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1.喫茶店のコーヒー

 「斎藤さん」

 ふいに声をかけられて、美羽はびくっと肩を揺らす。その声に聞き覚えがある気がして、振り向くと同期の長谷川(はせがわ) 悠真(ゆうま)が立っていた。


 「よかった、人違いだったらどうしようかと思った。飲み会終わったの? 駅と反対方向向かってるみたいだけど」

 悠真は、日に焼けていない白い頬にうっすらと汗をかいていて、少し息がきれていた。


 悠馬と美羽は同じシステム部に所属していたが、結婚した後の同期の飲み会でもあまり顔を合わせることはなかった。システム部は残業や突発的な仕事が多いし、美羽も飲み会に毎回参加しているわけでもないので、すれ違っていたんだろう。

 身長こそ高いが、細身で中性的な悠真はいつも穏やかで動作もおっとりしていた。その悠真が息を切らして走ってきたことに美羽は驚いた。

 同期の飲み会に行きたくて、残業後に駆けつけて来たのだろうか?


 「……すごい顔色悪いけど、タクシー捕まえる?」

 なにも言わない美羽を心配しつつも、田中と違って美羽に適切な距離を保ってくれて、ただただ美羽を気遣ってくれる。


 「……今日、すごく嫌なものを見て。飲み会も楽しくなくて、でも、まっすぐ帰りたくないの」

 同じシステム部で働いていた悠真は相変わらず柔らかい雰囲気で、美羽を心配してくれる声に思わず本音が零れてしまう。


 「ごめん、変な事言ったね。私は大丈夫。飲み会はまだ続いてるよ。また、残業だった? 今からでも間に合うよ」

 今日の自分は構ってアピールがひどい。急に自分が恥ずかしくなって、美羽は早口でまくし立てる。


 「ちょっとだけつきあってもらっていい? あ、二人きりだとダメかな? コーヒーでも飲まない?」

 頬をこすりながら言う悠真の提案に美羽は乗った。いつもだったら、いくら同じ部署で働いていたことがあって信頼している同期とはいえ二人きりでどこかへ行くことなんてしなかっただろう。


 行き先も告げず、黙って歩く悠真の後に続いて歩く。悠真の癖のある柔らかそうな髪に寝ぐせを見つけて、なぜか微笑ましい気持ちになった。以前「どれだけ整えても、跳ねてくる」となげいていたのを思い出す。

 ちなみにストレートパーマをかけたこともあるけど、似合わな過ぎて二度としないと決意したと聞いたことがある。


 同期で飲んでいた居酒屋のある繁華街から二本入った路地に、そのお店はあった。金曜の夜なので人通りはあるが、大通りと比べると落ち着いた雰囲気だ。


 「怪しげで店の雰囲気がわからないから不安になるかもしれないけど、喫茶店だから。多分、斎藤さんも好きだと思うんだけど」

 無言で先を歩きながらも、美羽が着いてきているか時折後ろを振り返っていた悠真が、地下へと続く階段の前で足を止めて口を開いた。


 地上には店名を書いた小さな黒板の立て看板があるだけで、薄暗く見える地下へと階段が続いている。

普段の美羽だったら、ひるんで帰っていたかもしれない。

 でも、今日は少しやけな気持ちになっていた。達也だって好きにしてるんだから、私だって好きにする。だから、悠真の後ろに続いて階段を下りた。


 階段を一歩ずつ降りる度、どこか違う場所へと行くかのような酩酊感がある。

 階段を下り切きると木製のアンティークなドアが目に入った。まるで時間をさかのぼったかのような気持ちになる。

 カランとカウベルを鳴らして、悠真がドアを開けてくれる。ドアを押さえてくれているので、慌てて店内に入った。


 「うわぁ……」

 悠真に連れて来られたのはアンティークな喫茶店。

 狭い階段とこぢんまりとした入り口からは想像できないくらい店内は広い。店内は広いが、席間隔を広くとっているおかげで席数はそこまで多くないようだ。

 大きめの観葉植物や背の低い本棚が配置されているおかげで、他のテーブルを気にせずくつろげそうだ。バーほどではないが、店内は間接照明のみで明るさが絞られていて落ち着いた空間になっている。


 心地よい音量でジャズが流れ、コーヒーの香ばしい香りが漂う。

 入った瞬間にこの店に美羽は心を掴まれてしまった。


 「気に入ってくれると思ったんだ」

 後ろに立つ悠真を見ると、満足げな顔をして微笑んでいる。


 「お好きなお席にどうぞ」

 店員の白髪の老人に声をかけられる。綺麗に整えられた髭や目じりに刻まれた皺から重ねた年齢が伝わってくる。


 「こっち」

 悠馬が左の隅の席へと向かうので、大人しく後に続く。


 「メニューはあんまりないんだけどね。コーヒーは好き嫌いないなら、本日のおすすめがいいよ」


 「うわぁ……」

 さっきから同じような感嘆の言葉しか口から出てこない。美羽は二人掛けのテーブルにつくと、その椅子の座り心地に感動する。見た目は年数を重ねた普通の椅子なのに、驚くほど座り心地がよかった。


 メニューを広げながらも、周りをきょろきょろと見てしまう。

 どうやらテーブルとイスは全部、揃いのものではないようだ。でも、どのテーブルや椅子も磨きこまれて丁寧に手入れされている様子が伺えた。


 中途半端な時間で、こんな辺鄙な所にある喫茶店なのに、八割方テーブルは客で埋まっていた。

 仕事帰りのスーツ姿の一人客が多い。コーヒー片手にぼーっとしていたり、本や新聞を読んだり、スマホを触ったり、思い思いに過ごしているようだ。

 ゆっくりとコーヒーとおしゃべりを楽しむ老夫婦もいる。

 お店も素敵だけど、客層もいいようだ。


 「マスターの趣味で蚤の市とかでテーブルや椅子をコツコツ集めたらしいよ。どの椅子も、座り心地がいいんだよね」

 椅子の座り心地に関心する美羽に、悠真が解説してくれる。


 「ここ、疲れた時に来る取っておきの場所。みんなには内緒な」

 いたずらっぽく笑う顔にこちらまで心がほぐれる。


 「じゃ、長谷川君おすすめの本日のコーヒーのホットにしようっと」

 美羽がパタッとメニューを閉じると、悠真が注文を通してくれた。


 その後も悠真は、この店に置いてある本はマスターのお気に入りの本で古いものも多く、その中に刺さる本が時折あるとか。

 本日のおすすめで飲んだコーヒーが気に入って、後日注文しようとしたら値段の高さに驚いただとか。

ぽつぽつとこの喫茶店にまつわることを話してくれた。

 いつもと様子が違うことはわかっているだろうに、美羽の事情には踏み込んでこない。


 しばらくして、そっと美羽と悠真の前に湯気のたつコーヒーカップが置かれた。カップ自体もアンティークの食器なのか、繊細な模様が描かれている。


 美羽は砂糖もミルクもいれずに、カップに口をつけた。

 濃く漂う香りから、ガツンと重い味なのかと思ったら、思いのほか軽やかで繊細な味が口の中に広がる。軽やかだけど、ちゃんとコーヒーの苦みも感じられる。


 「おいしい……。ちゃんとしたコーヒー飲むのどれくらいぶりだろう……?」

 マスターが豆の仕入れや焙煎までしているというこだわりのコーヒーを飲んだ美羽の目から涙が溢れた。今の美羽に必要なのははっきり意見を言ってもらうことではなく、ささくれた心に寄り添ってもらうことだった。


 丁寧に入れられたコーヒーを心地のいい空間で飲む。

 目の前には、同じコーヒーを飲んで、ただ一緒にいてくれる人がいる。


 コーヒーの香りや味。

 しっくりくる椅子の座り心地。

 心を和らげるようなジャズの音色。

 寝ぐせをつけて穏やかな顔でコーヒーを味わっている悠真。


 それは優しく温かいもので、決して刺激のあるものではない。

 だけど、美羽の目を覚まさせてくれる効果があった。


 あれは、たいした出来事じゃなかった。

 夫が指輪を外して、合コンに行っただけ。でも、小さく積もっていた不満や不信があの場面を目にして、美羽の中で決壊してしまったのだ。


 今まで、大したことない、ささいなことと無視してきた心に刺さった棘を。一つ一つは小さくても、その棘は全身に刺さって抜けない。そして、チクチクと美羽を蝕んでいる。


 美羽は一体どれくらい、自分の気持ちを押し込んで来たのだろう?

 どれくらい言葉を呑み込んだんだろう?


 それに気づいてしまった。


 はじめは電動のコーヒーミルだった。

 美羽はコーヒーが大好きで独身の頃は好みのコーヒー豆を探し歩いては購入して、朝、豆を挽き、ハンドドリップで淹れたコーヒーを飲むのが唯一といっていい趣味で、楽しみだった。


 つきあっている時はそんな美羽を愛おしそうに眺めて、一緒にコーヒーを飲んでいたのに。


 「うるさい」

 結婚して早々に、朝に弱い達也に電動で豆を挽くコーヒーミルの音を咎められた。


 「たかだか、コーヒーなんてインスタントでいいだろう? コーヒー豆代だってバカにならないだろう? 仕事辞めたんだから、ちゃんと切り詰めろよ。そのうるさい機械を俺の居る前で二度と使うなよ」


 そう注意されてから、電動のコーヒーミルとハンドドリップの器具一式を食器棚の片隅にしまった。達也のいない時に道具を出して、残っているコーヒー豆は消費したけど、その味は苦みしか感じられなかった。美羽は大事なコーヒー道具を手離すことはできなかった。かといってそれを二度と使う気にはなれなかった。


 正社員ではないものの美羽だって働いているのに、家事や雑事は全て美羽の担当。


 接待や残業でご飯がいらない時の連絡もない。けれど、夕飯の用意がしていないと機嫌が悪くなる。

 和食が好きな美羽が用意する料理は「地味で、食欲がわかない」とけなされる。がんばって達也の好きそうなオシャレな料理を作ると「なんか味が物足りない」とケチをつけられる。


 達也は結婚してからも、お金も時間も自分の好きに使う。

 「営業で身なりを整えないといけない」し、「仕事で疲れているからこれくらいいいだろ」とのことだ。流行のスーツを何着も仕立て、ネクタイも季節ごとに増えていく。時計や靴や鞄ももちろん一流のブランド品だ。

 足繫くジムに通い、均整のとれた体のメンテナンスも怠らない。接待に必要だからと、ゴルフの打ちっぱなしにも通い、ゴルフウェアもお気に入りのブランドで揃えている。


 達也は基本給は普通のサラリーマン並みだが、ボーナスや営業成績が良い時に加算される褒章金は達也が散財する身の回りの物や飲み代、ゴルフ代に消えていく。それらが美羽や二人の生活へと使われることはなかった。


 美羽は非正規労働者なので、自分や達也の将来が不安で一人で生活を切り詰めて貯蓄に回していた。普段、お茶をすることはなく、外食は一切しないし、自分の化粧品や服も最低限の物にしていた。

 美羽の仕事が在宅なので、自分の身の回りのものにお金をあまりかけなくても問題はなかった。

 たまの贅沢は年に2、3回くらい勤めていた会社の同期や学生時代からの友人とのご飯や飲み会に行くこと。それすらも、やめようかと思っていたくらいだ。


 達也は美羽の話もほとんど聞いてくれない。

 美羽は子供が欲しくて、結婚前は達也も「子供は三人くらい欲しいな。息子とキャッチボールしたいな」なんて言っていたのに。

 幸いなことにセックスレスではない。月に3~4回くらいはしている。避妊していないのに、二年間子供ができることはなく、毎月ぴったり生理がくる。

 半年前から美羽は不妊外来に通っていた。達也にそのことを話したら「大げさじゃないか? そのうちできるよ」と流されてしまった。

 本格的に治療をしているわけではなく、美羽の体や生理周期に問題はないか検査したり、相談している程度だ。でも、子供ができる前から大事な相談に乗ってもらえないのは問題ではないか?


 結婚して二年間で降り積もった美羽の中の不満。


 それは二人の価値観が違うせいであり。

 達也の押しが強いからであり。

 美羽が達也になにを言っても無駄だと諦めているせいでもあり。

 美羽がそれらの状況をどうにかして動かそうとしなかったせいでもある。


 コーヒーを飲みながら、これまで小さく積もったものを噛み締める美羽を悠真は静かに見守ってくれた。

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