デジタル資本主義 ──搾取される無名の創作者たち──
現代の小説投稿サイトは、一見すると夢の王国だ。
誰もが無料で作品を発表でき、才能があれば注目を集められる――きっとそう宣伝されている。
だが、その内実は“創作の自由市場”ではなく、創作者を無機質な燃料として回る収奪の工場である。
そこでは、ランキングという経済システムが支配している。
上位に立つごく一部の作者と、広告収益を握る運営企業が利益を独占し、その他の圧倒的多数は「アクセス皆無の労働者」として搾取され続ける。
〇小説サイトという「見えない工場」
現実の工場では、労働者は時給を得る。
小説サイトでは、創作者は報酬を得ない。
にもかかわらず、彼らは一日何時間も執筆し、校正し、投稿ボタンを押し続ける。
そしてその努力は、サイト全体のアクセス数と広告収益を押し上げるのだ。
つまり、創作者の生産は運営にとって無料の労働力なのだ。
運営はその労働を「ランキング」という夢のシステムで合法的に搾取している。
上位0.1%が光を浴び、99.9%は闇の中で書き続ける。
PVも感想もつかない原稿は、まるで裏路地の倉庫の在庫のように沈黙していく。
それでも投稿者は諦めない。なぜなら、「次こそ報われるかもしれない」と信じているからだ。
それこそがこの構造の恐ろしい点である。
〇Web創作の市場原理
ランキング上位に載った作品は、一気に読者を獲得し、ブックマークが雪崩のように積み上がる。
アルゴリズムは「人気作」をさらに推薦し、露出を拡大する。
その間、下位に沈んだ作品は誰の目にも触れず、沈黙の海に消えていく。
努力よりも、初動の運やタイミングが支配する――それは、資本主義における「初期資本」の格差とまったく同じである。
アメリカでは、上位1%が富の4割を独占しているという。
小説サイトもまた、上位1%の作者がアクセスと注目の大部分を占めている。
そこにあるのは、自由競争という美名のもとで拡大し続ける「数字の格差社会」なのだ。
〇「報われる可能性」という幻想
アメリカ型資本主義の格差が拡大したのは、「誰でもチャンスがある」という建前が人々を支えてきたからだ。
アメリカの多くの労働層が、巨大な見返りを宣伝する宝くじや起業に夢を見るように、創作サイトの底辺層もまた「いつかバズる」という幻想に縋る。
だが現実は冷酷だ。
現実の資本主義では、資金を持つ者が投資を重ね、さらなる利潤を得る。
Web空間では、フォロワーや初動PVという「注目という資本」がそれにあたる。
一度人気作となった作者は、次の投稿でもスタートラインが違う。
既存読者がつき、話題が拡散し、アルゴリズムが自動的に宣伝を行う。
まさに「数字の投資リターン」である。
一方、無名の作者は、作品を投下しても誰にも見られず、反応が得られない。
現実社会で言えば、資本も信用もない零細事業者が市場で埋もれるようなものだ。
彼らの努力は、プラットフォームの広告価値を高めるための燃料として消費されていく。
上位作品は冷徹なアルゴリズムにも守られ、露出の機会は独占される。
新規投稿は僅かな時間で埋もれ、誰の目にも触れない。
つまり「自由競争」という名のもとで、構造的な再分配拒否が行われているのだ。
この構造は、まるでデジタル時代の搾取型労働だ。
〇底辺創作者という「無給の労働階級」
かつての産業革命期、イギリスの工場労働者は長時間働かされ、賃金は低く、権利は守られなかった。
21世紀の小説サイトでも、その労働者たちが「無報酬」で、僅かな「数字」を報酬として働かされているのだ。
創作者は毎日アクセスを確認し、感想を待ち、ランキングの変動に一喜一憂する。
だが、運営にとってそれは理想的な労働モデルなのだ。
不満を抱いても辞めない。
報酬を要求しない。
しかも、新しい参加者が絶えず補充される。
彼らの心の摩耗と引き換えに、サイトの閲覧数は右肩上がりを続ける。
底辺創作者たちは「敗者」であると同時に、プラットフォームの「生命維持装置」でもあるのだ。
〇上位層と運営の共生関係
上位作者は運営にとって広告塔であり、存在そのものがシステムの正当化に使われる。
「努力すれば、あなたもこうなれる」
この一言が、無数の創作者を再び椅子に縛りつける。
だが実際には、上位の地位は固定化している。
新規参入者がその壁を破ることはほぼ不可能だ。
ランキングの上位は「富裕層」であり、最大化された底辺層は「貧困労働者」であり、細りつつある中間層は「かつての夢を諦めきれない退職予備軍」だ。
この構造は、まるでアメリカ経済そのものだ。
少数の勝者と多数の敗者。
そしてその格差が、システム全体の動力源になっている。
現実社会では貨幣が富を示す。
小説サイトでは、PVやブックマーク数、評価ポイントがそれに置き換わる。
人々はその数字を追い求め、失えば不安に駆られる。
それはもう創作ではなく、「デジタル資本主義のゲーム」だ。
そして、そのゲームの勝者はごく一部――上位の常連と運営企業なのだ。
〇「自由」と「搾取」のすり替え
サイトは言う。「誰でも自由に投稿できる」と。
だが、その自由は「無報酬で働く自由」に過ぎない。
「数字を追う自由」「比較に苦しむ自由」「燃え尽きる自由」。
こうして創作者たちは、自由という言葉に縛られながら、
今日も新作を投稿し、PVの波を待つ。
それはもはや創作ではない。
数字という神に仕える無限労働であるのだ。
〇創作を取り戻すために──
かつて文学は、人類の自由を求める行為だったかもしれない。
だが今や、それは数字という市場の通貨に換算され、創作者たちはその貨幣のために競い合う。
私たちは問わねばならない。
──この仕組みの中で、ほんとうに創作は自由なのか?
──誰のために、私たちは書いているのか?
もしこの世界がアメリカの資本主義と同じく、勝者総取りの冷たいシステムであるなら、せめて作者においては、その残酷な構造を知ってから筆を取るべきだ。
数字に奉仕するのではなく、物語に奉仕する創作者として。
搾取の炎で燃え尽きるのではなく、自分の灯を静かに保ち続けるために……。
◇◇備考・余談◇◇
現代の格差社会を研究する社会学者たちは、ネットプラットフォームの格差をこう表現しているらしいです。
「デジタル環境は、マタイ効果を指数関数的に加速させる」
【例】
YouTubeやAmazonでも、上位1%が再生・売上のほとんどを独占。
SNSではフォロワー上位0.1%が発信力を支配。
Web小説も上位数十作品がアクセスの大半を占める。
つまり、Webのランキングは、アメリカの所得格差(トップ1%が富の40%を保有)と似たような分布図と推計されるようです。
アメリカでもWebでも、この格差構造を正当化するのは「自由競争」という言葉ですよね。
「誰でもチャンスはある」
「努力すれば上に行ける」
──しかし現実には、構造的な初期格差が存在する。
教育・環境・時間・才能・読者層……すべてがきっと偏在している。
それを無視して「公平」と称するのは、少しおかしいかもしれませんね (。´・ω・)?
……しかし、まぁ、なんぼか譲って、18歳以上の成人たちはある程度自己責任なのかもしれません (´・ω・`)
ですが、未成年の時期においては、前頭前野が未成熟で、快感および報酬系が非常に敏感です。
そのために、「数字が上がる快感」も「順位が下がる苦痛」も、大人の数倍強く感じてしまいます。
このため、
・ランキングが上がる → 凄まじい多幸感
・下がる → 挫折感・無価値感・強いストレス
という、メンタルのジェットコースター状態になります。
さらに、最近の小説サイトは、SNS連携とセットになっていて、数字・感想・批評がリアルタイムで可視化されます。
・成績公開 (「評価ゼロ」状態を他人に見られる)
・匿名批判・晒し文化
・「上位作者」の神格化による比較ストレス
つまり、「競争」と「観衆」が常に共存する小説サイトは、未成年の心にはあまりにも不健康なのではないだろうか (。´・ω・)?
蒸気の覇権 ――魔導機パイロット、帝国戦線を駆ける――
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