第三章 満月の下で
駅から少し離れた路地の角に、白い暖簾がひとつ。
油煙を吸い込んだ布地には赤い文字で「満月飯店」と書かれている。
博士は暖簾をくぐった。カウンターの奥から立ちのぼる油とニンニクの匂いが鼻を突いた。
こぢんまりとした店内には、数人の客がいた。作業着姿の男三人、スーツのサラリーマンが二人。
いずれも顔を紅潮させ、ジョッキを傾けている。
「おや、博士」
店主の陳が、鍋を振る手を止めずに目だけで笑った。
「お久しぶりね」
「餃子を三人前。焼きで。ニンニクは多めに」
「三人前? 今日は景気いいね」
「それと、生ビール」
「はいよ」
鉄板の上に並べられた餃子が、次々と油を吸って音を立てる。刻んだニンニクとニラが弾け、青い香りが一気に広がった。
店の片隅に置かれたテレビから、ニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。
「本日、月に隕石が衝突しました。国立天文研究所によりますと、その影響で公転周期にごくわずかな変化が起きた可能性があるとのことです」
博士はふと研究員たちを思い浮かべた。
結果を知り、なす術がないと悟った彼らも、いま頃は研究所を後にしたのだろう。
レポートを続けるキャスターの声が、そこでわずかに明るさを帯びた。
「もしかすると、これからは一か月に二度、満月が見られることになるかもしれませんね。ちょっとロマンチックなお話です」
テーブル席のサラリーマンが、すぐさま反応した。
「へえ、ひと月に二度も満月が見られるなんて贅沢だな」
「月見酒の回数が増えそうだ」
笑い声とジョッキのぶつかる音が博士を現実に引き戻す。
――その裏で、明日にはすべてが終わるというのに。
博士は無言でビールを口に運んだ。冷たさが喉を落ちる。その瞬間だけ、何も考えなくて済む。
皿が目の前に置かれた。黄金色に焼き上がった餃子。博士は箸を伸ばし、一つを口に放り込んだ。
熱い肉汁が舌を打ち、鼻を突き抜けるニンニクの強烈な刺激が広がる。
世界が滅ぶというのに、この味は変わらない。
その事実が、どこか妙に心地よかった。
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