの道
場には、四天皇と呼ばれ
る剛の者がいるはずだ。
たかが、道場破りでさほ
どうろたえる必要もなか
ろうに。
「大前さんが打ちすえら
れまして、他に四天皇
の方がおられず、今み
さと様が直接お相手さ
れているのですが・・
形勢が・・」
大前は、四天皇の一人だ
、その大前がやられたと
なると、相手はそうとう
の手練。
たしかに、みさとでも危
ないかも知れない。
二人は、急いで道場に向
かった。
傷口が痛むかとも、思わ
れたが、こうして実際に
走ってみると、まったく
痛まない。
それよりも驚くのは、身
体が妙に軽いのだ。
まるで、跳ねるように走
る事が出来、気がつけば
、幻十郎のみが一人、道
場に先着してしまった。
遅すぎるかも・・・との
懸念もあったが、幸い、
まだ、道場からは激しい
気合の声が飛んでいる。
間に合った。
安堵感が流れる。
道場内に入り、眺めると
二人は対座したままだ。
互いの息が荒いのは、相
当打ち合ったものと思わ
れる。
突然、頭の中に可愛い声
が響いた。
「腕をへし折るつもりだ
よ、あの男」
ん?・・幻十郎は頭を振
ってみた。
幻聴か?
「なにしてるんだよ、次
の気合であの男、突き
を繰り出し、倒れた女
の腕をへし折るつもり
だよ」
誰だ・・とは思ったが、
確かに言われてみれば、
間違いなくそんな雰囲気
が察しられる。
男が、木刀の切っ先をみ
さとの喉元に合わせた。
「みさとさん、突きがき
ますよ。喉元に、しか
も一の突きだけでなく
、続けて何度も」
幻十郎の叫びに、道場中
の視線が幻十郎に集まっ
た。
声の主が、幻十郎と知る
と、とたんに安堵感の空
気が広がった。
幻十郎の実力は道場の誰
もが知っていた。
「なんだお前は」
男が幻十郎を見据えた。
下卑た口元に、忌まわし
い過去が垣間見える。
人の生死で録を育んでい
る男だ。
幻十郎を襲った浪人者が
チラッと頭をかすめた。
「喪心流か」
道場中がざわめいた。
剣術に親しんでいるもの
ならば、一度は聞いた事
がある邪剣の流派だ。
またの名を刺客剣とも呼
ばれていた。
「名を名乗れ」
「お前の仲間を切った男
だ」
いきなり、男が木刀を投
げ捨てると、道場片隅に
置いてあった自分の剣を
つかむと鞘を投げ捨て、
白刃を幻十郎に向けた。
「立ち会え」
「傷を負った男は無事だ
ったか」
いきなり、男は切りつけ
てきた。
「貴様何をする、ここは
神聖な道場だぞ」
あちこちから、罵声が飛
んだ。
「待て、ここは私に任せ
てくれ」
みさとの目を見つめ、
幻十郎は目くばせで自分
の考えを示した。
幻十郎と男は道場の中央
に構えた。
「誰ぞも言っている。こ
こは道場だ。神聖な場
で貴公と真剣で立ち会
うことは出来ぬ。私と
立ち会いたければ、木
刀を持て」
「けっ、しゃらくさい」
男は、木刀に持ちかえる
と、ジリジリと幻十郎に
にじり寄った。
木刀の先を幻十郎に向け
いつでも突いてくる構え
だ。
興奮はだいぶ落ち着いた
ようだ。
このまま正確な突きを打
ち込まれたら、この身体
・・かわしきれぬやも・
・そんな弱気な思いがよ
ぎったとき、また可愛い
い声が頭の中を駆け巡っ
た。
(飛んで、あいつが来た
ら、思いきり飛んで上
から脳天叩き割ったら
、勝っちゃうよ)
「誰だ、お前は」
(今はそんな事詮索して
る暇ないでしょ。ほら
・・突いてくるわよ、
あの男、一突き目が勝
負だわ。飛んで、思い
きり飛んでみて、いい
から騙されたと思って
、とにかく飛んで!)
頭の中が、がなりたてる
正体不明の雄叫びで、一
杯になった時、最初の突
きが放たれた。
「たぁ!」
短い気合とともに、幻十
郎は思いきり飛びあがっ
た。
「おお!!」
道場中がどよめいた。
一番驚いたのは幻十郎だ
。
自分が思う飛びあがった
距離と、実際の距離があ
まりにも違ったからだ。
2間(3・6メートル)
程も跳躍したのだから、
幻十郎自身も驚いた。
うそだろ!
思わずつぶやく。
人間業じゃないぞ・・
これは。
それでも跳躍途中に、木
刀の切っ先を、男のこめ
かみに当てる事は忘れな
かった。
男は、もんどりうって転
がった。
額からは、うっすらと血
が一筋したたり落ちてい
た。
あまりにも高く飛び過ぎ
切っ先を、かろうじて男
に当てるのがやっとだっ
た。
しかし、この跳躍は男の
度肝を抜いた。
あきらかに戦意を喪失し
ている。
「く・・くそ・・覚えて
おれ」
なんとも間抜けな捨て台
詞を吐き捨てると、男は
こめかみに手を当て、よ
ろけるように道場から出
て行った。
みさとが、ススッと幻十
郎の傍に寄ってきた。
「幻十郎様・・」
素の女の声だ。
「すまぬ。いらぬ手助け
をしてしまい」
「いえ・・そんなことよ
り、今の技は・・どう
なされた。すごい跳躍
でございましたが、と
ても人技とは思えませ
ぬが」
驚いているのは、幻十郎
とて同じだ。
なんで急にあんな跳躍が
出来るようになったんだ
・・
(決まってるでしょ、私
が手助けしたんだよ)
又も、頭の中で声が響く
。
しかし、声の詮索は後回
しだ。
まずはみさとに、今の現
状を聞く必要がある。
「あの男に心当たりは?
」
「知りませぬ。いきなり
道場に現れ、門弟に因
縁をつけはじめ、見か
ねてとめに入った大前
様の胴に木刀をめり込
ませたのです。」
「道場破りにしては解せ
ませぬな」
「そう言えば、幻十郎様
、立会の最中、異なこ
とを仰せられておられ
ましたな」
みさとが思いだした風に
尋ねてきた。
「私の腕を折るつもりだ
とか」
「そうです。あの男、し
きりにみさと様の右腕
を打ちすえよう、打ち
すえようと、魂胆が見
え見えでしが」
「私も感じていました。
なぜ、私の右腕を狙う
んでしょうね」
「さあ、それは、私にも
わかり申さぬが、みさ
と様には、お心当たり
がありませんか」
みさとは、首を振った。
まったく身に覚えがない
のだ。
「それにしても、嬉しい
、幻十郎様が訪ねてこ
られるとは」
また、素の女だ。
まさか、門弟に連れられ
て来たとは、言いにくい
雰囲気だ。
嬉しそうに、乱れた髪を
束ね直すと、しっかりと
、幻十郎を見据えた。
純粋な乙女の顔が笑って
いる。
「お茶でもお入れします
」
「あ・・いや・・私はこ
の先用があって」
嘘ではない。
笠岡の屋敷に行かなけれ
ばいけない。
常磐津の師匠の件、落と
し所を探ってこなければ
いけない。
「駄目です。お茶は絶対
飲んでいってください
」
「わ・・分かり申した。
もちろんお茶は喜んで
頂きますよ」
こうなったら、お茶でも
飲まないと、到底この屋
敷から出してもらえそう
にない。
「世吉。お茶の用意をし
てください」
みさとが奥に向かって大
声を放った。
その声を合図に、場に居
合わせたそれぞれは、散
会し始めた。
「さ、幻十郎様、行きま
しょう」
「あ・・はい」