追放された郵便魔女は、配達不能を届ける 〜第0話〜
高棚共同区の風標は、二基とも灯を失っていた。
石積みの塔の先端に嵌まった導風石は、色を抜かれた硝子のように白く濁っている。空を見上げる。かつて淡い光の帯を描いていた風路は、細く途切れ、夕方を待つ空へ溶けかけていた。中継塔も停止しており、高棚風路は郵便経路として正式に閉鎖されている。
閉鎖されたのは風路であって、町ではない。尾根を巻く細い山道を使えば、麓との往来はいまも可能だ。ただし半日かかる。
クラリスは箒の高度を落とした。
配達に来たのではない。経路票にはこう記されている。
新規郵便物の受付を禁ずる。
共同区発着便を終了する。
残置物の回収のみを行う。
最終確認便。郵便制度が、この町から手を引くための最後の手続きだった。
クラリスはもう一度だけ消えた風標を見上げ、それから共同区へ降りていった。
町は生きていた。
家々の煙突からは煙が上がり、段々畑には腰を折って働く人影がある。石垣の隙間に洗濯物が翻り、どこかで犬が吠えた。郵便制度の上では閉鎖された場所だが、暮らしが消えたわけではない。
クラリスが石段を上がっていくと、住民たちが手を止めた。遠巻きに、けれど確かにこちらを見ている。
若い男が家の中から封筒を持って出てきかけ、隣の女に袖を引かれた。
「もう、受け取ってはもらえない」
聞こえていた。クラリスは足を止めず、受付所の扉を開けた。
受付箱は空だった。帳簿の最終頁には、朱の閉鎖印が押されている。回収対象の郵便袋は、前任者の手できちんと畳まれ、紐で括られていた。
記録欄に確認済の印を入れる。それで、この町での郵便の歴史は終わるはずだった。
背後で、床板が鳴った。
老婆が立っていた。厚みのある公用封筒を、両腕で抱えている。
「これを、中央局へ」
クラリスは受け取ろうとして、手を止めた。宛先と、封筒の隅の期限印に目を落とす。
高棚共同区の風路閉鎖および郵便取扱終了に対する、異議申立書。
「明日までですね」
「はい」
老婆は答えたが、封筒から手を離さなかった。
「麓の受付所へは、孫が運びました。断られはしませんでした。ただ、受け付けることはできる、期限までの配達は保証できない、と」
「陸路では、ですね」
「風路は閉じられました。もう郵便魔女は来ない。明日までに中央局へ届ける方法はない、と言われました」
老婆は、クラリスが回収のために来ただけだと理解していた。だから頼みながら、渡してよいのかを迷っていた。皺の寄った指が封筒の端を握り直し、それから、震えた。
「私たちを、見捨てないでください」
クラリスは封筒を受け取った。重さがある。何人分もの署名が入っているのだろう。
「配達不能では、ありません」
顔を上げずに、言った。
「困難なだけです」
そして、姿勢を正した。
「配達困難郵便、承りました」
携行受付帳を開く。
だが、通常の受付番号は発行できなかった。高棚共同区はすでに郵便取扱区域から外されており、経路票の上では、発地となる局が存在しない。存在しない場所から、郵便物は出せない。
クラリスは頁をめくり、回収業務用の記録欄を使った。
差出人。宛先。受領時刻。期限。配達経路――未定。
正式な受付ではない。
それでも最後に、自分の局員番号と署名を書き入れた。空欄にはしなかった。
控えを切り取り、老婆に渡す。
「届くのでしょうか」
「必ず」とは言わなかった。
「お預かりしました」
それだけを返し、受付帳を閉じた。
町を出る前に、経路と時刻を確かめた。
いまは午後。山道を降りて麓に着くのが日没過ぎ。集配所で一泊、地上便に載せて、中央局到着は早くて二日後。
間に合わない。
現役の風路へ迂回する案も、頭の中で組み立てて、畳んだ。最寄りの風標まで山を越えるだけで、期限を使い切る。
明日までに中央局へ届く経路は、ひとつしかなかった。
閉鎖された、高棚風路。
かつてなら、中央局近郊の中継塔まで数時間だった。いまは風標も中継塔も止まり、経路維持も行われていない。経路票には、太字ではっきりと進入禁止とある。
クラリスは風標の下に立ち、箒に取り付けた風路針の蓋を開けた。
針は正規経路を示さない。だが、完全に止まってもいなかった。
灯りを失った空の方角へ、わずかに引かれている。閉鎖から日が浅い。風路の残留が、まだ消えきっていない。
使える風路ではない。しかし、何もない空でもない。
「その道は、もう閉じられたのでは」
住民の一人が、恐る恐る声をかけた。クラリスは否定しなかった。
「閉鎖されています」
老婆が、受付証を両手で握ったまま尋ねた。
「では、どうやって」
クラリスは風路針を見た。
「まだ、残っているものがあります」
飛び立つ前に、やることがあった。
封筒を防水布で二重に包み、郵便鞄のいちばん奥へ差し込んで固定する。留め具を掛け、指で引いて確かめ、もう一度掛け直す。外套の前を上まで閉じ、黒手袋の手首を締める。箒の固定具を、前後とも点検する。
空はすでに色を変え始めていた。閉鎖風路に誘導灯はない。日が落ちれば、残った風路の光は夜空へ溶ける。見失えば、戻るための灯りもない。
それでも山道を降りれば、明日には届かない。
クラリスは経路票を取り出し、進入禁止の表示を指でなぞってから、静かに折り畳んだ。破りも、捨てもしなかった。違反であることを承知したまま、鞄へしまう。
箒に跨がる。
住民たちは、期待を言葉にできずに立っていた。老婆だけが、受付証を胸の前で持っている。
クラリスは地面を蹴った。
風標の補助がない。箒はすぐには高度を得られず、横風に押されて一度沈んだ。爪先が石垣をかすめる。それでも残った流れを拾い、少しずつ、少しずつ上がっていく。
眼下で、高棚共同区が小さくなっていった。煙突の煙が細くなり、畑の畝が線になり、やがて灯りだけが残る。
前方に、風路の灯りはない。中継塔も応答しない。
あるのは、消えきらずに残った道と、明日までに届けるべき一通だけだった。
配達不能ではない。
少し、困難なだけだった。




