エピローグ ~冷えた缶コーヒーでも~
カフェのごはんはちゃんと個々で支払いをして、付近のおみやげもの屋を物色した。
美羽はおどけたタコのキャラクターがノック部分についた変なボールペンを買った。なんだか自分のために、意味のない散財をしたい気分だったのだ。悠馬は会社用に無難な個包装のお菓子を買っていた。
その後、ホットの缶コーヒーを買って、海岸堤防をぶらぶらと歩いた。
美羽は達也がお金と生活に困るだろうと予測したが、達也の問題点はもう一つあった。悠真にはデリケートな話題なので言えないが、達也は男性不妊の可能性があった。
定期的に性交しているのに、二年経っても美羽は妊娠しなかった。毎月ぴったり生理がくる。
まだ、焦る年齢ではないかもしれないけど、こういうのは早めの方がいいかと思い不妊外来に半年前から通っていた。美羽に関する検査は一通りできるものはした。その結果は異常なし。
タイミングが合わなかっただけかもしれないし、他に原因があるかもしれない。その可能性の一つに達也の男性不妊があった。先生にはもし、気になるなら夫も検査を受けた方がいいかもしれないと言われた。こういうものは夫の協力が不可欠だから。
本当はあの指輪の件がなければ、話そうと思っていたのだ。でも、その親切心も砕けた。
男性不妊の可能性があるとわかったら、達也がどんな反応をするか怖かった。再婚のハードルが上がるであろう達也が美羽を手放さなくなるかもしれない。だから、その事実は伏せた。
別に達也が男性不妊だったとしても美羽は受け入れた。子供は授かりものだし、できないならできないで仕方ない。二人でもかまわない。それが寄り添いあえる人ならば。
美羽と悠真は海岸堤防の端に腰掛けた。テトラポットで砕ける波を見るともなしに見る。美羽は冷めてしまった缶コーヒーを飲んだ。
空の薄い水色に段々とピンク色が混じっていく、まるで絵の具を混ぜたように綺麗に色が絡まるのを眺めた。夏はとっくに終わり、日が傾いてきている時間帯であまり人影はない。
犬を連れた父親と嬉しそうに話しかける女の子が通りかかった。犬のリードをひく父親は、娘が学校であったことを話すのを楽しそうに聞いている。
美羽が焦がれてどうしても欲しかったもの。
親に虐待されたわけではない。放置されていたわけでもない。
必要なものは与えられたし、大学まで進学するお金も出してもらった。
ただ温度のない家庭だっただけだ。
両親はいつも忙しそうで、物静かで家ではほとんど会話はなかった。
共働きで家事もしなければいけないのはわかっていた。
美羽は、親の言う事をよく聞いた。
親の望みそうなことをした。
抱きしめてほしいなんて言わない。
ただ、少しでもいいから美羽に関心を持って欲しかった。
少しでもいいから話を聞いてほしかった。
学生時代に数人つきあった人はいる。
でも毎回、「なに考えてるかわからない」「俺のこと好きじゃないよね」と言われて振られた。美羽は相手のことを観察して、先回りして相手の望むことをするのは得意だが、自分の気持ちを伝えたり甘えるのが苦手だった。
だから、恋愛はいつも上手くいかなかった。
達也は美羽の人生で一番、温度を感じさせてくれる人だった。喜怒哀楽がはっきりしていて、グイグイと美羽をひっぱっていってくれる。
あのワンルームの部屋で、「落ち着く」「好きだ」と抱きしめてくれた温かさに、こうまで無下にされても縋り付いてしまった。自分の悲惨な状況を見て見ぬ振りをしてしまった。
あの喫茶店のコーヒーに出会うまで。
自分が過去を思い出して、ぼんやりしていたことに気づいて、はっと顔を上げた。
空はすっかり茜色に染まっている。
隣の悠真も見ると、彼も空を見上げてぼんやりしている。
そんな状況がなんだかおかしくなって、「ふふふ」と美羽から笑いが漏れる。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」慌てたように言う悠真を見て笑いが止まらなくなった。
「うううん。私もぼーっとしてたけど、ふふっ。長谷川君はもっとぼーっとしてたからなんだかおかしくて」
お互い顔を見合わせて、ひとしきり笑った。
「あのさ、俺、転職するんだ」
隣に座る悠真が言いにくいことを話さなければいけない時のように、ゆっくり言葉を発した。
「えー、よかったね!」
美羽が結婚するときに迷わず会社を辞めたのもSEという仕事が嫌になったのではなく、旧体制の残る社風にうんざりしたからだ。昨今のIT化の流れに乗せようという方向性を押し出しながら、実際は腰の重い古株の上役達のせいでなかなか新しいシステムに切り替えられない。
システム部にSEとして採用されたのに、ウイルス感染したPCの復旧だとか、古株社員の事務処理をする際に呼ばれるとか本来の業務以外が大半だった。システムの刷新もなかなか進まなかった。
「公務員試験受かって、地元に戻ることにしたんだ」
「どんな職種なの?」
「SEだよ」
「そっかSEも公務員であるんだねぇ。よかったね」
公務員というと、役所で働く人を連想してしまうが、公務員と言っても職種も仕事も多岐に渡るようだ。
「あのさ……。今、ウィークリーマンションで仮暮らししてるんだよね? まだ、どこで暮らすか決めてないなら、うちの地元で暮らさない? ほどほどに都会でほどほどに自然あって、すごく住みやすくていいいところなんだ。色々案内もできるし……」
悠真が手の中で空になった缶コーヒーをもてあそびながら、小さな声で続ける。
「……その、離婚したばかりでごめん。でも、俺もうすぐ退職して引越しするから。藤井さんに会えるのもこれが最後かもしれないから。その、好きなんだ。藤井さんのこと」
悠馬は会話の最中に「その」を連発しながら、しどろもどろに話して、顔を真っ赤にさせている。美羽は転職の話からの突然の告白に戸惑った。
「正確にいうと、五年前の話なんだけど、新人研修で一緒になった時に藤井さんを好きになったんだ。あの時はなにも行動できなくて、部署が一緒だから少しずつ仲良くなれたらいいなと思ってたんだけど……。
でも、藤井さんは斎藤君とつきあい始めて勝手に失恋して。でも、毎日顔を合わせてるとやっぱり好きだなって思って。
さすがに、結婚したときに断ち切ったつもりだったんだ。でも、あの日喫茶店でコーヒーを飲む藤井さんを見たら、やっぱり気持ちが変わってないって思って。その、振ってくれていいんだ。めちゃくちゃ下心のある提案だから。嫌だったら、きっぱり振ってほしい。それでも、もう後悔はしたくないから」
一息に言い切って、悠真は目をふせた。まるで死刑宣告を待つ人みたいに固まっている。缶コーヒーを握りしめる両手が微かに震えている。
真剣に想いを告げてくれた悠真に、美羽も真剣に考える。
普段は慎重で勢いでは絶対に判断しない。いくら悠真がいい人でも今までの美羽なら即断っていただろう。
でも、達也とは三年つきあってニ年間、結婚生活を共にして結局離婚した。
それなら直感で動いてもいいじゃないかと美羽は思った。
悠真の地元も魅力的だった。候補に入れていた土地だし、都心へのアクセスもいい。誰もいない土地で心機一転というのもいいけど、知り合いがいるほうが心強いだろう。
籍を入れていなければ、別れても引っ越すだけだ。地元に飛び込めば、悠真の実家の家族や友達との関係もわかるだろう。
三年間、同じ部署で一緒に仕事する限りでは、信頼できるし、気も合いそうだと思えた。
なによりあの喫茶店で過ごした時間が決め手だった。それに今日過ごした時間も。
彼と一緒なら、海で飲む冷めた缶コーヒーでもおいしい。
それ以上に明確な答えがあるだろうか?
「……正直な所、すごくびっくりしてるし、全然気づいてなかったんだけど……。でも、長谷川くんのこと、ちょっといいなって思ってる。長谷川君の地元に引越ししようかな。まだ好きかはわからないから、友達からよろしくね、でいいのかな?」
正直な所、今は恋愛沙汰はごめんだ。でも、悠真や悠真と過ごす時間は心地よい。ずるい提案かなと思いつつ、今の美羽にできることを伝えた。
「……贅沢を言えば結婚前提でつきあってほしい」
「それはおいおいかなぁ。もう少しお互いを知ってからね」
「うん。焦ってごめん。でも、本音。藤井さんのペースでいいから俺のこと考えてほしい」
頬の赤みがなかなか引かない悠真を見て、美羽から笑いがこぼれる。
美羽は悠真となら達也とは違う関係性を築けそうな予感がした。
本編である妻視点の物語はこれにて終了です。
お読みいただき、ありがとうございました!
幕間の悠真視点を挟んで、ざまあを含む夫視点の物語へと続きます。
よかったら、そちらもどうぞ。