6.食後のコーヒー
達也が離婚を了承したところで、食後のコーヒーがきた。
「なんでわざわざ外で話したんだ? しばらくはまだ一緒に暮らすだろうし、家でよかったじゃないか」
浮気が証拠付きでバレたけど、最悪の事態が避けられたことにほっとしたのか、いくぶん表情を緩めて達也はコーヒーを飲んでいる。
家で離婚を切り出したら、暴力を振るわれるか、体を求められるかして丸め込まれる恐れがあったからだ。そんなこと口に出して言えないけど。
美羽は返事もせずに黙って、コーヒーを飲んだ。美羽はもう一つも達也を信頼していなかった。
「離婚届にサインして、捺印してください。印鑑は持ってきました。今日、私が役所の時間外窓口に提出しておきます。私はもう家に戻りません」
美羽はコーヒーのソーサーの横に、記入済みの離婚届にボールペンと印鑑を添えて置いた。
「なに言ってるんだ? 荷物はどうするんだ?」
動揺した達也の手元が狂い、離婚届に零れたコーヒーがかかる。
「もう、自分の荷物は運び出してあります。これからの住居についてはご心配なく。家具や家電は共有財産なので、全て置いていきます。私個人の最低限のものだけ持ち出しました。歯ブラシ一本ないと思います。いらないものは容赦なく処分してもらってかまいません」
離婚届の横にカタリと音を立ててマンションの鍵を置いた。
きちんと最終通告をせねばとの気合いから、なぜか敬語になる自分がおかしかった。
二人の住むマンションから距離のある場所のウィークリーマンションを二週間前に契約して、そこに自分の荷物は移してある。徐々になくなる美羽の荷物に少しも気づかないくらい無関心だったくせに、今更なんだ。
最後まで使用した荷物はトランクにいれて、レストランに来る前に駅のコインロッカーに預けた。疑われないようにレストランには通勤に使っていた鞄一つで来ている。
達也がコーヒーを零した離婚届を回収すると、気を利かせたボーイがテーブルを綺麗に拭いてくれた。
そこへ美羽は記入済みの離婚届を差し出す。達也がコーヒーを零したものとは別のものだ。激高して破り捨てることも想定して、予備を用意していたのだ。
「こんな用意周到に……」
また筋違いな怒りをこちらにぶつけようとした達也が保証人の欄を見て、唖然としている。
「律花と友加里に頼んだの。二人とも喜んで保証人になってくれたよ。律花とは私との結婚前から二股していて、結婚後は友加里とも体の関係があったんですってね。楽しそうに全部話してくれたわ。録音したけど聞きたい?」
追撃する美羽の声に、達也は力なく首を横に振る。最低なことに達也の浮気は律花だけではなかった。もうそのことに対してなんの感情も動かない。
「離婚届にサインしてくれるよね?」
美羽はにっこりとほほ笑んだ。達也は無言でボールペンを走らせ、のろのろと判を押した。
「そうはいっても、お金のこととか貴重品とか話し合うことがまだあるだろう? 書類を提出したからって、終わりじゃないだろう?」
美羽に離婚届を差し出すと、縋るようにこちらを見ている。こうなるのが嫌だから、スッパリ縁が切れるように周到に準備したのだ。
三ヵ月でケリをつけようと思っていたけど、実際には二ヵ月で決着が着いた。
「マンションの賃貸契約や光熱費の契約は達也の名前でしているし、マンションや光熱費の引き落としは達也の給与口座からだからそのままでなんの問題もないわ。共有の口座も貯蓄もないし、特に問題ないと思うけど? あ、もらったアクセサリーとか返してほしいの?」
そう言われるかもしれないと思って、外した結婚指輪もプレゼントされたアクセサリーも鞄にひそませてある。思い返せば高価なアクセサリーも独身時代にもらった分だけで、結婚後になにかプレゼントされたことはないなと、ふと思う。
「いや、ないならいいんだ……。別にプレゼントしたものは返さなくていい。本当に慰謝料とか財産分与はいいんだな?」
「いらないわ。そんな余分なお金もないでしょう? じゃ、幸せになってね。ここは私が支払っておくから」
離婚届を念入りにチェックすると、美羽は笑顔で別れを告げた。美羽の左手の薬指にすでに指輪がないことに気づいて、達也ははっとした顔をした。
「……でも、同期の飲み会には来るだろう? 気持ちが落ち着いたら、また飯でも行かないか?」
「浮気した元夫と浮気相手二人がいる同期の集まりに顔を出す元妻なんているのかしら? 二度と同期の集まりには顔を出さないし、連絡もしないから、達也は安心してこれからも交流を深めてちょうだい。離婚したことは伝えるけど、理由については誰にも話さないわ」
「……そうか。でも、飯くらい……」
「あなたのこと、もうなんとも思ってない。未練もないし、友達になりたいとも思わない。むしろ、きれいさっぱりなかったことにして忘れたい。もう他人なの。連絡も一切しないで。街で見かけても声をかけないで」
「夫婦だったのに……」
「つきあって三年。結婚して二年。その関係を壊したのは自分でしょう? もし、つきまとうようなら、会社にバラして、慰謝料請求するから」
「………」
きっぱりと関係を拒絶する美羽に、達也はやっと自分の敗北を悟ったようだ。なぜ、ないがしろにしていた妻にこれほど縋るのかはわからない。
肩を落とした達也は何度も美羽の方を振り返って、おぼつかない足取りで店を出て行った。
これで、全部おしまい。
美羽は自分の思っていた通りに話が進んで、すっきりした気分だった。達也をちょっとやりこめたぐらいで気持ちは晴れないだろうと予想していたけど、意外と清々しい気分だ。
レストランの支払いを自分のカードですると、鼻歌を歌いながら通りを歩く。
今回の話し合いで思ったけど、達也は目の前にある物事しか見えていない。美羽がいなくなることで色々と困ったことになるとは思ってもいないだろう。その事実を教えてあげるほど、美羽は優しくも、親切でもない。
だから、美羽に縋れないように保険をかけた。このまま彼が別の寄生先を見つけられますように。願いをこめて、郵便ポストに大きめの茶封筒を投函した。
その足で、役所の時間外窓口に離婚届を提出した。
美羽は駅のコインロッカーでスーツケースを回収すると、帰り道は念のため、遠回りして何本も電車を乗り換え、小さな駅でタクシーをつかまえて帰った。
繁華街や会社や住んでいたマンションの近くなど達也の生活圏には行かない方がいいだろう。しばらくは極力、外出しないようにして暮らそう。引きこもるのは得意だ。
当面はウィークリーマンションで仮暮らしだ。これからどうするかじっくり考えよう。仕事とお金の心配はない。
さあ、これからどんな街で暮らそうかな?
あのコーヒーを越える出会いがあるかもしれない。
美羽は久しぶりに気持ちが浮きたつのを感じた。