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プロローグ ~結婚指輪とは?~

 「おい、達也。指輪外せよ」

 「え? 今日、接待じゃないんですか?」

 「今日はそっちじゃないよ」

 「受付嬢だってさ。今日は期待できるぞ」


 なぜ、人間は耳に入れたくない言葉ほど、すんなり聞き取ってしまうのだろうか?

まるで選び取ったかのように。


 多くの人が行き交う都会の雑踏の中で、自分の夫と行き会い、耳にしたくない会話を聞いてしまう妻はこの世にどのくらい存在するんだろうか?


 ―――お願い、指輪を外さないで。

 ―――そんな誘いに乗らないで。


 美羽(みう)の夫である斎藤(さいとう) 達也(たつや)がニ人のスーツ姿の先輩達と立ち話しをする様子を祈るように見守る。


 「ああ、そうなんですね。それなら、もっとちゃんとした格好してきたのに」

 達也は手慣れた様子で、指輪を外すとスーツの胸ポケットに無造作に仕舞う。

 「お前が本気出したら、みんなもってかれるからな。手加減してくれよ」

 「なに言ってるんですか。だいたい一番可愛い子は横井さん狙いじゃないですか」

 「お前ら、俺の存在を忘れるなよ」


 これから合コンに行くのであろう浮かれた三人は冗談を交えて楽しそうに会話している。そんな彼らに目を留めているのは美羽しかいない。


 達也と一緒にいるのは同じ営業の先輩社員だ。美羽も結婚して会社を辞めるまで、部署は違うが達也と同じ会社で働いていたので見覚えがある。それに営業部の懇親を兼ねた家族ぐるみのバーベキューでも見かけた。

 二人とも奥さんや子供を連れて参加していた。もちろん、今は二人の左手の薬指にも指輪はない。


 待ち合わせ場所に向かったのか、美羽が物思いに沈んでいる間に三人の姿は消えていた。

 たった数分の出来事だった。でも、その手慣れた様子と会話で、これが初めてのことではないと知る。浮気の現場などではない。にもかかわらず、美羽の心に抜けない棘のように刺さった。


 処理できない気持ちを抱えていたせいだろうか、飲みに行くのが久々だったからなのか、その夜はいつもより酒が回るのが早かった。


 独身の頃は飲みに行くというとオシャレなバルや居酒屋だったが、年齢を重ねたせいか大衆的な居酒屋で飲んでいる。他のテーブルと距離が近く、他人の話している声が聞える雑多な雰囲気が美羽は苦手だった。

 でも、今日のやさぐれている気分にはぴったりだった。


 いつもはビールにしているけど、今日は日本酒をチビチビ飲んでいる。日本酒の味は好きだけど、アルコールにそこまで強くないので自宅以外では飲まないようにしている。


 「ねぇ、もしダンナとか彼氏が浮気してたらどうする?」

 普段は静かに聞き役に徹していた美羽だが、酔いが回ったせいか、つい口に出してしまった。


 正確に言うと、浮気に入らないくらいの出来事だ。ただ、指輪を外して合コンに行っただけ。楽しく異性と飲んで、恋愛気分を味わって楽しむだけ。

 美羽だって、それくらいで浮気だ、裏切りだなどと騒ぐ気はない。だから、さっき見た出来事をそのまま話す気もない。それでもモヤモヤする自分の心の一端が、つい零れ落ちてしまった。


 「え、斎藤君、浮気したの?」

 「えー、結婚三年目にして浮気?」


 美羽が何気なく口にした一言は、とたんに周りの注目を一心に集めてしまう。美羽と夫の達也は同じ会社の同期だ。

 入社して二週間の新人研修が終わった後に、達也から告白されて交際がはじまった。三年つきあった後、結婚して美羽は会社を退職した。

 結婚してから二年間が過ぎた。退職してからも、同期が集まる飲み会には声をかけてもらえて、都合が合うと参加する。だから、今日一緒に飲んでいる子達は夫の達也のことも知っている。


 人の不幸は蜜の味。ちょっとつぶやいただけなのに食いつきがすごい。


 「違う違う。昨日、そういうドラマ見ちゃってさ。実際あったらどうなのかなーとか考えちゃって」

 「あー、知ってる。見た見たー。せつないよね。不倫ってだめなのに、ソウマ役の人かっこよくて、ありかも? なんて思っちゃうよねー」


 美羽は焦って誤魔化した。アルコールのせいだけでなく、自分に注目が集まってしまって頬が火照る。たまたま今期、不倫をテーマにしたドラマが放映されていたので助かった。


 「少し泳がせて、証拠集めて、慰謝料請求して離婚かな。とにかく離婚一択!」


 達也と同じく営業の律花(りっか)がジョッキのビールを飲み干して、机にジョッキを叩きつけるように置く。律花はいかにも仕事ができる女といった風情の顔立ちのハッキリした美人で、性格もサバサバしている。その回答もバッサリと不倫を切るものだった。


 「えー、でも美羽、会社辞めちゃってるし、もうATMって割り切って、自分も浮気しちゃえば?」


 営業補佐の友加里(ゆかり)は、カシスオレンジの入ったグラスを両手で抱えて、長いつけまつげが縁どる大きな瞳で美羽を見上げる。庇護欲をそそるように潤んだ瞳で見上げられると、同性の美羽でもくらっとする。発言はけっこうエゲツないけど。


 「なるほどね……」

 「まーでも、斎藤君に限って浮気はないっしょ」

 「ねー。かっこいいけど、美羽に一筋じゃん。いいダンナ捕まえたよね」


 あんな行動をした達也にもやもやして、バッサリ切り捨てて欲しくて言ったのは美羽だけど、余計に気持ちがざらざらした。


 ―――離婚か、自分も浮気するか。

 正論のような両極端な意見。美羽だって、ドラマや小説だったなら、他人事だったなら、そう言うと思う。一体、自分は今、どんな言葉が欲しかったんだろう?


 「そういえばさー、会社の近くに新しい店できたじゃん?」

 「最近まで工事してたね。オシャレな建物だけど、また美容院?」


 美羽の投げかけた小さな問いは、皆に引っかかることなく通過して、別の話題へと移ろっていった。


 気づくと下降する気持ちを切り替えようとお手洗いへと席をそっと立った。軽く化粧を直し、お手洗いを出た先の短く狭い通路で、同期の男に道を防がれる。それを避けようとすると、美羽の進路を塞ぐように立つ位置を変えてきた。

 むっとして、相手を見上げるとそこには、飲みの場にいた同期の田中がいた。


 「なぁ、藤田……今は斎藤か。お前、不倫願望あるの?」

 柔道経験のある田中はがっしりとした体型で、迫られると圧迫感がある。その分厚い手が美羽に迫ってきて、反射的に払いのける。


 「やめてよ! そんなわけないじゃない!」

 田中の左手の薬指にも指輪が光っている。

 確か子供が生まれたばかりだと言っていなかったか?

 気楽な同期の集まりとはいえ、迂闊に「不倫」なんてキーワードを出してしまった自分を呪う。田中は女子が盛り上がる中、会話には入ってこなかったけど、内容はしっかり聞こえていたのだろう。


 これが普通なんだろうか?

 結婚しても合コンに行くし、隙を見つけたら誘いをかける。


 「なんだよ、冗談だよ。真に受けるなよ。でも、もし相手してほしかったらいつでも受けて立つよ。ちゃんと斎藤には内緒にするし」


 田中はあっさりと背を返すと、席へと戻って行った。田中がいなくなっても、胸がドクドクと脈打つ。久しぶりに飲んだ度数の高い酒のせいで、変な風に酔いが回ってるかもしれない。


 これからは同期の集まりは女子だけの時に参加しよう。美羽は幹事の律花にこっそりお金を渡すと店を後にした。


 このまままっすぐ家に帰りたくない。でも、同期にはこんな美羽につきあってくれるほど仲の良い友達はいない。駅とは反対方向へと、美羽はあてどなく足を進めた。


 ふいに自分の薬指にはまった結婚指輪が目に入る。達也と二人で色々な店をまわって、決めた結婚指輪。


 左手の薬指に光るこの指輪は、結婚していますという証なのか?

 妻や夫という立場を主張する盾なのか? 

 それとも、自分を縛る鎖なのか?


 そんな考えても意味のない問いが頭に浮かんだ。

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