とある公園にて
彼は毎朝、スーツを着て公園のベンチに座る。
手には新聞、足元には革靴、鞄の中には何も入っていない。
家を出るとき、妻には「行ってくるよ」と告げる。
彼女は何も言わない。台所で湯気の立つ鍋の前に立ち、しゃもじを握ったまま、微かに頷くだけだった。
彼がその公園に通い始めて、もう一年が経つ。
最初は、リストラだった。
勤めていた印刷会社が突然傾いた。
上司は「お前は悪くない」と言ったが、彼の机から荷物がなくなるスピードは、まるで有罪が確定した人間のそれだった。
家に帰ると、長女が受験でナーバスになっていた。長男は私立中学を辞めたくないと言っていた。
妻はいつものように夕食を作っていた。
黙っていれば、すべては変わらないように思えた。
ある日、公園で同じような男を見かけた。
彼もスーツ姿で、新聞を読んでいた。
二人は目を合わせたが、挨拶もしなかった。翌日も、その翌日も、彼は同じベンチに座っていた。
何をしているのか、どこから来たのか、訊ねるのは野暮だと思った。
自分自身がそうであるように、何かを誤魔化しながら、ただ静かに存在しているだけなのだと、直感的にわかっていた。
やがて、公園には十人近い「通勤者」が集まるようになった。
皆、似たような年代、似たような顔つき、似たようなネクタイを締めている。
言葉は交わさないが、奇妙な連帯感が生まれていた。
ある朝、ひとりが紙コップのコーヒーを配り始めた。
別の男は古びた将棋盤を持ち出し、交代で指し始めた。
笑い声はないが、そこにはある種の秩序があった。
彼らの存在は、誰にとっても無害だった。
通りがかりの親子は、彼らを「仕事の合間に休んでいる大人」と認識した。
あるいは、定年後にやることのない老人と思われていたかもしれない。
だが彼らは、年金も退職金もない、ただの無職の集団だった。
ただ、そう見せたくなかった。
あるいは、そう見せられるほどの幻想にしがみついていたかった。
ある日、新しく若い男がやってきた。
おそらく二十代後半。彼はノートパソコンを広げ、イヤホンで音楽を聴きながら何やらタイピングしていた。
その様子に、何人かの「常連」は眉をひそめた。彼は明らかに異質だった。
ここでは皆働いているように見せようという演技をしていない。
むしろ、働いているように見せることすら、彼らにとっては滑稽だった。
「お前、何やってるんだ?」
年配の男が声をかけた。
若者はイヤホンを外して、にやりと笑った。
「見ればわかるでしょ。何もしてないんですよ。でも、こうしてると、ちゃんと生きてるように見えるでしょ?」
「ふざけるな」
別の男が口を開いた。
「俺たちは、ちゃんと誇りを持って、ここにいるんだ」「は?」
若者は笑った。
「誇り? ベンチにスーツ着て座ってることが? それが誇り?」
その言葉に、全員が沈黙した。
確かに、彼の言うことは正しい。
こんな毎日は、馬鹿げている。
ただの自己欺瞞だ。だが、それを否定してしまったら、もう何も残らない。
だから皆、何も言えなかった。
ただ、黙って新聞をめくり、コーヒーを啜るふりをして、風を眺めた。
彼はふと立ち上がった。
ベンチの背もたれに手をかけ、空を見上げた。
雲が流れていた。季節が変わろうとしていた。
家に帰れば、妻はまだ黙って鍋をかき混ぜているだろう。
子どもたちはそれぞれの部屋で、それぞれの現実と格闘しているだろう。
何一つ、変わっていない。だが、何一つ、このままでいいとは思えなかった。
彼は鞄を開けた。
中には、履歴書が一枚、折りたたまれて入っていた。
一年前から、ずっとそのまま。
今日、それを取り出して、駅前のハローワークに向かおうと思った。
遅すぎるかもしれない。無駄かもしれない。馬鹿げているかもしれない。
それでも。いや、だからこそ、一歩だけ踏み出そうと思った。
「馬鹿げていることを恐れていたら、何もできない」
と、誰かが言っていた気がする。
彼はネクタイを緩めて歩き出した。
背後では、まだ誰かが将棋を指していた。