歪んだ鏡
歩いてやってきたのは、北西の離宮──。
かつては皇帝の寵愛を受けた側室が住まう華やかな場所だったはずだが、今のそこには墓所のような静寂しか漂っていなかった。
「……ここだ」
蒼玲が重い鉄の錠前を外した。
ギィィ、と蝶番が悲鳴を上げ、扉が開く。
むっとした澱んだ空気が、二人の顔を撫でた。
埃とカビ、そして微かに残る白粉の甘ったるい香り。
雨明は足を踏み入れ、そして眉をひそめた。
「……随分と、鏡が多いですね」
部屋のあちこちに、布をかけられた物体が鎮座している。
すべての鏡台、そして姿見に真っ赤な布が掛けられていた。
(……なるほど、徹底している)
民間信仰にある「鏡隠し」だ。
死者の魂が鏡に映り込み、閉じ込められるのを防ぐための処置。
あるいは、鏡に映った死者の姿を、生きた人間が見て連れて行かれないようにするため。
さすがは後宮だ。
適切な処理がされている。
(にしても多いな)
化粧台の大きな鏡、壁にかかった姿見、卓上に置かれた手鏡。
その数は一つや二つではない。
「紅蘭様は、ご自身の美貌に執着しておられた」
蒼玲が硬い声で答える。
「四六時中、あらゆる角度から己を眺めるのが日課だったそうだ。……だが、晩年はその全てが恐怖の対象に変わった」
雨明は身支度を整えると、部屋の中央にある化粧台へ歩み寄った。
紫檀の台座に据えられた、最も立派な銅鏡だ。
彼女は躊躇なく、その覆い布を引き剥がした。
「あっ、おい……!」
──バサッ。
鏡に映ると魂が持っていかれるだなんて、そんなものを信じながら遺品整理人なんてをやってられるか。
埃が舞い、夕暮れの薄暗い光の中に円形の銅鏡が姿を現した。
「……ッ」
背後で蒼玲が息を飲む。
「なるほど……」
そこに映っていたのは、雨明の顔ではなかった。
どす黒く変色し、皮膚が爛れ、ぐにゃりと歪んだ――まるで怪物だった。
「なるほど。これが腐った顔ですか」
雨明は冷静に呟き、すぐに別の鏡へと向かった。
壁際の姿見の布を剥ぐ。
そこにも、全身がねじれた怪物が映る。
卓上の手鏡を手に取る。
そこも同じ。
「……全部か」
雨明はいくつかの鏡を確認した後、重々しく吐息をもらした。
「この部屋には、まともな鏡が一つもありません。全て、同じように怪物がうつるようになっている」
「馬鹿な。この鏡は陛下から直々に下賜された品だぞ。決してまがい物ではない」
「ええ。だからこそ誰かが細工をしたのでしょう」
(細工は大方……)
雨明の視線が、化粧台の横に置かれた道具箱に止まった。
中には、使い込まれた刷毛と、大きな壺が入っている。
蓋が開いたままのその壺には、白い粉がたっぷりと残っていた。
彼女は匙ですくい上げ、鼻を近づけた。
ツン、と鼻腔を刺す刺激臭。
(……やはりな)
「おそらく紅蘭様は、この壺の粉を使って、普段から部屋中の鏡を毎日磨いていたのでしょう。本来、鏡を磨く粉は、鹿の角を焼いたものや、目の細かい砥の粉を使います。ですが、これには微量の酸と硫黄が混ぜられています」
「酸と……硫黄?」
「金属を腐食させる薬です」
蒼玲は目を見開く。
雨明は卓上の手鏡を置き、静かに言葉を継ぐ。
「おそらく誰かが紅蘭様が外出している際に、こっそり忍び込み、強い酸をすべての鏡に少しだけ塗った」
雨明は自分の頬を指差した。
「朝起きて鏡を見た時、自分の顔に小さなシミや歪みがあったらどうしますか?」
美貌を誇る妃ならなおさら気にするはずだ。
「……すぐに鏡を磨き直すだろうな」
「その通りです。こんなの自分じゃないと彼女は慌ててすべての鏡を磨き直したはずです」
だがその粉はすでに毒入りにすり替えられていた。
美しさを取り戻そうと必死に擦れば擦るほど、酸と硫黄が表面を削り取っていく。
最初の小さな歪みを消そうとした結果、自らの手で鏡を完全に破壊するように仕向けたのだ。
そして自分で自分の首を絞めるように、紅蘭様は魔の地へと陥れられた。
みるみるうちに自分の顔が歪んでいき、自信を失い、次第に部屋から出ることを避けた。
顔が歪んでいくことに嘆き精神を病んでいく。
周りからの言葉も信じることが出来ないくらいに。
精神を病んだらもう……それは鏡の通りの自分が出来上がる。
そしてそんなウワサを聞けば、帝の寵愛も急速に冷え込んでいく。
醜く錯乱した女の元へ皇帝が足を運ぶはずもない。
お渡りの声すらかからなくなった静寂の中で、彼女は自分が完全に見捨てられたと悟ったのだ。
それが誇り高い妃にとって、決定的な絶望の引き金だったのだろう。
そして彼女は自ら命を絶った。
「彼女が亡くなる直前は、一歩もこの部屋から出られなかったのでは?」
「ああ。下女すら遠ざけ、部屋の中にこもっていたという」
誰かに相談していれば、鏡の異変に気づけたかもしれない。外に出ていれば自分の鏡がおかしいのだと気付いたかもしれない。
しかし彼女の誇りがそれを許さなかった。
美しくない自分が許せなかったのだ。
(むなしいな)
後宮というのは、美しい鳥を閉じ込めて狂わせる場所なのかもしれない。
雨明は曇った手鏡を静かに箱へ納める。
遺品の仕分けは静かに進んでいった。
皇帝から下賜された豪奢な銅鏡は丁寧に木箱へ。
これらは国へ返納され清められた後に別の妃へ与えられる。
雨明は整理をしながら部屋の隅に置かれた質素な木箱を引き寄せた。
その中には、後宮に入る前から使っていたと思われる私物が入っている。
使い古された木櫛や色褪せた刺繍糸。
その底に小さな銀の手鏡が転がっていた。
豪奢な装飾はないが表面は真っ黒に腐食している。
紅蘭様はこれもあの毒入りの粉で必死に磨いていたのだ。
少しでも自分の姿を確かめたくて。
雨明は道具袋から小さな油壺を取り出した。
酸を中和し金属の傷を滑らかにするための椿油だ。
「なにをしている?」
蒼玲がいぶかしげに眉をひそめる。
「勘違いしたまま冥府へ旅立つのは、あまりに不憫ですから……少しだけ手入れを」
雨明は柔らかい布で円を描くように銀の表面を磨き始めた。
最初はざらついていた感触が次第に滑りを帯びていく。
赤黒い錆が布に吸い取られ本来の輝きが顔を出す。
やがて銀の表面は一点の曇りもない水面のように澄み渡った。
「よし……」
そこには雨明の顔が真っ直ぐに映っている。
「蒼玲様、紅蘭様はまだ隣の安置所に?」
「ああ。間もなく棺の蓋が閉じられると聞いている」
雨明は磨き上げた小さな手鏡を白い絹の布で丁寧に包み込んだ。
「これを彼女の胸に抱かせてあげてください」
蒼玲は目を丸くして雨明と包みを見比べる。
「こちらの鏡は彼女の私物で陛下からの下賜品ではありません」
雨明は静かに視線を落とした。
「真実を映す鏡です。向こうへ着いたら自分の顔を見て安心するでしょう。貴女は最後まで美しかったのだと」
蒼玲は絹の包みを受け取り静かに目を伏せた。
「俺が責任を持って納めてこよう」
後宮の闇はどこまでも深く冷たい。
(ここにいることが女の幸せなんて言われているが、果たしてどうなんだろうな)
「こちらで目録にあるものはすべて確認いたしました」
雨明は手にしていた帳簿をパタンと閉じた。
部屋の隅には運び出されるのを待つ木箱が積まれている。
「ご苦労だった。あとは別の者に運ばせよう」
蒼玲は帳簿を受け取り、短く労いの言葉をかけた。
皇帝からの下賜品は再び蔵へと戻される。
呪われた鏡の部屋も、やがて次の主を迎えるために清められるだろう。
「当時この部屋に出入りできた者を洗い直す」
そして鏡に細工をした犯人も。
ここまでわかっていれば、数日のうちに首謀者へ辿り着くはずだ。
あとは自分の領分ではない。
雨明は道具袋を肩にかけ、部屋の出口へと向かった──。




