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毎朝、私を忘れてしまう婚約者様。それなのに、あなたは今日も私に求婚するのですね

作者: AI太郎
掲載日:2026/11/01

「勇者よ。お前に勝てぬと理解したとき、お前が一番何を嫌がるのか考えていた……それが今、ようやくわかった」


 邪悪に嗤う魔王は、そう言い残して息絶えた。


 勇者アレクシス・レインハルトが聖剣を引き抜くと、魔王の巨体が玉座の前に崩れ落ちる。轟音と共に城全体を震わせていた禍々しい魔力が薄れ、天井の裂け目から差し込んだ陽光が、血と埃にまみれた広間を照らしていた。


「……終わった、のですね」


 聖女セレナ・フィオーレは、まだ信じられない思いで呟いた。


 三年に及ぶ旅だった。


 魔物に襲われた村を救い、険しい山脈を越え、幾度となく死の危険にさらされながら、ようやく二人は魔王のもとへたどり着いたのだ。


 アレクシスは聖剣を鞘に収めると、セレナの方へ歩いてきた。


「終わったよ、セレナ。僕たちの勝ちだ」


「本当に……もう戦わなくていいのですね?」


「ああ。少なくとも、もう君に危ない思いをさせずに済む」


 差し出された手を取ると、アレクシスは彼女をそっと抱き寄せた。


 鎧は傷だらけで、肩口からは血が滲んでいる。セレナが慌てて治癒魔法を使おうとすると、彼は笑って首を振った。


「これくらい、少し休めば治るさ」


「ですが、、、」


「ふふふ、君は相変わらず頑固だね。じゃあ・・・お願いしてもいいかな?」


 セレナが手をかざすと、淡い光が傷口を包む。その光を見下ろしながら、アレクシスは少し照れくさそうに口を開いた。


「そうだ。帰ったら、結婚式の日取りを決めよう。国のみんなもそれぐらいの我が儘は許してくれるさ」


「そ、それは嬉しいですが……こんなときに?」


「こんなときだからだよ。君と一緒に暮らして、朝は同じ食卓でご飯を食べて、夜になったらおやすみって言える。そんな生活を、ずっと楽しみにしていたんだから」


 魔王を倒すという使命を背負っていても、アレクシスは時々、驚くほど普通の青年のようなことを言う。


 ・・・ただ、セレナは彼のそんな飾らないところが、好きだった。


「では、約束してくださいね。これからは、ちゃんとお休みになること。もう無理はしないで下さいね」


「もちろん。君も一緒にね」


 二人は魔王の最後の言葉など、すっかり忘れてしまっていた。


 それがどれほど残酷な呪いだったのか、まだ知る由もなかったのである。


     ◇


 翌朝、セレナは宿の食堂でアレクシスを待っていた。


 魔王城から帰還する途中の小さな町で、二人は一晩を過ごしていた。王都まではまだかなりの距離があるが、昨日までのように急ぐ必要はない。


 窓際の席には焼きたてのパンと温かいスープが並び、セレナは向かいの椅子にアレクシスの分の食器を用意していた。


 やがて階段から彼が降りてくる。


「アレクシス、おはようございます」


 セレナが手を振ると、アレクシスは足を止めた。


 彼は食堂をゆっくりと見回したあと、もう一度セレナへ視線を戻す。


「……おはようございます」


 普段とは違う、妙に丁寧な挨拶だった。


「どうかなさいましたか?」


「ああ、いや……すまない。どこかでお会いしたことがありましたか?」


 セレナは思わず笑ってしまった。


「もう、アレクシスったら。朝から冗談ですか?」


「冗談?」


 彼は困ったように眉を寄せた。


「本当に申し訳ないんだけど、君の名前を思い出せなくて。僕の知り合いなんだよね?」


 本当に何も分からない、と言いたげなアレクシスの表情を見たとき、セレナの笑みが消えた。


「……アレクシス?」


「君は僕のことを知っているみたいだけど……」


「私です。セレナですよ」


「セレナ……」


 彼は名前を繰り返したが、やはり思い当たるものがないらしい。


 セレナは慌てて席を立ち、彼の手を握った。


「私たちは三年間、一緒に魔王討伐の旅をしてきたではありませんか。昨日だって、魔王を倒して……」


「・・・魔王を倒したことは覚えているんだ。でも、君が一緒にいたことは覚えていない。僕は一人で魔王城に入って、一人で魔王を倒した」


 セレナは背筋が冷たくなるのを感じた。


 旅の途中で出会った仲間たちの名前を尋ねると、彼は正しく答えた。戦った魔物のことも、訪れた町のことも覚えている。


 ただ、その思い出の中にセレナだけがいなかった。


 彼が負っていた古傷について尋ねても、治してくれた「人」が誰だったのか思い出せないという。


「・・・あの、少し、調べさせてください」


 セレナは彼の額に手をかざし、浄化の魔法を使った。すると、頭の奥深くに絡みつくような、冷たい魔力の感触があった。


 それは、昨日まで存在しなかったものだった。


「……魔王の呪い?」


 セレナが呟くと、アレクシスも表情を険しくした。


「最後に何か言っていたな。僕が一番嫌がることが分かったとか……」


 その言葉を聞いて、セレナは胸元で両手を握りしめた。


 魔王は死の間際に、アレクシスに何かを残したのだ。


 彼女は何度も浄化魔法を重ねたが、呪いは少しも薄れない。聖女として多くの呪いを解いてきたはずなのに、これほどひどい呪いは初めてだった。


「ごめんなさい。今の私には……」


「謝らないでくれ。君が悪いわけじゃないんだから」


 アレクシスはそう言ってから、ふと不思議そうに彼女の顔を見つめた。


「ところで、セレナ」


「……はい」


「聞いてもいいかな。君は、僕にとってどんな人だったんだろう」


 セレナは彼の左手を取った。その薬指には、小さな銀の指輪がはめられている。それは魔王城へ向かう前、二人で選んだものだった。


「……わ、私はあなたの婚約者です」


「婚約者?」


「はい。魔王を倒したら結婚しようと、約束していたんです」


 アレクシスは驚いたように指輪を見下ろし、そして、なぜか少し嬉しそうに笑った。


「そうか。それは……僕はずいぶん幸運な男だったんだな」


「……え?」


「だって、太陽みたいな君が婚約者なんだろう?」


 思いがけない言葉に、セレナは返事を忘れてしまう。


「あ、すまない。こんな状況で言うことじゃないよな。でも、初めて見たときから、ずっと君のことを綺麗だと思っていて……」


「初めて、ですか?」


「僕にとっては、そうなんだ。変な話だけど」


 彼は照れくさそうに笑っていた。


     ◇


 王都へ帰還した二人は、教会や王宮の魔導師たちに協力を求めると、勇者にかけられた呪いは、やがて特殊な記憶干渉の魔法だと判明した。


 アレクシスが夜の眠りから目覚めるたび、セレナに関する記憶が失われる。彼女の名前も、姿も、一緒に過ごした時間も、翌朝には思い出せなくなるのだ。


 セレナは何度も解呪を試みた。


 大聖堂に伝わる古い術式も、聖水による浄化も、魔王の呪いには効果がなかった。それでも諦めることはできず、魔法の研究書を読み漁った。


 そんな日々が続くうちに、一つの奇妙な出来事が、二人の間で繰り返されるようになった。


 アレクシスは毎朝、セレナに一目惚れするのである。


 ある朝、セレナが居間へ入ると、アレクシスは読んでいた新聞を置き、しばらく彼女を見つめていた。


「……どうかなさいました?」


「すまない。失礼なことを聞くかもしれないけど、君はこの屋敷の人?」


「はい。セレナと申します」


 セレナは彼の向かいへ腰を下ろした。


「そして、あなたの婚約者でもあります」


「婚約者!?」


 驚いたアレクシスは自分の指輪を確かめ、それからセレナの左手を見る。そこには確かに同じ銀の指輪があった。


「なるほど。そういうことか」


「……信じてくださるのですか?」


「ああ。もちろんだよ。それに……」


 彼は少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「君のような人が婚約者だなんて言われたら、信じたくなるじゃないか」


 その日、二人は一緒に朝食を食べ、庭を散歩した。夕方になる頃にはアレクシスもすっかり打ち解け、セレナの隣で楽しそうに笑っていた。


「セレナ。明日も一緒に朝食を食べよう」


「……はい」


「君が好きなものを用意するよ。何がいい?」


「温かいスープが好きです」


「分かった。覚えておく」


 アレクシスはそう約束した。



 ・・・けれど翌朝、彼は何も覚えていなかった。


 セレナが食堂へ入ると、アレクシスは彼女を見て目を丸くした。


「おはようございます。……ええと、申し訳ないのですが、どちら様でしょう?」


 その言葉を聞いた瞬間、セレナは昨日の約束を思い出した。温かいスープを用意してくれると言っていたこと。


 明日も一緒に食事をしようと、楽しそうに笑っていたこと。


 それを覚えているのは、自分だけだった。


「……セレナと申します」


 彼女が答えると、アレクシスは昨日と同じように微笑んだ。


「セレナ。綺麗な名前だね。そうだ!実は、スープを作ったんだ!是非一緒に食べていかないかい?」


 セレナは笑顔を返しながら、テーブルの下で手を握りしめた。


 それからも、似たような朝が続いた。


 ある日は寝癖を直していないままセレナに見惚れ、別の日には彼女の姿を見るなり「どうかお名前を教えてください」と真剣な顔で頼んできた。


 初めての出会いだと思っている彼にとっては、どれも精一杯の告白だったのだろう。


「セレナさん。よろしければ、今度一緒に食事でもいかがですか?」


「まあ、勇者様。昨日も一緒に食べたではありませんか」


「……昨日?」


「ふふっ。ごめんなさい、こちらの話です」


 そう言って笑うと、アレクシスは不思議そうにしながらも、嬉しそうに笑い返してくれる。


「おやすみ、セレナ」


「……おやすみなさい、アレクシス」


 寝室の前で交わす、何気ない挨拶。


 しかし、今は違う。明日の彼は、今日の出来事を何も覚えていない。今日一緒に笑ったことも、散歩をしたことも、彼女の手を握ったことも。


 すべてが、眠りとともに失われてしまう。


 セレナは彼の寝室の扉を閉めると、しばらくその場に立っていた。


 勇者が無事に帰還したことを、国中の人々が喜んでいる。


 魔王が滅び、平和な時代が訪れたのだから、それは当然のことだ。けれど彼女は時々、あの玉座の間に戻れたらと思ってしまう。


 魔王が最後の言葉を口にしたとき、すぐに呪いを防ぐことができていたら。


 ・・・あるいは魔王を殺さなければ。


 そんなことを考えても、何も変わらないと分かっている。


 ただ、毎晩訪れる愛する人との永遠の別れとともにに、セレナの心は少しずつ摩耗していた。


     ◇


 魔王討伐から一か月が過ぎた頃、セレナはアレクシスの寝室で一冊の日記を見つけた。


 解呪について新しい資料が届いたため、彼に知らせようと部屋を訪れたのだが、机の上に開いたままの本が置かれていたのである。


 セレナは読まずに閉じようとしたが、日記に自分の名前があるのを見つけ、手を止める。


 表紙には、見慣れた字で『明日の僕へ』と書かれていた。思わずページをめくり中身を確認する。


『今日も、セレナに恋をした。』


 思わず目を見開いた。


 その下には、昨日の日付が記されている。


『朝、彼女を見たとき、どうしてこんなに綺麗な人が僕の前にいるんだろうと思った。婚約者だと聞いて驚いたけど、正直、すごく嬉しかった。』


『セレナは、僕たちが三年間一緒に旅をしたと言っていた。残念ながら何も覚えていない。でも、話していると楽しくて、もっと彼女のことを知りたいと思った。』


 セレナはゆっくりとページをめくった。


 そこには、その前の日の出来事も書かれていた。


『今日のセレナは、庭の花が咲いたと喜んでいた。僕には彼女がどうしてそんなに嬉しそうなのか分からなかったけど、一緒に見ていたら、なんだか僕まで嬉しくなった。』


『彼女が笑ってくれると、安心する。僕は昨日のことを覚えていないけれど、今日の僕が彼女を好きだと思っていることは間違いない。』


 日記は一か月分に及んでいた。


 恐らく、アレクシスは毎晩この日記の存在に気付き、その日の出来事を記録していたのだ。


 彼女と何を話したのか

 どんな食事をしたのか

 どんなことで笑ったのか


 そこには、セレナ自身が忘れかけていたような些細な出来事まで書き残されていた。そして、どの日の日記にも、彼女への想いが綴られていた。


 セレナは一枚のページで手を止めた。


『今日、セレナが泣いているのを見た。僕には理由を言ってくれなかったけれど、きっと僕の呪いが関係しているのだと思う。』

『僕は明日になったら今日のことを忘れてしまう。彼女は、それを全部覚えている。』

『もし明日の僕がこの日記を読んだなら、どうかセレナを気遣ってほしい。無理に笑ってもらわなくてもいい。彼女が疲れているなら、休ませてあげてほしい。』


「……どうして、」


 誰もいない部屋で本を閉じて呟く。


 アレクシスは、彼女が思っている以上に多くのことを考えていたのだ。


 記憶を失うのはアレクシスなのだから、苦しいのは彼の方だと思っていた。だからこそ、セレナは弱音を吐かずにいたのだ。


 けれど彼もまた、毎日初めて出会う女性が、自分のせいで泣いていることに気付いていたのである。


 日記を抱えたまま、セレナはしばらく動けなかった。


 しかし、同時に一つの疑問が浮かんでいた。


 アレクシスは、毎朝すべてを忘れてしまう。昨日の約束も、これまでに積み重ねてきた思い出も、彼の中には残らない。


 それなのに、自分は彼の婚約者として、当然のように隣にいる。


 ー魔王を倒したら結婚するー


 それは二人で交わした約束だった。でも、その約束を覚えているのは、今やセレナだけ。


 アレクシスは毎朝、彼女を好きになる。


 それは嬉しいことだ。しかし、その気持ちが本当に彼自身のものなのか、それとも自分が婚約者だと名乗ることで、無意識に彼を縛りつけているのか。


 セレナには、分からなくなっていた。


     ◇


 その日の夕方、セレナは庭のベンチに座っていた。


 秋の風が少し冷たくなり始め、花壇の白い花が揺れている。


 アレクシスはしばらくして庭に現れ、彼女の隣へ腰を下ろした。


「ここにいたんだね。探したよ」


「……ごめんなさい」


「謝ることじゃないさ。部屋に行ったらいなかったから、散歩にでも出たのかと思っただけだよ」


 アレクシスはそう言って笑った。


 今朝も彼は、自分のことを覚えていなかった。そして昼食の頃には、もう彼女と一緒にいることを楽しんでいた。


 その変わらない態度が、今は少しだけ苦しかった。


「アレクシス。お話ししたいことがあります」


「何だい?」


「……私たちの婚約についてです」


 セレナは膝の上で手を重ね、ゆっくりと言葉を選び紡いでいく。


「私は、あなたと結婚するつもりでした。魔王を倒したら、二人で一緒に暮らそうと約束していたのです」


「ああ。もちろん僕もそのつー」


「・・・ですが、その約束をしたときのあなたは、もういないのかもしれません」


 アレクシスが言いかけた言葉を遮り、ずっとため込んでいて思いを吐き出す。


「今のあなたは、私との思い出を何も覚えていないでしょう? それなのに、昔の約束を理由に婚約者でいてもらうのは、あなたにとって負担なのではないかと思うのです」


「……セレナ」


「アレクシス。私はあなたとの婚約を破棄します。」


 言い終えると、セレナは俯いた。


 本当は、そんなことを言いたくなかった。


 彼と結婚したかった。


 一緒に暮らして、もしかしたら子どもが生まれて、二人で年を取っていく未来を何度も想像していた。 けれど、その未来はアレクシス自身が望んだものでなければならない。


 自分だけが覚えている約束を守らせるために、彼をそばへ置いてはいけないと思った。


 しばらくして、アレクシスが口を開いた。


「……一つ、聞いてもいいかな」


「はい」


「セレナは、僕と一緒にいることが嫌になったのかな?」


 セレナは顔を上げた。


「い、いいえ!そんなことはありません!!」


 思わず出た大きな声に、アレクシスが目を丸くしているのを見て、セレナは慌てて声を落とした。


「ご、ごめんなさい。でも、違うのです。私は、あなたと本心から別れたいわけでは……」


「だったら、どうしてそんなことを言うんだい?」


「・・・あなたが、私を覚えていないからです」


 アレクシスはしばらく考え込んだ。それから、少し困ったように笑う。


「確かに、僕には君との思い出がない。正直に言うと、魔王を倒すまでの三年間を君と過ごしたと聞いても、まるで他人の話を聞いているみたいなんだ」


 セレナは黙って頷いた。


「でも今日の僕が君を好きだと思っていることは、絶対に嘘じゃない。」


「……え?」


「確かに僕は今朝、君に会ったばかりだ。昨日のことも、その前のことも覚えていない。でも、君を見た瞬間、綺麗な人だなと思った。それで話してみたら、もっと一緒にいたくなったんだ」


 アレクシスは、いつもと同じように真っ直ぐな瞳で彼女に向き直った。


「……ですが、明日のあなたは、また私を忘れてしまいます」


「ああ。そうだね」


「それでも、いいのですか?」


「よくはないよ」


 セレナが顔を上げると、アレクシスは苦笑していた。


「毎朝、好きな人のことを忘れてしまうなんて、嫌に決まってる。君と過ごした時間を、僕だって覚えていたいさ」


 彼は自分の左手に目を落とした。


 銀の指輪が夕陽を受け、淡く輝いている。


「でも、覚えていないからといって、今の気持ちまで偽物になるわけじゃないだろう?」


「それは……」


「僕は君に無理をしてほしくない。だから、もし本当に疲れているなら、婚約を解消してもいいと思う」


 アレクシスは少しだけ寂しそうに笑った。


「ただ、君が僕と一緒にいたいと思ってくれるなら、僕は嬉しい。今日の僕は、君と結婚したいと思っているんだから」


「アレクシス……」


「もちろん、出会って一日で求婚するなんて、我ながら気が早いとは思うけどね」


 セレナは思わず笑ってしまいアレクシスもつられるように笑ったが、すぐに真剣な顔に戻った。


「明日の僕がどうするかは、今の僕には分からない。でも、毎日君を好きになるのなら、そのたびにちゃんと気持ちを伝えたい」


「……毎日、ですか?」


「ああ。君が嫌でなければ」


 彼は少し照れくさそうに続けた。


「それに、君は僕のことを三年も知っているんだろう? 僕だけ毎朝初めての出会いになるなんて、少しずるいじゃないか」


「ふふっ。それは、どういう意味ですか?」


「僕は毎日、君を口説くところから始めなきゃいけない。君はその様子を全部覚えていて、僕がどんな失敗をしたかも知っているんだろう?」


「……ええ。そうですね」


「だったら、せめて毎朝、僕にもう一度口説く機会をくれないかな」


 セレナは彼の顔を見つめた。


 その目は、三年前に初めて出会ったときと同じだった。


 あの頃のアレクシスも、セレナの顔を見た途端に言葉を失い、しばらくしてから名前を尋ねてきた。そして、何度も会ううちに親しくなり、やがて恋人になった。


 彼は今、その過程を何も覚えていない。


 それでも、目の前の彼は同じようにセレナを見つめている。


「……私、怖かったのです」


 セレナはようやく言葉にした。


「あなたが私を忘れてしまうことが、ずっと怖かった。毎朝、知らない人を見るような顔をされるたび、もう私の知っているアレクシスはいなくなってしまったのではないかと思って……」


 アレクシスは黙って聞いていた。


「でも、あなたは毎日、私を好きになってくださるのですね」


「ああ。宣言しよう。僕は、毎日君にプロポーズする!」


「どうしてなのですか?」


「どうして、か」


 彼は少し考えたあと、首を傾げた。


「ごめん。うまく説明できないな」


「……ふふっ」


「笑わないでくれよ。本当に分からないんだ。君を見た瞬間に好きになってしまったんだから、理由なんて聞かれても困るよ」


 ・・・そうだった。


 この人は、最初からそういう人だった。


 初めて会ったときも、どうして自分が好きなのか尋ねると、同じように困った顔をしていた。立派な勇者様なのに、恋愛のことになると驚くほど不器用で、けれど自分の気持ちには真っ直ぐだった。


「……では、一つお願いしてもよろしいですか?」


「もちろん」


「明日も、私に会ってください」


 アレクシスは一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「そんなの、お願いされなくても会いに行くさ」


「それから、もし明日のあなたが私を好きになってくれたら……」


「うん」


「そのときは、また私を口説いてください」


 アレクシスは嬉しそうに頷いた。


「任せてくれ。明日の僕にも、君を好きになる才能くらいはあるはずだからね」


 セレナは笑いながら、彼の肩に頭を預けた。アレクシスは少し驚いたようだったが、やがてそっと彼女の手を握ってくれた。


 その温かさは、昨日までと何も変わらなかった。


     ◇


 その夜、セレナが寝室へ向かうと、アレクシスは机に向かっていた。


 彼は日記を書き終えたところらしく、羽根ペンを置いて顔を上げた。


「セレナ。ちょうどよかった」


「何をなさっていたのですか?」


「ほら!見てくれ!机の中にこんなものが!明日の僕への手紙だよ!・・・でも机の中に入れておくのはいただけないな!そのせいで朝は気付かなかったんだ。たぶん、昨日までの僕は、この日記をみられるのが恥ずかしかったんだろうね!」


 セレナは机の上を覗き込んだ。


 日記の最後には、新しい文章が書き加えられていた。


『明日の僕へ。今日、セレナと大切な話をした。彼女は僕のことを心配して、婚約を解消してもいいと言ってくれた。でも、僕は彼女が好きだ。』


『君はきっと、朝になったらセレナを忘れていると思う。だから、もし彼女に会ったら、まずは自分の気持ちを確かめてほしい。』


『それから、もし彼女を好きになったなら、ちゃんとその思いを伝えてあげてほしい。セレナは毎朝、僕に忘れられることを悲しんでいる。だから、君が彼女と一緒にいたいと思ったなら、遠慮せずに言ってほしいんだ。』


 セレナは最後まで読んでから、アレクシスへ目を向けた。


「……こんなことまで書いてくださったのですか?」


「明日の僕は、今日の話を覚えていないからね。でも、せめて、君がどんなことを考えているのか、少しでも知ってほしくて」


 アレクシスは日記を閉じた。


「もちろん、全部読んでもらえるとは限らないけど」


「……ありがとうございます」


「礼を言われるようなことじゃないよ。僕がそうしたかっただけなんだから」


 これまでは、夜になるのが怖かった。


 どれほど楽しい一日を過ごしても、翌朝には彼がすべて忘れてしまうのだから。


 けれど、今日は少しだけ違う。


 彼は私に関わる全ての記憶を朝日が昇ると共に忘れてしまう。


 それでも、今日の彼が感じたことは、確かにここに残っている。そして明日の彼が、また新しい気持ちで自分と向き合ってくれるのなら、それでいいのかもしれない。


「・・・アレクシス」


「何だい?」


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。君と過ごせて楽しかったよ」


 セレナはその顔を見つめながら、ようやく自然に言葉を返すことができた。


「おやすみなさい、アレクシス。また明日」


「ああ。おやすみ、セレナ。また明日」


 アレクシスは彼女の額にそっと口づけた。


 セレナは頬を赤らめながら部屋を出たが、廊下を歩く足取りはいつもより軽かった。


 明日になれば、彼はまた自分を忘れてしまう。


 呪いを解く方法も、まだ見つかっていない。それでも、明日が来るのを怖がってばかりいる必要はないのだと思えた。


     ◇


 翌朝。


 セレナはいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外では小鳥が鳴き、庭には朝露が降りている。


 彼女はいつも通りに身支度を整えると、鏡の前で髪を梳かした。


 今日はどんな顔で会おうかと考え、少しだけ迷う。


 昨日までのように、何事もなかったかのように挨拶するのもいい。


 あるいは、初めて出会う相手として、きちんと自己紹介をしてみるのも楽しそうだった。


 そんなことを考えている自分に気付き、セレナは思わず笑ってしまう。


 ・・・昨夜までは、彼が目覚めることを恐れていたのに。


 今朝は、どんな言葉を聞かせてくれるのか楽しみにしている。


 その変化が、彼女自身にも不思議だった。


 廊下へ出ると、アレクシスの部屋から物音が聞こえた。


 どうやらもう起きているらしい。


 セレナは扉の前に立ち、軽くノックした。


「はい、どうぞ」


 聞き慣れた声が返ってくる。扉を開けると、アレクシスは窓際の机に座っていた。その手には、昨日の日記が握られている。


 彼は顔を上げ、セレナの姿を見た。


 彼は一瞬初めて見る女性に出会ったように、少し驚いた顔をする。しかし、次の瞬間には何かに気付いたかのようにゆっくりと微笑んだ。


ーああ、今日もこの人は、私を好きになってくれたのだー


 彼は日記を閉じ、椅子から立ち上がった。


「おはよう。君が、セレナだね?」


「・・・はい」


 セレナは部屋へ入ると、彼の前で足を止めた。昨日までなら、彼が自分の名前を覚えていないことに傷ついていたかもしれない。


 けれど今は、そのことを悲しいとは思わなかった。


 彼女はにっこりと笑い、両手を後ろで組んだ。


「おはようございます。勇者様! さあ、新しい出会いを始めましょう? 今日はどういう風に口説いてくれるんですか?」


 勇者はまるで太陽を見るかのように目を細めて笑った。


「今日も一目惚れをしてしまいました。僕と結婚をして下さいませんか?」

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