第一章 終わりの始まり
四章完結の短編小説です。感想聞かせてください。
国際天文研究所・月面監視センター。
壁一面のスクリーンに広がる月面は、閃光に飲み込まれた。
巨大隕石の衝突。無音の白がすべてを覆い、数秒間、画面を支配した。
研究員たちは息をのんだ。数秒の静止が、永遠のように伸び広がる。
やがて、その沈黙を最初に破ったのは、オペレーターの震える声だった。
「月面に……巨大隕石の衝突を確認。座標は南緯27度、東経140度付近。衝撃規模は……これは……」
言葉は最後まで続かなかった。
次の瞬間、室内は爆発のようなざわめきに呑み込まれた。
「ショック波の伝播が予測より早い!」
「データに大きな揺らぎが出ている、再計算を急げ!」
怒涛のように叩かれるキーボードの音が雨音のように広がり、センターが熱狂と混沌で満たされていく。
その光景を、博士は黙って眺めていた。机に肘をつき、指先を合わせ、眉ひとつ動かさず。
彼の頭の中では、スクリーンに映らぬデータがすでに統合されていた。
衝突体の質量、入射角度、衝突地点の地質、月内部に眠る空隙――。
衝撃がコアをどう震わせるか。その震動が軌道にどう影響するか。
何千、何万という数式が瞬時に走り抜け、ひとつの結論にたどり着く。
――月は軌道を外れる。
そして明日、月は地球に衝突する。
博士は目を閉じた。
もはや数式は不要だった。シミュレーションも必要ない。理解はすでに終わっている。
背後では研究員たちが必死に叫び続けていた。
「公転周期に誤差が出ている!」
「シミュレーション、誰かすぐ走らせろ!」
しがみつくように数字を追いかける彼らの姿が、博士の目には奇妙なほど空虚に映った。
博士は静かに椅子から立ち上がる。
「お先に失礼する」
「は、博士……?」
若い研究員が振り返った。額に汗を浮かべ、虚ろな目で問いかける。
「どこへ……あの、軌道計算のレビューを——」
「レビューは不要だ。結論は変わらない」
「結論って、何が——」
博士は薄く笑った。慈しむように、そして諦めるように。
「明日、月は地球にキスをする」
衝突とか落下とか、そんな言葉を選ばなかったのは博士なりの優しさだったのかもしれない。
だが研究員たちは誰一人として反応できなかった。意味が理解できなかったからだ。
博士は目を細め、静かに付け加えた。
「大騒ぎして計算を続けなさい。君たちは正しい。正しいけれど、遅い」
それを最後に、博士は背を向けた。
自動ドアが閉まり、廊下に静けさが戻る。
蛍光灯が無機質に並ぶ廊下の突き当たり、ガラス窓の向こうに月が浮かんでいた。
いつもより少し大きく、いつもより少し明るい。
その微細な違いが、やがて地球という惑星を破壊する――そのことを理解しているのは、この世界で彼ひとりだけだった。
次は第二章です。