旧寮~高校応援団の夏合宿、禁じられた肝試し~
高校時代、本当にあった話です。
毎年夏になると思い出す。
セミの声。灼熱のコンクリート。炭火の匂い。そして、グランドの端に佇む古い木造の建物と、一本の柳の木。
「行くなと言われた場所には、行くな」。当たり前のことです。しかし高校生というのは、止められると行きたくなる生き物で。あの夏の俺たちも、例外ではありませんでした。
九州の片隅にある高校の応援団。灼熱の合宿。そして、絶対に行ってはいけないと言われた旧寮。霊感などというものを信じていなかった俺が、あの夏に体験したことを、できるだけそのまま書き残しておきたいと思います。
あの夜のことを、俺はたぶん一生忘れない。
*登場人物の名前はすべて仮名です。
第一話 トランプ占いと昭和の運動部
昼休みの教室は、いつもざわついている。
窓の外には長崎の初夏の空が広がり、セミの声が遠くからかすかに聞こえていた。俺の名前は今崎裕也、その日はある作戦があって、自分の机の上にトランプを広げ、十字の形に一枚ずつ丁寧に並べていった。
きっかけは、男子高校生が読む雑誌の片隅に書いてあった一文だった。「女の子は占いが好き。簡単な占いを覚えれば自然と女の子が寄ってくる」。それだけの理由で、俺は図書館で占いに関する本を探した。見つけたのがカード占い、ケルト十字展開法なる方法だ。喜び勇んで俺はその手順を調べ、一生懸命に覚えた。本来はタロットカードを使うみたいだが、俺は持っていない。だから普通のトランプで代用した。
数字と絵柄を組み合わせて、そこから浮かんでくるイメージを言葉にする。それだけだ。理論なんてない。ただ、カードをめくる瞬間に何かが頭の中に「浮かんでくる」感覚があった。それを口にするだけだった。
最初の練習台は、隣の席の田中だった。
「なんかやってんのか、今崎」
「占いだ。練習台になってくれ」
田中はにやにやしながらも椅子を引いて向かいに座った。俺はトランプを十枚、裏を上にして十字の形に並べ、その右側に五枚一列に並べる。それから手順に従って一枚ずつめくりながら言葉を選んだ。数字とマークの組み合わせが、頭の中でじわりとイメージに変わっていく。少しおごそかな態度で俺は話しかけた。
「田中、最近お前、誰かと気まずくなってるだろ。自分から謝るのが正解だと思うぞ」
田中の顔が一瞬固まった。
「……なんで知ってんだよ」
俺にも分からなかった。ただカードから「浮かんできた」だけだ。
それが噂になるのに、さほど時間はかからなかった。
翌日の昼休み。俺の机の周りにいたのは、女子ではなかった。坊主頭の男たちだった。柔道部が三人。野球部が二人。その後ろに剣道部が一人。全員が腕を組んで「俺も占ってくれ」という顔で俺を見ていた。
「……なんで運動部ばかり集まってくるんだ」
誰も答えない。全員が真剣な目をしていた。
しかたなく、俺は一人ずつ占った。占うたびに「すごい当たってる」「お前すごいな」という声が上がり、それを聞きつけた別の坊主頭がまた寄ってきた。女の子が寄ってくるどころか、俺の机の周りはいつしか体育会系の男たちで埋め尽くされた。
目論見は完全に外れ。こいつらのせいで俺の当初の計画は破綻した。
ただ、俺自身には一つだけ引っかかることがあった。なぜ当たるのか、自分でも全く分からなかった。理屈ではなく、何かが「見える」感じ。それが何を意味するのかは、この時の俺にはまだ分からなかった。
そんなある日の昼休み、廊下ですれ違ったのが野中先輩だった。
野中先輩は三年生で、俺と同じ応援団に所属している。日頃は厳しいが後輩思いで、基本的に尊敬できる人だ。しかし少し変わったところがある。「第六感が強い」と団内では言われていた。
廊下を歩いていると、前から野中先輩が歩いてきた。すれ違いざまに先輩が足を止めた。俺も立ち止まって「押忍」と頭を下げる。
先輩は何も言わなかった。ただ、じっと俺の顔を見ていた。
「何ですか?」と聞いたが、返事はなかった。先輩はもう一度だけ俺を見て、そのまま静かに立ち去った。
なんだったんだ、あれは。俺は首をかしげながら廊下を歩いた。先輩の目が、何かを確認するような目だったことだけが、妙に頭に残った。
トイレに呼び出されたのは、その翌日のことだった。
「今崎、ちょっと話がある」
昼休みに廊下で声をかけてきたのは同期の古賀だった。同じ応援団の一年生で、喧嘩っ早いがお調子者で憎めないやつだ。しかし今日の古賀の顔は、いつもと少し違っていた。どこか憮然として、視線が定まっていない。
連れられてトイレに入った瞬間、古賀はいきなり俺の胸ぐらをつかんだ。
「お前、京子のことをどう思っている?」
京子というのは、同じ応援団の一年生チアリーダーだ。おとなしくて健気な子で、激しいチアの動きに精いっぱいついていく姿が印象に残っている。俺は古賀の手を払いのけるでもなく、正直に短く答えた。
「別に何も」
古賀は一瞬だけ俺の目を見た。それから「そうか」とだけ言って、すっと手を離し、どこかへ行ってしまった。
残されたトイレで、俺は一人立っていた。
古賀が京子のことを好きだということは、何となく分かっていた。だからこそ「そうか」の一言が、妙に重く聞こえた。怒鳴りもせず、詰め寄りもせず、ただ「そうか」と言って去っていった古賀の背中が、しばらく頭から離れなかった。
応援団の夏合宿は、毎年夏休みを利用して一週間ほど行われる。
練習はもっぱら校舎の屋上で行われた。夏場の屋上は人が立ち入る場所ではない。どこまでも遠く広がる青空から灼熱の太陽が降りそそぎ、ひび割れたコンクリートが肌を焦がすような熱気を放っている。その上に、空手着をまとった団員総勢二十名が裸足のまま横一列に整然と立ち並ぶ。
天を衝く太鼓の音と漢たちの蛮声。校歌・応援歌・三三七拍子を舞う凄まじい演武。激しい稽古の中、怒号が飛び交う。
「貴様らー、手が挙がっとらんぞ」
「押忍っ!」
「声、出っせーっ!」
「押忍っ!」
団長の牧本先輩が隊列の前を横切りながら、一人ひとりの動きに目を光らせる。やがて俺の前で足を止めた。
「今崎、声が小さい!」
「押忍っ!」
「もっと腹の底から出さんかい!」
「ぅおぉーっす!」
「まだまだやな、よう聞いとけ」
団長が俺の前に立ち、直立姿勢をとった。足を広げ前かがみとなり、両手を交差させ帯を締める動作をしたかと思うと。
「ぅおおおおーっっっす!!!!」
咆哮が屋上の床面から校舎全体に響き渡り、向かいにある校舎の窓ガラスが共鳴して振動した。俺はぎゅうっと眼をつむり、肩口をすぼめた。幹部を含めた団員たちも身が引き締まり、直立不動を崩さない。
だが俺は、他の一年生とは少し違うものを感じていた。恐れや圧倒とは別の何か。団長の咆哮の奥に、言葉では説明できないものが宿っている。そんな気がして、俺はその感覚をうまく飲み込めないまま、ただ直立していた。
練習の後、古賀が声をかけてきた。
「今崎、牧本団長の気合い、迫力あったなー。正直ビビッただろ」
「おう、魂が揺さぶられるっていうのは、こういうことだな」
池上が興奮した様子で割り込んできた。
「古賀、そう言うお前の肩もプルプルしてたぞ。俺は今崎の隣に立っていたけど、魂が吹っ飛ばされたよ。牧本団長が『本物の気合いは全ての邪念や迷い、一切のしがらみを吹き飛ばす』と言われるのも、よく分かるな」
古賀と池上がしゃべり続ける中、俺は少し遠い目をしていた。
「今崎、お前ぼーっとしてんな」
古賀に言われて我に返った。
「いや……、なんでもない」
団長の咆哮の余韻が、まだ体の奥にあった。それが何なのかを、俺はうまく言葉にできなかった。
第二話 バーベキューの夜、そして禁忌
合宿が始まって二日目の午後、練習の合間に俺はグランドの端に目をやった。
旧寮が見えた。
体育館の横に広がるグランドの奥に、古ぼけた二階建ての木造の建物が佇んでいる。窓ガラスは割れ、玄関と思しき観音開きのドアが外れたまま無造作に傾いている。現在は使われていない。その周りは草木がうっそうと茂り、一本の柳の木がひときわ目立っていた。
なぜか目が離せなかった。
柳の枝が、風もないのに揺れている気がした。そして、誰かがこちらを見ている。そんな気がして、俺は急いで視線を逸らした。
気のせいだ。そう思いたかった。
合宿中日の午後は、練習を早めに切り上げてバーベキューの準備に取り掛かる。肉や飲み物の買い出し、炭起こし、会場の設置に大忙しだ。軍資金は顧問の先生やOB、保護者からの差し入れだった。
バーベキュー会場はクラブハウスのすぐ前にある広場で、だだっ広いグランドとつながっているため見晴らしがいい。コンクリートブロックを椅子代わりに車座に並べ、中央にバーベキューコンロを設置した。コンロの横には肉に野菜、イカや椎茸などが大量に並べられる。チアリーダーの女子たちも楽しそうに食事の準備を始めた。
俺がコンロの炭を団扇で扇いでいると、京子が隣に来て炭を扇ぎだした。「熱いから気をつけろ」と言ったら、こくりと小さくうなずいて楽しそうに団扇をパタパタと振る。
ふと視線を感じて振り返ったが、古賀はすでに別の方向を向いていた。
バーベキュー大会が始まり、サイダーやウーロン茶で乾杯した。顧問の先生とOBは当然のようにビールで酒盛りだ。いつもは厳しい先輩たちもこの時ばかりはご機嫌で、サイダーのお代わりを勧めてくる。合宿で疲れた体にしみ込ませるように、たらふく肉を平らげた。
バーベキューも終わりに近づいた頃、二年生の田島先輩が俺のそばに来た。
田島先輩はいつも冷静で、感情をあまり表に出さない人だ。その先輩が少し声を低くして言った。
「今崎、旧寮のこと知っているか?」
「え?」
「グランドの隅にある旧寮だ。俺も一回だけ、あの寮の前を夜に通ったことがある。その時に……」
先輩は言いかけて、口を閉じた。
「何かあったんですか?」
「……いや、いい。とにかく近づくな」
それだけ言って先輩は立ち去った。語れない理由があるのだ、とその時俺は思った。
夜も更けた頃、三年生の野中先輩が一年生団員を集めた。
先輩は俺たち一人ひとりを見渡し、一つ深い息を吸い込んでから話し出した。
「おう、お前ら。夜もふけたところで大事なことを教えてやる。旧寮のことだが、知ってるか?」
「はい、グランドの端っこにある古い建物ですね」
さっそく食いついたのはお調子者の古賀だ。先ほど田島先輩から俺も同じ話を聞いた。
「おう、二階建て木造の、今にも壊れそうな建物だ。昔そこで事件があったんだ」
野中先輩は片側の口角をわずかに上げ、声のトーンを一段落とした。
「そのむかし旧寮に一年生の佐藤という少年がいてな、しょっちゅう先輩たちから虐められていた。その日も先輩たちの寝泊まりしている二階の部屋で虐めを受けて、どうしても我慢できなくなった佐藤少年はとうとう先輩たちの部屋から逃げだしてしまった。そして、あんまり急いで逃げたから階段を駆け下りる時に足を踏み外し、そのまま転がり落ちてしまった」
一年生連中の固唾をのむ音が聞こえた。
「その時に、階段の縁に後頭部を打ち付けて、それが原因で死んでしまった。頭を打ったのは、階段の下から三段目の縁だった。夜中の十時の出来事だ」
先輩は少し間をおき、さらに声を低くした。
「警察にはただの事故として処理された。虐めの事実を知っていたのは寮の先輩たちだけだからな。しかし、それから数日後、虐めの主犯格のやつがノイローゼになって自殺してしまった。なんでも、寮の二階から階段に向かっていきなり飛び上がってダイブしたそうだ。またしても夜中の十時のことよ。そして、下から三段目の縁に頭を打ち付けて死んだそうだ」
その時、タイミングを合わせたように、暗闇に包まれたグランドから風が吹いてきた。
野中先輩がグランドに少し目をやり、それから話を続けた。
「旧寮でそんな事件があってから、夜中の十時丁度にその階段の下から三段目を踏んだら、どこからともなく『ぐぇー!』という呻き声が聞こえてくるようになったってよ。誰もいないはずの廊下で、ズルズルと何かを引きずるような音もな」
夜風が心なしか強くなってきたような気がする。
「さらにそのあとの話だ。ある一人が、根性試しのつもりで夜中の十時にその三段目を蹴り小突いたってよ。そしたら次の日、布団の上に横たわったまま一言もしゃべらず、天井をずーっと凝視したままだった。結局そのまま頭がおかしくなって学校を辞めてしまった」
先輩は俺たち全員を静かに見渡した。
「おう、お前ら。夜中の十時に旧寮には絶対行ったらいかんぞ」
みんなは首を縮込ませながら頷いた。全員の、つばをゴクリと飲み込む音が聞こえた。
第三話 禁じられた肝試し
顧問の先生とOBの先輩たちは酒がすすんでいい気分になり、校外の居酒屋へ行くと言い出した。バーベキュー大会はお開きとなり、二年生と三年生の先輩たちは一足先に宿泊所へと戻った。後片付けは一年生の仕事だ。
片付けが終わったころ、宿泊所正面の時計の針は九時を大きく回っていた。
「旧寮に肝試しに行こう」
古賀が言い出したのはその時だった。
他の一年生たちは「面白そうだ」と、何の迷いもなく暗いグランドへ向かって歩き出した。俺は一人、体育館わきのベンチに座っていた。すると古賀が戻ってきて俺の腕をつかんで一言。
「怖がってんのか?」
五月蠅い奴だ。
「野中先輩から絶対行くなって言われてただろ」
「あれは『根性なしは大人しくしとけ』という意味だろ」
「でも、佐藤少年の霊が出てきたらどうするんだよ?」
「今崎よー。てめーよー。そんなことを信じてんのか? 怖がりやなー」
古賀は嫌味な顔でにやけた。しかたがないので、嫌々ながらも連中の後を追って夜のグランドへと足を踏み出した。
なぜか、断れなかった。
断ろうとしているのに、足が向いてしまう。まるで何かに引き寄せられるように。そんな奇妙な感覚を、俺はうまく言葉にできなかった。
月明かりだけの暗いグランドを、五人で歩いた。
遠くに、旧寮の輪郭が見えた。その前に立つ一本の柳が、夜風に揺れていた。
俺の内心に、嫌な予感が大きくなっていく。ただの怖がりじゃない。何かが確かにいる。昼休みの教室でトランプをめくる時に感じる、あの「浮かんでくる」感覚に似ていた。カードが何かを告げようとする瞬間の、あの感覚。
京子が俺の少し後ろを歩いていた。古賀は先頭を歩いている。
旧寮についてしまった。
グランドのはずれに小さな電灯がある。旧寮は、その心もとない電灯の明かりに照らされて、よけいに不気味さを増していた。木造の壁にはあちらこちらに穴が空き、窓ガラスはほとんど割れてしまい、屋根瓦も所どころ欠けている。腐った木の匂いと草いきれが鼻をつく。
正面の玄関はドアが外れ、ボロボロになった板や壊れた木箱のようなものがそこらじゅうに散らかっている。あの柳の木が、電灯の光の端で静かに揺れていた。
「よし。じゃあ、入ってみよう」
古賀だ。ここで先頭を切るのは自分しかいないと言わんばかりに、寮の中に入って行った。みんながその後を追う。俺は一番後についた。
微かな月明かりが廊下に差し込んでいた。先頭を行く古賀が、真っ暗な廊下を軽い足取りで進んでいく。
嫌な予感が、どんどん大きくなる。
占いでカードをめくる瞬間に感じる、あの「何かが来る」という予感と同じだ。
古賀はさらに寮の奥へと進み、廊下の脇を左に曲がったところで視界から消えた。その左奥には、例の階段がある。
みんなが押し黙った。
池上が廊下の奥に向かって呼びかけた。
「おーい、古賀。大丈夫か?」
返事がなかった。
しばらくして、二階から何やら「カララン」と乾いた音がしたかと思うと、すぐさま一階奥から「バタンッ!」「ドンッ!」といった激しい音が聞こた。そして、「うぅ、わぁーっ!」という叫び声とともに古賀が廊下の奥から走ってきた。
古賀は腰を抜かしたのか、旧寮の玄関先に尻餅を付いて体を震わせている。池上は古賀の両肩をがっしりと掴んで気持ちを落ち着かせた。
「古賀っ! どうしたんだよ。大丈夫か?」
「か、階段の上で物音がしたから廊下の奥の壁の端から階段を覗いた。そしたら、すぐ足もと……」
「なんだ? 足元がどうしたんだ?」
「……すぐ足元に、顔中血だらけになってる奴が這いずってきた」
「えぇっ!?」
古賀はおびえた表情で今にも泣き出しそうだ。
「そして、そいつが俺の足首を掴んでさ。顔を見上げてきてさ。それから、目が合ってしまったーっ!」
その瞬間、俺の背中に「ぞわり」と何かが触れた。
違う。これは恐怖じゃない。何かが、俺に触れた。
寮の二階からコトコトと、何かが階段を転がり落ちるような音がした。
京子が俺の袖をそっとつかんだ。俺は動けなかった。
古賀が突然叫んだ。
「ぅぅう……、うわぁー!!」
古賀は突然立ち上がり、暗いグランドに向かって走りだした。俺たちも後を追って走り出した。
走っている。なのに背中が重い。誰かにしがみつかれているようだ。足が重い。空気が重い。それでも走る。
合宿所の明かりが見えた瞬間、引き戻された。そんな感覚がした。
途中、誰かれ構わず叫び声をあげていた。
「うわーっ!! 出たーっっ!!!」
第四話 咆哮
その騒ぎ声は合宿所まで聞こえたようだ。先輩たちが寝泊まりしている二階の電気がついた。
俺たちがやっとのことで合宿所までたどり着いた時、ちょうど牧本団長と野中先輩が玄関先まで出てきていた。チアの先輩たちも心配そうに集まっている。
俺たちは先輩たちを見るなり、息を切らしつつ整列した。古賀は硬直して話ができない。比較的落ち着いている池上が事の次第を説明した。
田島先輩の顔が青ざめていた。池上の説明の途中で、田島先輩が俺の顔を見た。
「団長っ! 今崎が……今崎がおかしいです!」
声が裏返っていた。
野中先輩が俺を見据えたまま話し出した。
「今崎。お前は余計なものを背中に負ぶって来たのう。走っている間、気がつかなかったのか」
俺の歯が小刻みに震えだし、ガチガチと音を立てた。
呼吸が浅くなり、全身から血の気が引いていくのが分かる。俺のただならぬ様子を見た一年生たちも全員真っ青な顔でたたずんでいる。
「とんでもないことをしてくれたな、お前ら。夜中の十時に旧寮には行くなって言っただろ。俺が今日バーベキューの後で話したことは全部本当の話だ。佐藤少年がついてきたぞ」
野中先輩の声は感情がなかった。報告するような口調だった。それがかえって怖かった。
その時、牧本団長が野中先輩の肩に手を掛け、話を遮るようにゆっくりと前に出てきた。
誰も声を出さなかった。
団長は一言も発さず、俺を見据えた。その目が、俺を捉えて離さない。目が離せない。引き寄せられる。
団長の目の奥に、静かに揺らいでいるものが見える。
これだ。これは、合宿初日の屋上で感じた、あの感覚だ。団長の咆哮の奥に、言葉では説明できない何かが宿っているという、あの予感。
団長は足を広げ前かがみとなり、両手を交差させ、帯を締めるような動きをとった。
俺は何も言えなかった。ただ団長の目を見ていた。
「ぅおおおおーっっっす!!!!」
咆哮が漆黒のグランドに雷鳴のごとく轟きわたった。
空気が震えた。地面が震えた。
合宿所の窓ガラスが共鳴した。
俺の体の奥で、何かが剥がれていく感覚があった。背中にしがみついていた「重さ」が、少しずつ、少しずつ、引き剥がされていく。
光が差し込んでくる感じがした。
苦しかった呼吸が、楽になっていく。
魂が、引き戻されていく。
次の瞬間、一陣の風が吹いた。その風の流れが一方向に向かっていくのが肌で感じられた。
誰も言葉を発しなかった。
全員が、先ほど吹いた風の行方を追っていた。
暗いグランドの奥へと、何かが走り去っていく気配があった。みんながその気配を感じたのか、同じ方向に顔を向けていた。
しばらくすると、暗いグランドの奥にある旧寮のそばに佇む柳の枝が揺れた。
暗い電灯と淡い月の光に照らされた柳の影が、旧寮の壁で揺れている。
そして、寮の二階の窓に掛けられたボロボロになったカーテンが、風に揺られて寂しげにたなびいていた。
佐藤少年? だったのだろうか。ただ、「帰っていった」という言葉だけが頭に浮かんだ。
静まり返った玄関先で、京子が俺のそばに来て小さく言った。
「大丈夫?」
「ああ」
俺はそれだけ答えた。少し離れたところに古賀がいた。古賀の表情は、見えなかった。
エピローグ
翌朝、夏合宿中日を終えた日の朝、野中先輩に呼ばれた。
先輩は屋上に行く途中の廊下の端に立っていた。他には誰もいなかった。
「今崎、お前には少し見えるんだろう」
俺は少し黙ってから、正直に答えた。
「……わかりません」
野中先輩は静かに頷いた。
「それでいい。見えすぎると辛いだけだ」
それだけ言って、先輩は立ち去った。
俺は廊下の窓から外を見た。朝のグランドは清々しく、昨夜の出来事が嘘のように静かだった。旧寮が、遠くに見えた。
あの柳の木は、今日も静かに立っていた。
了
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
あの夏から、ずいぶん時間が経ちました。古賀は今も元気にしているだろうか。京子は。池上は。そして、牧本団長と野中先輩は。
「本当にあった話」と書くと、信じてもらえないこともあります。それでも俺は、あの夜体験したことを誇張も脚色もせず、できるだけそのまま書きました。牧本団長の咆哮が霊を祓ったのか、それとも別の何かだったのか、今でも分かりません。ただ一つだけ確かなことは、あの瞬間、俺の背中の「重さ」は確かに消えた、ということです。
旧寮がまだあの場所に建っているのかどうか、俺は確かめに行けていません。たぶん、行かない方がいい気がしています。
毎年夏になると、あの柳の木のことを思い出します。風もないのに揺れていた、あの枝のことを。
佐藤少年の魂が、どうか安らかであることを願っています。




