新しい暮らし
紫禁城の北西、人の往来が途絶える一角に、雨明にあてがわれた部屋はある。
かつては倉庫、あるいは身分の低い女官の詰め所だったと思われるその場所は、雨明が連れてこられた当初、埃とカビの臭いが充満するガラクタ部屋だった。
残された調度品や椅子も朽ち果てる寸前の代物ばかりだった。
蒼玲は「こんな部屋しか与えられずすまない」と後ろめたい姿だったが、雨明にとってはそうでもない。
「うん、悪くない」
雨明は部屋の中央に鎮座させた長椅子に深々と体を沈めて鼻を鳴らした。
この長椅子は元々この部屋の隅で埃を被っていたものだ。
脚が一本ぐらついていたのを手近な木片を噛ませて修理したのである。
背もたれに掛けられた布も虫食い穴のせいで捨てられていた絹の端切れだ。
綺麗に洗い穴を隠すように畳んで掛ければ十分な彩りが生まれる。
(強引に連れてこられた時はどうなることかと思ったけど……悪くないな)
ごとり、と入り口の戸板が遠慮がちに叩かれる音がした。
「……食事です」
聞こえてきたのは、高い少女の声だ。
雨明が「はーい」と返事をして戸を開けると、そこには粗末な衣をまとった見習いの下女が立っていた。
まだ十代前半だろうか。
お団子に結った髪もどこか頼りなく、先輩の女官たちから、嫌な仕事を押し付けられたのがありありと分かる。
彼女は手にした配膳箱を、まるで汚物でも触るかのように指先だけで持ち、雨明に押し付けると、逃げるように後ずさった。
会話をする隙さえない。
(嫌われっぷりはどこも健在だな)
死穢に触れる雨明に関わると、自分まで穢れると思っているのだろう。
「……そんなに急がなくても、うつったりしないのに」
雨明は肩をすくめ、配膳箱を持って部屋に戻った。
蓋を開けると、湯気と共に質素だが温かい食事が現れる。
白くふっくらとした饅頭が二つ。
塩漬け肉が少し入った冬瓜のスープ。
そして青菜の炒め物。故郷の農村で、飢饉の年に木の根をかじった経験のある雨明にすれば、これは御馳走だ。
「いただきます」
饅頭をちぎり、スープに浸して口に運ぶ。
(うん、美味い。しかも、これが毎日タダで出てくる)
後宮での暮らしは、思いのほか悪くない。
なんにせよ誰もここには近寄らないため、煩わしい人間関係がないし。
女官同士の足の引っ張り合いや、古株のいじめとも無縁だ。
そして何より、人が死なない限り仕事がない。
宮廷内には数千人の女性がいるとはいえ、そう毎日都合よく……あるいは悪く誰かが死ぬわけではない。
つまり、一日の大半は待機という名の自由時間なのだ。
(にしてもヒマだな)
雨明は食事を終えると、部屋の隅に設えた茶器セットに手を伸ばした。
これもまた、縁が欠けた急須と、柄のヒビ割れた茶碗だ。
どちらも蜘蛛の巣が張った奥の棚にあったものだが、洗えば十分に使える。
中に入れる茶葉は、食事と一緒に支給された配給品だ。
茎が多く混じった下級の茶葉で、少し粉っぽいが、故郷で飲んでいた泥水のような茶に比べれば、これでも十分に宮廷の味だった。
熱い茶をすすり、窓から差し込む午後の日差しに目を細める。
茶葉の香りが、古びた部屋の埃っぽい匂いを中和していく。
至福の時間。
そう思って、二杯目の茶を淹れようとした時だった。
「ずいぶんと優雅なものだな」
前触れもなく、涼やかな男の声が部屋に響いた。
「ぶっ!」
雨明は危うく茶を吹き出しそうになり、慌てて飲み込んでむせた。
ゲホゲホと咳き込みながら入り口を見やると、そこに蒼玲が立っていた。
豪奢な刺繍が施された濃紫の官服を隙なく着こなし、腰には役職を示す玉佩を下げている。
その整いすぎた顔立ちは、まるで工芸品の仮面のように冷淡だ。
「……ノックくらいしてくださいよ、蒼玲様」
「戸が開いていた。不用心だぞ」
蒼玲は部屋に入ってくると、部屋を無遠慮に見回した。
その眉間が、わずかに寄る。
「……前来た時は、ただの物置のような惨状だったはずだが」
以前は湿って波打っていた床が、今は隙間なく整えられている。
窓際に鎮座する長椅子にいたっては、布が裂け脚も折れ曲がっていたはずの代物だ。
それが今は艶やかな布が張り直され、がたつき一つない。
「お前、一体どんな技を使ったんだ」
「ちょっと接ぎ木をして、膠で補強しただけですよ。布の裂け目も、刺繍で隠せば立派な模様に見えるでしょう?」
雨明は茶を飲み干し、当然のことだと言わんばかりに胸を張る。
「磨けば光るし、繋げば使える。命を吹き込み直しただけですよ」
蒼玲は本気で不可解そうに雨明を見下ろす。
「逞しいものだな」
呆れを通り越し、感嘆すら混じった低い声がこぼれる。
蒼玲は口元をわずかに緩めたが、すぐにいつもの顔に戻り、言葉を継いだ。
「そういえばこの間の件だが、関わったものとして一応お前にも報告しておく」
雨明は二杯目のお茶を淹れようと、茶器の並ぶ卓へ伸ばしかけていた手を止める。
「犯人は紅蘭様の部屋を掃除していた下女だ」
元々は別の妃に仕えていた古株だったという。
「その下女は、かつて実家の窮地をその妃に救われた恩があったそうだ。ただの主従を超えて、家族同然に目をかけられていたらしい」
「なるほど。深い恩義があったと」
「ああ。だが紅蘭様が寵愛を独占したことで、その妃は居場所を失った。当然、あてがわれる予算も人員も削られる」
一方で、飛ぶ鳥を落とす勢いの紅蘭様の宮には、新たな働き手が必要だった。
役人たちは何も考えず、余った人員を足りない場所へ回したのだ。
「恩人を追い落とした憎き恋敵に、笑顔で茶を淹れなければならない。……その屈辱が今回の件に繋がったわけか」
「殺意があったかまでは分からないけどな」
雨明はやるせない溜息をついて道具袋を肩にかけた。
「それで?今日来たのは仕事ですか?それとも、私がサボってないか監視しに?」
蒼玲はバツが悪そうに咳払いを一つした。
「下働きの女官を束ねる宮正が昨夜亡くなった」
彼は懐から一枚の書付を取り出し卓に置いた。
宮正とは無数にいる下女の頂点に立ち、全体の規律を管理する長のことだ。
雨明は紙片を手に取り書かれた文字に目を通す。
「病死……ですか」
「ああ」
「後宮では下働きにもわざわざ整理の者を呼ぶのですね」
身分の低い女官の扱いなどもっとひどいものだと思っていた。
遺品も同室の者たちで適当に片づけられるものだと。
「宮正ともなれば割り当てられる私室の広さも違うからな」
なるほどと雨明は納得して道具袋を掴む。
始めるか、仕事を。
「では行きましょうか」




