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3.サーモンのマリネ

 その日は午後から買い出しに行って、達也の好きなメニューを作ることにした。お洒落なレストランで出るような見た目も華やかなメニューが達也は好きだ。

 美羽は和食が好きで、独身時代もひたすら茶色い料理を作っていたので正直な所、洋食は苦手だ。それでも、いつもネットでレシピを検索して、高い食材にため息をつきつつ工夫して料理を作っていた。


 「おかえりなさい」

 帰ってきた達也を玄関で出迎える美羽の言葉に挨拶すら返ってくることはない。

 関係性を作り直そうと決意したのに、なぜか自分がないがしろにされている事実が一つずつ積みあがってくる。


 珍しく早めに帰ってきた達也は美羽にスーツの上着と鞄を無言で渡した。背広をハンガーにかけて、軽くブラシをかける。上着と鞄を衣装部屋に収めている間に、達也は部屋着に着替えてダイニングテーブルに着いて、先に食事に箸をつけていた。

 リビングのソファに、着替えの残骸であるワイシャツとネクタイとスラックスが無造作に置かれている。美羽は小さくため息をついて、それらを片付ける。いつもの光景だ。


 「ビール」

 美羽は無言で冷蔵庫からビールを出すと、薄手のビールグラスに注いで手渡した。それをおいしそうに飲む達也を眺めた。


 美羽は一人っ子で両親が共働きだった。だから、だいたい夜ご飯は一人で食べた。父も母もあまり口数の多くない人で、美羽には一般的な夫婦や家族の在り方がわからなかった。美羽のあこがれる温かい食卓は、ドラマや小説の中のフィクションなのかもしれない。


 達也はサーモンのマリネを黙々と食べている。

 達也の衣類の後片付けをして、美羽もテーブルに着いた。ご馳走といってもいい料理を前に食欲がまったく湧かなかった。


 「指輪を外して合コンに行ってるの?」

 意を決して、無表情で箸を進める達也に尋ねた。


 「はぁ? なんの話?」

 達也が額に皺寄せて、不機嫌な声を出す。それだけで、美羽は決心が鈍りそうになった。彼は会話をしていてもこちらを見ることもない。


 「昨日、見ちゃったの偶然。あの、同期の飲み会に行くときに。達也が結婚指輪を外しているところを」


 「だから、なに?」


 「すごく嫌な気持ちになったから、できることならしないでほしい。飲み会にいくにしても指輪を外さないでほしいの」


 「ただのノリだよ。一緒に行く先輩が外せっていうんだから仕方ないだろう? なんだよ、嫉妬か? 合コンくらい目をつぶれよ。浮気してるわけでもないし。家でずっといるお前と違ってさ、仕事で疲れてるから気分転換が必要なんだよ。ただでさえ、不味い飯がもっとまずくなるんだけど。お前の辛気臭い顔見てると、本当にストレスたまるわ。今日は外で食べてくる」


 言いたいことをいうと、達也は本当に家から出て行った。午後いっぱいかけて、買い出しをして作った色鮮やかな料理が滑稽に見える。


 達也の機嫌は悪くなるってわかっていたことじゃない。

 でも、行動を変えると決めたのは自分だ。今回上手くいかなかったからって、めげている場合ではない。


 そう思うのに、達也に言われた言葉の一つ一つが頭をぐるぐる巡る。


 夫婦だから、自分が結婚すると決めた人だから、我慢しないといけないの?

 私の理解力や包容力が足りないの?

 私の料理がおいしくないからいけないの?

 私が可愛げが無くて、陰気だからいけないの?

 私の言い方が悪いの?


 頭に浮かぶのも自分を責めるような言葉ばかりだった。なに一つ次に繋がるような前向きな考えは思い浮かばなかった。


◇◇


 美羽の思ったことが正解と言わんばかりに、それ以降、達也は美羽に対して辛辣になった。いつもむすっと不機嫌にしていて、元々あまり会話はなかったが、一つも口をきかない。


 そのくせ、メッセージアプリで必要な要件や指示が飛んでくる。

 「秋物のスーツやネクタイを出しておけ」

 「出張があるから、現金を用意しておいて。着替えをスーツケースに詰めておけ」

 万事が万事、この調子だ。


 達也にとっての美羽ってなんなんだろうか?

 まるで男尊女卑の時代の夫のようだ。

 ただ、達也に尽くして養ってもらっている存在?

 感情や意思を殺して、息をひそめて生きるべき存在?


 まだ、がんばらないといけないかな?

 一回行動しただけで、くじけている場合ではないかな?

 なにかもっと工夫して、もっとがんばって……。


 「もう、無理なんだけど……」

 ガランとしたリビングで一人、美羽はうずくまった。そして、心の底からの本音がこぼれた、涙と共に。


 達也と結婚すると決めたのは自分だ。

 美羽はあたたかい家庭を作りたかった。

 できたら、子供も欲しい。


 でも、そんな未来は美羽がどうあがいても来ないという確信が日に日に強くなる。


 達也のことを好きな気持ちはとっくになくなっていた。

 話を聞いてくれない、最低限の気遣いもない男と再構築なんて無理だ。

 かといって、美羽のような不満を抱える妻は世の中に溢れるほどいるだろう。

 離婚なんてできるのだろうか?


 この状態でなぜ結婚を続けなければならないのかはわからない。

 紙切れ一枚のことなのに、契約とはこんなに重いものなのか?

 つきあってる時ならば「別れよう」の一言で済むのに。


 美羽が失言した日以来、達也は毎日外食するようになり、帰りも遅い。自分一人だと料理をする気がしなくて簡単に作った卵雑炊をかきこむ。涙がにじんで、そのせいか塩辛く感じる。


 価値観の不一致は離婚事由になるだろうか?

 もう離婚への決意は固まっているのにきっかけが掴めない。美羽を無下に扱っている達也だが、下手に離婚を切り出したら激高しそうだ。


 美羽は通っている産婦人科の検査結果を前にため息をついた。これを見せたらきっと別れられないだろう。


 八方塞がりになって、美羽は重いため息をついた。その時、スマホが短く振動して、メールの着信音が鳴る。


 仕事のメールだろうか?

 美羽がメールをチェックすると、思いがけないメッセージが届いていた。そのメールを何度も読み返し、添付ファイルを確認する。それを見て美羽はほくそえんだ。


 それからは当たり散らし、相変わらず尊大な態度の達也を上手くあしらえるようになった。以前のようにおとなしく従うようになった美羽に達也はどこか満足げだった。


 本当に三ヵ月で決着がつくかもしれない。美羽はやるべきことのリストを作り、平日も休日も奔走した。すべき事は山ほどある。


 全てはあの日味わったコーヒーのために。

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