第二章 解けない数式
第二章です。第一章も掲載中です。
博士は歩きながら、頭の中に世界地図を広げていた。
明日未明。衝突点は太平洋のど真ん中――ハワイより東、カリフォルニアより西。
だが、それが海であるか陸であるかは、もはや意味を持たなかった。
あの質量と速度で地球に落ちるのだ。大気圏を貫いた瞬間、運動エネルギーは凄まじい熱となり、火球が地球全体を覆いつくす。
津波や地殻変動といった「副作用」は、もはや枝葉にすぎない。
本質はただひとつ――地球上のすべての生命が、瞬時に絶える。
博士はポケットから携帯を取り出した。
画面に浮かび上がる発着信履歴。その最上段に、妻の名前がある。
指先は、その文字の上で止まった。
伝えるべきか――「明日、地球が滅ぶ」と。
だが想像するのは容易だった。電話口で妻は5秒ほど黙り、「わかった」とだけ言う。
そして1分後には旅行サイトを開き、3分後には娘と出かける計画を立て始めるだろう。ショッピング、観覧車、温泉……。
その輪の中に、間違いなく自分はいない。
だから博士は、伝えないと決めた。
結婚生活に特別な意味を見出したことは、最初からなかった。
結婚も離婚も、博士にとっては天体の軌道のように「状態のひとつ」でしかない。楕円か円か。進むか退くか。それだけの違いに過ぎなかった。
ただひとつだけ、博士にとって特別な存在がある。娘だ。
人類史上最高の頭脳をもってしても、娘を愛おしいと感じる理由だけは説明できなかった。
理屈で解こうとすればするほど、答えは滑稽に行き着く。「かわいいから、かわいいのだ」と。
唯一、彼の思考が行き止まりに突き当たる対象――それが娘だった。
だからこそ、地球最後の日をどう過ごすか。
博士の天才的な頭脳が導き出した最適解は、ただ「娘と家で、何気ない時間を過ごすこと」だった。
特別なことはいらない。夕食を囲み、他愛ない会話をし、眠るまでそばにいる。
それこそが、この世界で彼がもっとも望む終末の姿だった。
マンションに戻り、玄関の鍵を回す。リビングに灯りをつけると、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれていた。
妻の丸い字。
――「娘が学校休みになったので、今日は実家で一泊して、明日戻ります。冷蔵庫にシチューあり。」
博士はそれを拾い上げ、黙って読み、二つ折りにして戻した。
短く、喉の奥で笑った。そう来るか、と。
メッセージアプリの一行ですらなく、置き手紙という一方通行の形で淡々と残された言葉。
それは博士の「最後の一日を娘と共に」という計画を、あまりにも簡単に、そして容赦なく打ち砕いた。
怒りも悲嘆もなかった。
ただ、「ああ、そういうことか」という理解だけがあった。
人類史上最高の頭脳が導き出した結論でさえ、妻の一枚の紙切れの前では無力だった。
博士はソファに腰を下ろし、天井を見つめた。
残された一日をどう過ごすか――再びその問いが浮かんだが、答えは出なかった。
もはや考えること自体が滑稽に思えた。世界の終焉という「正解」がすでに決まっているのに、その枝葉の「過ごし方」を選ぶことに意味があるだろうか。
やがて博士は立ち上がり、コートを羽織り、鍵をポケットに入れ直す。
靴紐は、結ばなかった。もう一度結び直すべき明日の朝は、存在しないのだから。
ドアを閉め、外に出る。
夜空には、いつもより大きな月が浮かんでいた。
次は第三章です