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4.牛フィレ肉のソテー

 家での話し合いでは有耶無耶にされそうだと思い、休日に達也の好きなカジュアルフレンチを予約した。美羽が雑用を済ませてから行くというと、二つ返事で身なりを整えてご機嫌で先に家を出た。

 結婚してから二人ででかけるのは数えるほどしかなかったというのを達也は気づいているのだろうか?


 達也は美羽との約束はすぐ破るので期待していなかったけど、達也のお気に入りのレストランだったせいか約束の時間に店に現れた。店の前で合流すると、二人揃って入店する。


 ランチのコースと席を予約していたので、案内はスムーズだった。飲み物に美羽は炭酸水を達也は赤ワインを注文した。


 達也は典型的な釣った魚に餌をやらないタイプだ。達也との過去が甘やかなために、見て見ぬふりをしてきたけど、客観的に見るとそういう残念な人だったということなのだろう。


 そう勝手に自分の中で評価を下すと、美羽は無言でコース料理を食べ進める。

 スープ、前菜……とコースは進み、目の前にはメインの牛フィレ肉のソテーが給仕された。おいしそうなソースがかかり、鮮やかな色彩の季節の野菜が添えられている。それらをナイフとフォークを操り、機械的に口に運ぶ。


 目の前の夫は、美羽が念入りな準備と壮大な決意を元にこの席についているのを気づいた様子もない。おいしそうに赤ワインやコースのメイン料理を味わっている。


 「最近しおらしいな。記念日でもないのに、フレンチのランチなんて。なんだよ、反省したのか?」

 機嫌良さげに告げる達也に、美羽はなにも言わずに微笑む。傍から見たら、休日に豪華なランチを楽しむ仲睦まじい夫婦に見えるだろう。


 「ならいいんだよ。ああ、今年も例の営業部のバーベキューが来週末にあるから」

 そんな美羽の態度に満足したのか、達也はだんだんと口数が増えていく。


 「行かないわ」

 美羽はにっこり笑って、拒絶の言葉を告げた。


 結婚してから2回参加したイベントのことを苦々しく思い出した。


 美羽と達也が勤める会社は歴史があり、古い慣習が数多く残る。営業部の懇親会という名のバーベキューは年に1回ある恒例のイベントだ。


 家族ぐるみで行われる営業部の懇親会は、美羽にとっては地獄のようなものだった。

 このイベントは家族ぐるみで交流を図るものでもなく、普段、営業に走り回る社員を支える妻を労うものでもない。普段、家族のために身を粉にして働く夫を労う会なのだ。


 美羽は慣れないレンタカーを運転し、食材や酒の買い出しをして、準備や後片付けに追われる。下手をすると妻を連れてきていない社員の子供の世話を押し付けられることもあった。

 営業部には、女性社員も所属してるが軒並み欠席している。


 かといってすべての妻がこきつかわれるわけではない。そもそも妻思いの人はこの会に連れてこないし、きちんと意見を言えるような妻は男達の中に交じって悠々と食事とビールを楽しんでいる。


 美羽のような地味で少し疲れたような主婦がこのイベントが上手く回るように裏で動いていた。かといって、美羽はその輪に完全に混じれるわけでもない。子育ての話を声高にされると、美羽は会話に入れない。


 バーべキューの最中に営業の社員達と酒とバーベキューを楽しんでいた達也は、新婚の時も美羽を人に紹介することもなかった。達也が唯一声をかけたのは、ビールが足りないから買い出しにいってきてくれと頼みに来た時のみ。


 前回、帰ってきてぐったりとソファに倒れ込む美羽に「夕飯は?」と達也は聞いてきた。感謝の言葉も気遣いもなかった。


 「作る気力がない」と美羽が答えると「外食しよう」と言ってきた。営業で体力があるからか、上司や同僚と仕事外でコミュニケーションをとれたからなのか、美羽と対照的に達也は元気だった。


 「そんな元気ない」と美羽が答えると「じゃ、一人で飲んでくるわ」と一人でさっさと外出してしまった。美羽の夕飯の心配もすることもなく。


 そんなことばかりだった。

 でも、そんな日々ももう終わる。


 「は? お前になんの用事があるっていうんだよ。大事な営業部のイベントだって言ってるだろ!」


 「離婚してください」


 「なに言ってるんだよ? 家にこもってばっかりいるお前にとって、人と交流できる貴重な機会だろ? 行きたくないからって、そんな冗談を言うな」


 「なにが貴重な機会なの? 行っても足に使われて、パシリにされるだけじゃない。もう、うんざり。あなたの言いなりになるのは。見下されて、好きに使われるだけの生活なんてもう、うんざりなの。達也だって、二人でいて心地良くないでしょう。価値観もあわない、性格もあわない」

 いつも自分の機嫌を伺うようにして、二言以上は話さない美羽がとうとうと反論しているのに、達也は驚いている。彼がナイフとフォークを持つ手は完全に止まっていた。


 「だからって簡単に離婚なんて言うな。なに我儘言ってるんだ? 結婚とか夫婦ってそんなもんじゃないだろ?」


 「結婚とは夫の機嫌をとって、言いなりになることなの? いつの時代の話をしているの? もうこれ以上、我慢するのは嫌なの。人の話を一つも聞いてくれない。最低限の気遣いもない。自分の思う通りにいかないと、不機嫌になって無視する」


 「それは……」

 思い当たる節はあるのか、珍しく達也は言葉を濁した。


 「でも、稼ぎもないのにどうやって生活するんだよ? 結局は別れられないだろ? 俺は財産分与なんてしないぞ」

 一瞬うろたえたものの、達也は端正な顔ににやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


 「なんで一人で生活できないって決めつけてるの?」


 「俺に養ってもらってる分際でなにを言ってるんだ。だって、お前は専業主婦だろ? たまにバイトしてんのかもしれないけど……。はした金程度で暮らしていけないぞ。いきなり家から放り出されて、生きていけるのか?」


 「何度も私の仕事について説明したよね。正社員ではないけど、ちゃんとプログラマーとして働いてる。私個人の貯蓄もある。今は家事をしなければいけないから仕事をセーブしているけど、こちらが希望して納品数を増やせば、自分一人分くらい養っていけるわ」


 仕事やお金に関しては大事なことだから、達也にも何度も説明した。

 美羽が勤めていた会社のシステム部門は美羽の望むような仕事内容ではない上に、残業や休日出勤が多い。社会情勢の流れ上、産休や育休はとれるが、子育てに理解があるとは言い難い社風だった。


 結婚を機に転職しようかと悩んでいた時に、学生時代の友人からプログラミングの仕事の話があったのだ。多少の貯蓄もあったので、勤めていた会社を退職後、直契約という形で仕事を請け負っている。


 設計書や指示書を元に納期までに作成したプログラムを納品すれば良い。納品したプログラムがシステムとして稼働する時に立ち会う必要も不具合対応もしなくて良い。美羽にとっては好条件の仕事だった。


 今の美羽は正社員でもバイトでもパートでもない、大げさに言うと個人事業主でプログラマーとして働いている。だから、稼げるお金は時間給ではなく、納品した成果物の対価となる。


 時給換算すると、平均的なパートの給与と比べて4倍くらいだろうか。

 でも以前、薬剤師のパートの時給が高額であることに達也が憤慨しているのを聞いたことのある美羽は、彼のプライドを刺激しないように自分が具体的にどのくらい稼いでいるかは濁していた。

 納品物の品質がよく、納期をしっかり守り、密なコミュニケーションをとる美羽の評価は高く、仕事を増やしたいと希望したところ、快い返事がもらえた。


 達也の前では仕事をしている姿を見せていないし、在宅で仕事をしているといっても嘘かバイト程度だと思っていたようだが。足で稼ぐ営業にはプログラマーだとか、在宅ワークというものは馴染みのないものなのかもしれない。


 「……そんなの聞いてないぞ。なんだよ、俺の金で養われて、働いた分はちゃっかり貯金してたってことか?」

 達也は二言目には、「俺の金で生活している」だの「俺が養っている」と言う。

 やはり、そこの誤解を正すところから話さなければならないのかと美羽はうんざりした。


 「結婚した時、まだ私は働いていたわよね?」

 「ああ」

 「まだ給料が振り込まれるだろうと、マンションの家賃は達也の給料から払って、光熱費と食費や日用品は私が支払うという話になったわよね。私はあなたから銀行のカードを預かったこともないし、現金ももらったことはない。確かに銀行の通帳は預かってるけど、通帳だけじゃお金は引き出せない」

 「……そうだったか?」


 結婚式や新婚旅行のニヵ月前に、美羽と達也は籍だけを先に入れて、マンションで一緒に暮らし始めた。マンションや光熱費の契約は達也の名前でして、達也の給与振り込み口座から引き落とされるようにした。


 「私は結婚してから、ずっと光熱費をあなたの口座に振り込んでいる。会社を辞めてからも。そして、食費や日用品……時にかかる家電の買い替えなんかも全部私が自分のカードで払っていたわ。あなたに現金を用意してほしいと言われた時も、自分の口座から下ろしていたわよ。だいたい、あなたの銀行のカードもあなたのクレジットカードも私は触ったことすらないでしょう?」


 美羽は預かっていた達也の給与口座の通帳をスッとテーブルに載せた。達也が慌ててそれを確認している。


 光熱費や美羽が補填したお金を、現金で入金するのではなく、美羽の口座から振り込んでいてよかった。通帳を見れば、お金の流れは一目瞭然だ。


 「通帳を預かっていたのは、引き落としの残高が足りているかどうか確認するためよ。あなたのカードの支払いの残高が足りなくて、補填したこともある。その話をしても一度もそのお金が返ってきたことはないけど」


 「え……? それってどういう?」


 やり手の営業マンかと思っていたけど、これだけ数字に弱くて大丈夫だろうか? 美羽はパソコンでまとめた表の入った書類を達也に差し出した。


 「我が家のお金の流れをわかりやすくまとめたわ。結婚してあなたに私は養ってもらっていたわけではないってわかってもらえるかしら? 金銭的には私の方が余分に払っているし、家事労働の労力を考えると付加価値はもっとかしらね?」


 達也は通帳と美羽のまとめた書類を見て、顔色を悪くしている。


 「独身時代と同じように、スーツやネクタイにお金を使って、豪華なランチや飲みに行けるのがおかしいと思わなかった? ジムにも通っているし、ゴルフ関連の出費も相当なものよ。あなた、自分の給料の金額わかってる? しかもあなたが払っている家賃も会社の補助で数万円程度よ?」


 達也と美羽の勤めている会社は結婚すると三年間は家賃補助でけっこうな金額が給付される。だから、美羽も高額な家賃のデザイナーズマンションに住むことに最終的に同意したのだ。家賃補助がなくなる時にマンションの契約更新もあるので、その時に住居について話し合おうと思っていた。


 「私たちの財布も口座も別で、結婚当初に決められた分をお互い負担している。そういう生活をしていたのに、なぜ私を養っているという発想になるのかわからないわ。達也が家賃以外の給料やボーナスを好きに使っていたのだから、私も家に収める分以外を貯蓄するのは自由でしょう?」


 「じゃあ、なんでそんな切り詰めてたんだ……? だから、てっきり俺一人で家計を支えてると……」

 達也の視線が美羽の独身時代から着ているシンプルな服を辿る。


 「あなたがいくら言っても、散財を辞めないからでしょう? 私も非正規労働だし、私やあなたになにかあったらすぐに立ち行かなくなるから蓄えるしかないでしょう?」


 「………」


 「だから、例え家から出て行っても、経済的には問題ないのよ。心配してくれて、ありがとう」


 美羽はにっこりと笑った。

 最後だからとコース料理にしたけど、コース料理を食べ終わるまでに話が終わるかしら?と理解力の低い達也を前に、一抹の不安がよぎる。


 つきあってる時は気づかなかったけど、美羽の夫は頭の回転が悪くて、思い込みの強い人間のようだ。

 未だに通帳と書類を交互に見て、美羽の話す内容を租借し、攻撃できる粗がないか探している夫をよそに、美羽は料理を楽しんだ。

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