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遥か世界のラタトスク 一話アフター

 飛鳥馬を口説く、もとい、説得する決意を固めるも、それは困難を極めた。何故なら、彼女を見失ってしまったからである。

 そう、何とも締まらない話ではあるが、人は誰しも、追われることを期待して背を向ける訳ではないらしい。久々原さんとの会話にかまけていた間に、彼女は足早に立ち去ってしまったようだった。

 走り回る。駆けずり回る。平日の真っ昼間。学生が昼食を取る余暇時間に、学園内を私服で走ったものだから悪目立ちをして、四月も昼過ぎの穏やかな日差しの下、萌黄色の葉が繁る石畳の上を、真っ白な校舎の照り返しを浴びて額に汗を流しながら、何で走っているのかと自問自答もしたりもして。

 そこで、ふと思い当たった。


「茜音か? ああ、さっき帰ってきたな、昼休みももう終わるってのに。ま、サボりをどうこう言うつもりはねえけどさ」


 小さな管理人はそう答えた。走り回った自分が少々馬鹿らしく思えた。


「そうですか。ありがとうございます」


 落胆はひとまず胸に秘め、俺は爪先立ちで掲示物を貼り替えている樹卯さんの手元を代わりに押さえる。貼り紙一つも大変そうである。


「おお、悪いな。あー……ところでこの前さ、あたし、気付いたらお前の部屋で寝てたんだけど、もしかして、酔っぱらって絡んじった……?」


 あの夜、研究所へ向かう直前のことだろう。あれだけ酔っていれば、流石に記憶は曖昧らしい。


「まあ、多少。気にするほどでもありませんよ?」

「そうか? だったら良かったけど。いや良くはないか」


 彼女は背伸びをして画鋲を刺そうとするので、それを受け取って代わりにコルクボードへと刺していく。


「それより、本当にそのビジュアルで飲むんですね」

「ぶっ飛ばすぞ。いいだろ。ビール飲みながらさ、カーペットの上にだらーっと寝っ転がって、ぼーっと海外ドラマ観るのが好きなんだよ。気付いたら夜になってたくらいの、ユルい休みが最高でさあ」


 だらしなく破顔する樹卯さん。何でこの人、こんな見た目をしているのだろう。


「そんで、実は管理人室のベッドより、お前らの備え付けのがいいヤツでさ。だから、空き部屋だった時にたまに寝に行ったりしてて、完全にそん時の癖だった。悪い」


 しかし、久々原さん曰く、こちらを気に掛けての来訪だった、とのこと。まあ、どちらにしても気にすることはないし、彼女が口にしないだけなら、言及するのも野暮というものだ。


「あの程度なら大丈夫ですよ。もっと面倒な人なんて、いくらでもいますし」

「おう……おう? それじゃあたしが面倒には違いないって口振りだぞ?」

「は?」

「は?」


 互いに心当たりがなかった。


「そういえば、ここに転入することになりそうです」

「ああ、やっぱそうなったか」

「やっぱり?」

「ん? いや、大した話じゃなくてさ。場所柄、急に転入してくる奴も珍しくないっつったろ? だから、お前もそっちじゃねえかなって思ってたってだけ。管理人の勘だよ。毎年何人も入っては出てくんだから、これでも見る目はある方だぜ?」


 ふむ、どうやら、久々原さんの思惑に気付いていた者は他にもいたようだ。あの人は他人を弄んで悦しんでいる節がややあるので、彼の知らぬ場所で真意が漏れていた、というのは少々爽快である。


「じゃああの部屋、そのまま使ってくれていいぞ。理事長にも伝えとく」

「分かりましたが、必要であれば、今後もベッド使ってもらって構いませんよ。俺は別に床でも眠れますし」

「えっ、ごめん。ちょっとその、結婚前から同衾とかそういうのは……」

「何で急に貞操観念だけ淑女振るんですか。床で寝るっつったろ」


 こちらだって幼女と布団に潜る趣味はない。すると、樹卯さんは冗談だと言わんばかりに笑みを浮かべた。


「ま、学生の部屋に入り浸る管理人じゃ問題だしな。気持ちだけ貰っとく」

「それもそうですね」

「今後は気を付けるよ。あ、あと水とか使った分は補充しといたし、ついでに差し入れ買っといたから、理事長にはこれで」


 人差し指を立てて口元に沿え、しかし、色気の全くない豪胆な彼女に、分かりました、と愛想笑い混じりに答えれば、掲示物の画鋲止めは終わった。


「にしてもお前、久し振りに帰ってきたと思ったら、何やらかしたんだ? あんなギスった雰囲気の茜音は初めて見たけど、無関係じゃないんだろ?」

「痴話喧嘩です」

「ああはいはい、痴話喧嘩ねえ……痴話喧嘩ぁ!?」


 飛び出しそうなくらいに目を見開く小学生(成人)。大声が寮内に響き渡るが、昼休みに寮へ戻ってくる学生が他にいないのが幸いだった。


「痴話喧嘩って、まさか茜音が、お前と……!?」

「一説によると」

「お、お前、どんな弱味を握ったんだよ……」

「飛鳥馬もでしたが、俺を何だと思っているんですか?」


 この目付き……どうせ、飛鳥馬を脅迫してそういうプレイに興じたゲス野郎、とでも思っているのだろうが、名誉毀損である。

 しかし、弱味に関しては、握ったと言えば握ったのかも知れない。とはいえ、あくまで久々原さんの軽口で、ただの比喩だった。そう伝える。


「何だ、冗談か……あたしはてっきり、お前が茜音を脅迫してそういうプレイに興じやがったゲス野郎なのかと」

「失礼な幼女だな」

「だってお前、あの茜音が……ん今幼女っつった?」

「言っていません」


 自己防衛上の観点から、ここはさらっと流すことにした。


「それより、女子フロアに入る許可をくれませんか?」

「っしゃおらァ!」


 クワッ! と顔を一変させた幼女による華麗な飛び蹴りが、大の男のがら空きの腹部へと突き刺さる。デジャヴを感じた。


「おいおい京。あたしの前で茜音に手ぇ出してみろ。とんでもないことになるぞ」

「こ、こっちは飛び蹴り食らって悶絶してるのに、まだ何か追撃を……?」

「お前を公衆の面前で『お兄ちゃん』って呼んで名実共にロリコンにする」

「精神攻撃」


 学園寮でなんて恐ろしいことを。


「いや、ちょっと待ってください。『名実共に』って、既にロリコンの認識なんですか?」

「茜音が言ってた」

「あの女」


 最早テロである。


「あのロリコンが悪いんです、だとさ」

「……それを謝りに来たんですよ」

「じゃあお前、ホントに茜音とケンカしたんだな」

「というより、一方的に怒らせたというか」


 他人にも、自分にも極度の無関心。だから俺は、何をされても怒りを覚えることがない。自分に向けられる怒りすらも、言ってしまえば、他人事のように感じる。

 この謝罪も、体裁を保つくらいの意図しかない。久々原さんに言われなければ、ここに来たかどうかも分からない。言われたから、謝りに来ただけ。流石にそんなことを白状するつもりは微塵ないが。


「へえ~……あの茜音が、ねえ?」

「何ですか、その意味深長な笑みは」

「いや何、見る目がねえなあと思ってさ」


 要領を得ないが、幼い見た目で含みのある笑顔をされてしまうと、真意を問う気にならなかった。もうどうにでもなれ、みたいな心境だ。


「ははっ、悪い悪い。あいつが誰かを気に入るなんて考えもしなかったからな。あたしも嬉しいんだよ、そこは」

「気に入る……?」

「いや、そこで疑問持ってやるなよ。茜音だって、確かにいつもぶっきらぼうで無愛想だけどよ、ちゃんと年頃の学生だぞ。誰かに好感を持つことくらいあるだろ」


 そうではなく、本当に気に入られていれば、もう少しくらい物腰が柔らかくなるのではないだろうか、という疑問だった。気に入られたにしては、相変わらず棘に刺されてばかりだ。

 あと、樹卯さんこそ、その発想が出てくるあたり、誰よりも飛鳥馬をぶっきらぼうで無愛想だと思っていそうだが、それは黙っておいた。


「気に入られる、ですか。そんな奴じゃない筈なんですが」

「ぶっ、ははははっ! 何だ、お前も年頃っぽいこと言うんだな。あははっ……ああ、いや悪い悪い。大人の愚痴はみっともねえけど、お前みたいなヤツの愚痴はなんか嬉しいよ」


 余程に可笑しかったのか、愉快そうな樹卯さんは目尻を指先で拭いつつ、「ま、京がどうかは分からないけどさ」と続ける。


「あいつにとっちゃあ、あいつがされたこと、あいつが感じたことが全てだ。お前がお前をどう思ってようと、あいつはお前を気に入ってるよ。多分な」

「……そうですか」

「だから、自分をそんな奴じゃないだとか卑下するくらいなら、ちゃんと向き合ってやってくれ」


 向き合う。色々と向き合えていない自分に、それはハードルが高いな、なんて考えて、また卑下していることに気が付く。つくづく学習しないなあ、俺は。


「分かりました。善処します」

「おう。ま、もうちょっと頼り甲斐のある返事が聞きたかったけどな」


 樹卯さんは笑う。この人も、いい人だ。


「それで、飛鳥馬の部屋を教えてくれますか?」

「おっと、それとこれとは話は別。管理人が女子の部屋番号を男子に易々と教える訳にもいかねえしなー。あー、どうしよっかなー?」


 何かを期待しているのか、彼女はちらちらとこちらを窺っている様子だった。なるほど、賄賂の要求とは、抜け目のない幼女である。


「仕方ないですね。次に廊下の電球を取り変える際は呼んでください。高い高いしてあげます」

「お前ホントもっかいぶっ飛ばすぞ」


 そうして、飛鳥馬の元へと赴くのに、更に遅れるのである。






 その後、寮内の清掃をする、言うなれば滅私奉公を交換条件に、無事、飛鳥馬の部屋の前へと辿り着いた。なお、お奉行様は管理人室へとお戻りになられた。祝い酒だとか何とか。

 さておき、豪奢な絨毯が敷かれた無人の廊下に、ノックの音がコンコンコン、と寂しく響く。


「飛鳥馬、いるか? 京だが」


 返事はなかった。しかし、寮の出入り口は非常口を除けば一つ。その玄関で樹卯さんとじゃれあっていたのだから、入れ違いはない。


「少しでいいから話をしたい。時間をくれないか?」

「いません。帰ってください」


 いた。子供か、と、ここで機嫌を損ねさせても得はない。口答えはせず、このまま扉越しに会話を続けよう。


「騙すような言い回しをしたのは悪かった。何も話さなかったのは俺の判断だし、俺の責任だ。もっと、飛鳥馬と向き合うべきだった」

「……どうして、話してくれなかったんですか?」


 答えを考える。いや、答え方か。先日と同じように濁して逃げるか、それとも。

 嘘で塗り固めるのは、楽だ。少なくとも、自分としては。嘘は理由を好きにでっち上げていいから。“再生”を隠す為だと理由をつけて。自分の為に。飛鳥馬の為に。そもそも、人は本音を語るより、嘘を吐く方が向いている生き物だと思う。

 とはいえ、ここまで来ておいて、何を言い訳しているのか。頭では分かっていても、胸の内を明かすことに躊躇はあって、一つ深呼吸をして、考えを振り払った。


「そうだな。ここまできて隠し事をする気はないし、それも含めて、正直に話すよ」


 長くなりそうなので、ドアのすぐ傍の壁に凭れて、肩だけでも力を抜く。顔を合わせずに済んだのは僥倖か。この時は、合わせる顔がなかった。


「久々原さんが言っていたように、俺は“再生”を解明する目的でここに来たんだ。元々は……まあ、本土(向こう)で少しあって、その時、久々原さんに助けられたのが縁だな」


 その件は心に裏表なく無関係なので、触れずに進めていく。


「で、いくつか条件をつけられた。例えば、最初の誘拐の時、久々原さんが俺の居場所を見つけられたのは、俺の位置情報がいつでも分かるようになってたからで、まあ、そういうのが他にもあるんだが、“再生”を隠すこともその一つだった」


 俺はふと足首に意識を向ける。そこにあるアンクレットは、文字通りの『足枷』。ここから位置信号が常に発信されている。


「“再生”が露呈すれば、大袈裟に聞こえるかも知れないが、国同士の関係性が揺らぐ可能性も十分にあった。だから隠すことになった。当然、俺としても他人事じゃなかったし、久々原さんの為にも、それに……厚かましいとは思うが、飛鳥馬の為にも隠すべきだと考えた」


 扉からの返事はないが、聞いている気はする。俺はそのまま続けた。


「『久々原さんの為』っていうのは、恩返しのつもりだ。俺は今の生活をそれなりに気に入ってるし、それはあの人があってこそだったから、迷惑は掛けたくない」


 ただし、彼に関しては完全な善意ではなく、やはりというべきか、打算的な部分もあるようで、だが、それはそれとして、助けてもらった事実に変わりはないのだ。


「それで、『飛鳥馬の為』っていうのが、“再生(これ)”を知られた場合の、率直に言えば、対処だ。漏洩の恐れがある以上、放免とはならない。箝口令と、それと監視という対応が取られる。で、もう前科があるんだよ」

「前科?」


 話はちゃんと聞いているようだ。ひとまず安心である。


「飛鳥馬も会ったが、姫路さんだよ。あの人は“再生”を知っていて、それで監視下にある唯一の一般人だ」

「監視下……具体的には、どのような」

「詳しくは知らない。白状すると、俺も監視を任されてる一人ではあるんだが、他に何人いて、それぞれが何をどう監視していて、いざという時にはどうするつもりなのか。何も知らされていない」


 この件における責任者は、“管理者”である久々原源重。何度か尋ねたことはあるが、あれだけ柔和な彼からでも、一度たりとも答えを得られたことはない。


「ただ、“再生”を知られたのは……あれは俺の失態だった。だから、そういう過ちを既に犯していて、飛鳥馬に同じことを繰り返したくなくて、話さなかった、というか、隠した」


 語り終えて、少しの静寂があった。


「……言われれば、誰にも話しませんでした」

「そうだな。俺も、短かったが飛鳥馬と過ごして、そんな人間じゃないとは感じた。ただまあ、俺にとっては、それは()()()()で、良し悪しで考えた時には消える程度のことだった」

「あなたにとって、私に打ち明けることは、いい事ではなかったんですか」

「なかった。過去に戻ってやり直すとしても、間違いなく同じ決断をすると思う」

「随分と、よくもそんな正直に話しますね?」

「隠さないって言ったからな。本心を打ち明ければ、俺はそれだけ醜い奴ってことだ」


 ぺらぺらと、気付けば歯止めが利かなくなったようだった。口が軽くなっていることに、久々原さんから『似ている』と言われたことが影響していない、とは言えなさそうだ。


「あの時……」

「あの時?」

「あなたが、姫路菜乃花さんを巻き込みたくないと口にした時。あまり、相手を思っての言葉じゃないような……独善的に感じました」


 甘味処に寄ったあとのことか。


「それで不審に思われてたのか」

「最初は私の前で格好付けただけのかと」

「誤解だな。飛鳥馬相手にいい顔をしたところで何の得にもならない」

「それ、私に対して失礼とは思わないんですか?」

「それならそっちは自意識過剰だ。前にも言ったが、男が全員女に甘い顔すると思ったら大違いだぞ」

「まるで自分が他の男とは違うと言いたげですね」

「そういう飛鳥馬も……あー、やめよう。堂々巡りになる気がする」


 すると、ドアの向こうから、微かに笑ったような吐息が聞こえてきて、顔は見えずとも空気は和らいだようだった。


「……あの夜、私を助けに来た理由は?」

「言わなかったか? 端的に言えば、たまたま事件に遭遇したからってことになるが」

「その正義感は認めます。ですが、関われば不死身が露呈するリスクがあった筈でしょう」

「だから、その辺も含めて、助けたかったから助けたってだけで、他に理由はない」

「はあ……?」


 とても素っ頓狂な声が返ってきた。顔は見えないが、きっと相当に眉をひそめているであろう、らしからぬ声。


「そんなに変なことか?」

「変も何も、矛盾してます。あなた、私に隠したのは良くなかったからと……」

「それは違う話だ。正義感はあったとしても、秘密を打ち明けるほどの義理はなかっただけだ」

「義理がなければ余計にでは? 話の通りなら、国家間の問題にもなりかねないリスクなんでしょう?」

「あー、まあそんなの実際知ったこっちゃない」

「……は?」


 再び訝しむ様子の彼女に、一方で、こちらはその胸中にふと思い至る。


「そういうことか。飛鳥馬としては、『駆けつけた正義感は認めるが、それにしてはリスクが大きい。だから何か下心、ないし他の思惑があった筈で、例えば、久々原さんや分室も騙くらかして何か良からぬ企てでもあるんじゃないか』とか、そんな感じか?」

「……後半については思いもしませんでしたが、まあ概ねは」


 彼女としては、恐らく、単純な下心、それが最も望ましかったのだろう。しかし、こちらがそうではないと頻りに主張するものだから、一層と混乱させたのかも知れない。


「実際、国の問題とか、はっきり言って実感ないんだよなあ。久々原さんは何でもかんでも大袈裟に言うが、それにしてもスケール大き過ぎだ」

「それは、そうでしょうけど」

「今更だから取り繕わないが、そもそも国交問題だとか、動物の縄張り争いと何が違うんだ。動物園で餌を放り投げて、それを取り合う様を笑いながら眺めるような種族なのに、それをよくも自分達を棚に上げて、国だ何だと喧嘩出来るもんだよな」

「す、凄い問題発言ですね……」

「こんなの飛鳥馬にしか話さない。他の相手に話しても困らせるだけだろうし、そこまで心を許せる相手もいなかったしな」

「……そうですか」


 呆れたような、それでもどこか弾むような、そんな声色だった。


「俺には、生きることも、死ぬことにも、価値がなかった。望まずとも生きられるし、望んでも()()()は迎えられない。生きることに感謝する理由がないし、必死に生きようとする心境が分からない。だから極論、何も要らない。国も組織も、資産も地位も、欲も希望も将来も、久々原さんや、飛鳥馬との繋がりであっても、何もなくても、生きるしかないから」


 例えば、『何かの為に生きる』というのは、よくあることだろう。姫路さんは、喫茶店の仕事を楽しんでいた。樹卯さんは、休日の過ごし方に拘っていた。他にも、趣味の為だったり、大切な人の為であったり、推しの為、なんて理由もあるのかも知れない。人は一人では生きられない。一人では生きる価値も希望も存在しないからだ。

 だが、俺にとって、『生きること』は『当たり前』である。生きる()()ない。人がその一生を、己の道を懸命に歩むのだとしたら、こちらはベルトコンベアにただ乗せられているようなもの。脱落させないよう、頑丈に閉じ込められて。つくづく思うのは、人は先を見通せないからこそ成長するのであって、予めゴールを決められてしまえば、成長は望めないのである。


「それで、無関心……執着心が?」

「かもな。あの夜も、俺は自分や誰かを大事に思った訳じゃない。寧ろ、何かを失う恐怖すら感じてなかったから、好き勝手に飛び込めただけだ」

「それなら尚更、他人を助けようと動く道理がないと思いますが」

「そうでもない。人間、何もしがらみがなければ、誰だって誰かの為に動くものだ。それを難しくしてるのは、他ならぬ人間自身ってことだな」


 性善説。人間は、社会を織り成して自然を生き抜いてきた種族だ。大群を成して生存率を上げる生物のように、他者を助けるのは、生き抜く上で必要不可欠の本能であったと言える。

 しかし、いつ頃からか、人は自然に脅威を覚えなくなった。結果、最大の敵は人間自身となった。誰かを助けることに、過度なリスクとメリットの不足が目立つようになった。ジレンマだ。


「……不死身だと、人に無関心になるんですか?」

「どうだろうな。元からなのか、どこかでそうなったのか、もうよく覚えてない。間違いなく言えるのは、()()のおかげで、人生少しは狂わされたってことくらいだ」


 とはいえ、既に受け入れていることでもある。そもそも、人生なんて多かれ少なかれ紆余曲折あるものである。『京修司』という存在に、不死身は既に欠かせないものではあるが、それだけで出来上がっている訳ではないのだ。 


「嫌になったり、しませんか?」

「嫌になったところで、俺の人生は変わらないだろうしなあ」


 時間の無駄? 違う。自信の表れ? 違う。これもまた、無関心である。俺は俺を、俺を変えられるほどの存在であると思っていないだけだ。


「……ヒント、一つ目」


 不意に扉から聞こえてきた言葉を、こちらはそのまま聞き返す。


「ヒント?」

「目に見えないものです」


 唐突に何かが始まった。意図が分からない。


「ヒント、二。とある()()の周囲で起きることです」


 とりあえず、考えてみる。目に見えない、とあるものの周囲で起きること。何らかの自然現象を言いたいのだろうか。

 しかし、その甘い考えは、次の言葉で不穏さを帯びる。


「三。忌み嫌われるものです」


 淡々とした口調で、彼女は続ける。


「四。それは他人に害を為します」


 人を傷付ける。


「五。それは、人為的です」


 人が起こす。


「六。それは、恨みや、妬みといった、負の感情を相手に向けることです」


 人を恨むこと。


「……七。それは」

「いい。もう分かった」


 頼むから、そんなに苦しむような声で、続けないでくれ。


「……本当に?」

「もしかしてそれが、飛鳥馬が抱えている問題なのか?」


 返事がないのが、何よりの返事だった。


「……何で、話してくれる気になったんだ?」

「何で、でしょうね。あなたが馬鹿正直に自分のことを話すものですから、毒気を抜かれたのかも知れません」


 毒気を抜かれた彼女は、言わば、棘を抜かれた薔薇であろうか。樹卯さんと、そんな話をした記憶が甦る。


『薔薇だって必要に駆られて棘を生やしてる訳だろ?』


 必要に駆られて棘を生やした。飛鳥馬の『棘』には、理由があった。

 あの小さな管理人は、それを知っていて、あんな口振りだった訳だ。


「……飛鳥馬は、呪われているんだな」






 “呪い”。

 かねて、人に不幸や災厄をもたらしてきた超常現象。カテゴリーとしては心霊現象に属するのであろうが、一部では、これも人智を超えた理論(オーバーセオリー)の一つだと考えられている。

 さて、“呪い”を考える上では、以下の二つ、どちらかの前提を踏まえなければならない。

 一つは、『架空の存在』による呪いであること。例えば、神仏や物の怪の祟り等がこれに該当する。とはいえ、そうした呪いについては、魔素理論研究によって超常現象が証明されつつある現代においても、空想に過ぎないと見なす科学者がほとんどだ。

 しかし、もう一つの、『人間がもたらす呪い――この場合、これは比喩ではなく、実際に人を呪い、人に害を為すという因果関係が成立するものを指す――』に関しては、実在すると考える学者は、実は珍しくはない。証明の困難さ、という大きな障害はあるものの、それは彼らのような知識欲に飢えた変態にとって、寧ろ、極めてエコロジカルな燃料となるだけである。

 人が人を呪う。太古から変わらない人類の悪習は、科学が発展した現代において、息を吹き返した。さながら、大昔に氷漬けとなった病原菌が、掘り出されて蔓延したかのようなもの。過ぎた科学が魔法と見分けがつかなくなった頃、人々が無視してきた“呪い”は、牙を剥いたのだ。


「正確には、私が呪われている、というより、私が“呪い”を振り撒いているんです」

「……なるほどな」


 『飛鳥馬茜音』が呪われているのではなく、彼女の周囲にいると呪われる。所有者を祟る呪いの人形のようなものか。人形のように端正な顔立ちの彼女に、疑惑よりも納得があったのは確かだ。

 あくまでも、それが本当ならば、だが。


「聞かせてもらえるなら確認したいんだが、その“呪い”は、本物なのか?」

「……私が、嘘を吐いていると?」

「いや、()()()どうかじゃなくて、()()じゃないのかって意味で聞いたんだ」


 本物と、偽物。それは、どちらであっても事実となり得る。あるいは、『本物』というのは現実にはまるで実在せず、人は『偽物』を、好きなように『事実』にする。戦争の英雄が、人殺しであるように。

 だから、いっそ本物であれば、その方が救われることもある。彼女の“呪い”をこの場で解いて、誰もが幸せの大団円。原因を神か何かの所為にして、詳しい経緯は丸投げして、愛と平和、心の強さだ何だと人間を賛美してから、花が咲いた空っぽの頭でハッピーエンドを享受出来れば、どれほど楽だろう。

 しかし、現実というのは、もっと深くて、思うよりも残酷だ。

 従って、扉の向こうから、「ご想像の通りです」と返ってくると、俺は、やり場のない溜め息を吐くしかなかった。


「幻想逃避症候群か。魔素理論が表層的に世に広まったことで、周囲の出来事の説明や言い逃れに、『超常の力』が使われるようになった。たまたま不運が続くことを、ありもしない“呪い”と認識してしまったりな」


 要するに、責任転嫁。科学や魔素理論に対する浅い理解から、誤解が生じるケースは後を絶たない。

 気の迷いを、意図的な精神操作と。

 デジャヴを、曰く、未来予知と。

 単なる不運を、“呪い”と思い込む。

 発展した科学は、そんな副作用を人々にもたらしていた。


「それ自体は珍しいことじゃない。受け入れ難い出来事に直面した時に、脳が勝手に理由をでっち上げたり、逆に記憶を封じ込めることは、心理学的にもよくあることだ。だが……」


 つまり、こういうこと。

 かつて、とある一帯で、不幸な事件や事故が、立て続けに起こる。

 人々は、その偶然に理由を求めた。原因を明らかにすることで、不運から逃れたかったのかも知れない。それに近付かなければ、自分達は安全なのだと。

 だから、彼らは元凶を()()()()()()

 その白羽の矢を立てられたのが、飛鳥馬茜音という、恐ろしいほど麗しい、まるで人形のように端正な顔立ちの、一人の少女。言わば、呪いの元凶として、吊し上げられたのだ。さも魔女狩りにおける魔女のように、人々は自身の不安や恐怖を、他人に押し付けた。

 言わば、逃げ道。心が負の感情で溢れそうになった時に、それを外部に放出する為の用水路で、しかし、それは魔素理論が築いたものである。これが、現代科学における“呪い”の正体だ。


「本当に詳しいんですね。そんなことまで」

「まあな。飛鳥馬も、調べたのか。“呪い”のことを。何が起きたのかを」

「ええ。そして、どうしようもないことを知りました」


 そう、どうしようもない。“呪い”の原因は自分ではないと声を上げたところで、肝心の、人々の不安や恐怖は拭えないからだ。正論で説き伏せたとしても、彼らはまた、自分達に都合のいい『偽物』を『事実』とするだけだろう。厄介なことに、魔素理論が、その『偽物』を余計に真実足らしめている。

 当時の彼女は、どんな心境であったろうか。突如として、“呪い”の元凶と言い掛かりをつけられた者の気持ちなんて、分かる筈もなかった。


「……あなたは、疑わないんですか?」

「ん? まあ疑わないというより、そもそもその次元にない感じだな。疑うとか信じるとか、そういうのは同じ次元、同じ土俵に立つ者同士でやることだ。疑うにしてもカロリーを使うし、俺には他人はそこまでの存在じゃない。誰もが『疑ってくれる』なんて思うのは自惚れだぞ」

「……あなた、よくもそこまで人間性死んでて今まで隠し通してきましたね」


 余計なお世話である。


「それに、言いたい放題言われる気持ちは、少し分かる。特に、その原因が自分にあるとな。誰の所為にも出来ずに、何も言えずに、埃が積もるみたいに、心がどんどんくすんでいく感じがする」

「……ええ、本当に」


 きゅっと締め付けられたような声。彼女も、()()に人生少しは狂わされたのかも知れない。いや、俺なんかよりよっぽどか。


「ですが……私には、“呪い”を囁かれる根拠がありました。願ってもないのに、私の近くでは不幸が起きるんですから」

「……()()()()()()()()、不幸が起きる?」

「あなただって、身をもって体感しましたよね」


 なるほど、それが誘拐事件。とはいえ、あれは飛鳥馬と知り合う前から進行していた事件なので、関係性はないと思うのだが、反証は難しい。所謂、悪魔の証明である。

 それに、『飛鳥馬の周囲』というのが、どこまでを指しているのかも分からない。物理的な距離なのか、精神的な距離なのか、あるいは、時間軸さえ無視しているとすれば、あり得ない話ではない。 『将来的に彼女と知り合うから不運に見舞われた』、バタフライエフェクトの一つとも考えられる。


「つまり、飛鳥馬の“呪い”は……」

「どうでしょうね。私には分かりませんでした、何も。自分のことも、周りのことも」


 諦めて、いるのだろうか。どうしようもなくて、受け入れるしかなかった。だから、飛鳥馬は……。

 ああ、そうか。()()()か。


「あれは……偶然だった、なんて答えを、飛鳥馬は求めてるんじゃないよな」

「あなたなら、私が求めていることなんて、きっとすぐ分かったのでは?」


 分かる。似た者同士なのだから。

 

「あのさ、飛鳥馬」

「はい」

「悪いが、飛鳥馬の期待には応えられない」


 きっぱりと言った。


「それは、どういう」

「その前に、飛鳥馬はまず死ぬほど面倒くさい」

「……は?」 

「そりゃそうだろう。そもそも言葉が足らないってのに相手に察しろだとか、自分で言おうとしないんだから余計に質が悪い」

「それはだって、というかっ、あなただってそうだったでしょう!」

「俺は元から言うつもりはなかったし、面倒だとも自覚してるから別にいいんだよ」

「馬鹿ですか?」


 馬鹿である。言われなくとも当然。


「馬鹿で結構。しかも人間性は死んでるらしいし、俺はよっぽど人でなしみたいだ」

「……根に持ってます?」

「それはないが、言い出したのはそっちだって話。まさか、そこまで言っておいて物分かりはいいとでも思った訳でもないだろう?」


 すると、うぐっ、と呻くように飛鳥馬は言葉を詰まらせた。普段からコミュニケーション不足だからそうなるのだ、と棚に上げて思ってみる。


「俺は、“呪い”を解き明かしたい」


 提案、ではなく、宣戦布告だろうか。


「『願ってもないのに』というのは重要なファクターになる。意志で超常を起こす魔術(マギア)において、無意識的に発動する例は基本的にないからな。もしかしたら、その“呪い”は“再生”と通じる部分があるかも知れないし、だとしたら、見過ごせない」

「待ってください、私の望みは……私は、こんなのを解き明かせとは一言も」

「そうだな。解き明かしたところで、無意味の可能性もある。起きたことは戻せないし、飛鳥馬を苦しませることになる場合も、十分にあり得る」


 『魔素理論では、神様の顔色は窺えない』。最近は、こんな言い回しをよく目にする。つまり、それでも存在しないものに対して無力であり、魔素理論は万能ではない、という意味だ。

 仮に、いつか解き明かせたとして、“呪い”を無効には出来ない、という結論に至る可能性もある。不治の病である、と無慈悲の宣告をされるようなものだ。今のままで、曖昧なままで終わらせておけば、少なくとも、絶望は訪れないだろう。

 しかし。


「それでも俺は、『よく分からないもの』が、誰かの人生を勝手に弄んでいることが、そういう理不尽が目の前にあることが、嫌なんだ」


 かつての自分のように。


「飛鳥馬、一人で抱え込まないでくれ」


 返事を待たずに続ける。


「色々と分かったよ。気付いた。飛鳥馬は、“呪い”に巻き込まないように棘を生やしたんだなって」

「棘、ですか……?」

「ほら、薔薇の棘。あれは外敵に向けたものらしいが、飛鳥馬の棘は寧ろ、周りを守る為だな。突き放すような態度も、他人との接点を嫌がったのも、全部、誰も不幸にしない為だった」


 巻き込みたくないから、孤立を選ぶ。“呪い”を持つ少女は、誰よりも綺麗な心を持っていた。


「だから、俺は飛鳥馬に酷いことをした」

「……へえ。何をされたんですか?」


 まるで他人事のような口振りは、動揺を隠しているように聞こえて、少し可笑しい。


「棘も構わず踏み入って、それで目の前で大怪我をして、それでも心配してくれたのに、誠実さに欠ける対応だった。怒るのも当たり前だった」

「酷い人もいるものですね」

「そうだな、浅はかだった。ごめん」

「……そう素直に謝られると、調子が狂うんですけど」


 調子が狂わされているのは、お互い様。


「飛鳥馬は、まあ死ぬほど面倒だが、それ以上に、比べものにならないくらい、優しいんだと分かった」

「何ですか、急に……」

「“呪い”のことで色々と言われてきた筈だ。それなのに、周りの人を思いやって、自分から嫌われようと振る舞って、ああ、あと『感謝を絶対に忘れてあげません』とも言われたか。あんなの律儀の鬼だよな、嬉しかったが」

「それはっ、その、言われると恥ずかしいんですけど……というか、私のことなんて眼中になかったんじゃないんですか」

「例えるなら、ペットが尻尾振って甘えてきた、みたいな感じか」

「あ、甘えてませんっ!」


 続けて、「というかペットって!」と憤慨する様子も、可愛らしいものである。ドア越しで全く見えないが。


「だから、飛鳥馬。せめて巻き込んでほしい」

「……巻き込む、ですか?」

「“呪い”でも何でも、飛鳥馬を苦しませるものがあるなら、それを少しでも背負いたい。その代償に“呪い”が振りかかるとしても、俺なら問題ない」

「だから、私はそれが嫌で……!」

「知ってるが、知るか。俺だって、そういう優しさを、誰も大切にしないような世界を作ってる連中と一緒にされたくない。まあ、今まで気付かないで、どの口がって思うかも知れないが、気付いた以上は、もう放っておきたくないんだよ」


 不死身。だからこそ出来ることをしないと、俺は、俺が興味を失った『人』という存在と同じになってしまう。


「……嫌です」

「そうか。じゃあ限界まで嫌になったらまたビンタでも、何でもしてくれ。別に背中刺されてもいいし、というか今は申し訳なさの方が大きいんだよな。刺すか?」

「何で刺される方が乗り気なんですか。嫌ですよ」


 そうして、飛鳥馬がくすっと笑うと、こちらは不思議な達成感で頬が緩んだ。


「……ドア」

「ドア?」

「鍵、最初から掛かってないので」


 はて、どういうことかと頭を捻ると、すぐに「言っておきますけど」と前置きがあった。


「別に、そんなに怒ってませんから」

「そうなのか? にしては、あれは足もすくむくらいの形相……」

「あの時は! 確かに頭に血が上ってましたけど……あなたの言い分も理解してますし、なので、今はもう怒ってないんですっ」


 そんな台詞を、早口にやや怒りっぽく言う飛鳥馬。


「ですが、私の言いたいことを無視して、そこまで大見得を切っておいて、中途半端は、嫌です」

「その時は無理矢理にでも引っ叩いて、目を覚まさせてくれ。飛鳥馬の言葉ならちゃんと聞くと思うし、飛鳥馬の言葉すら聞かなくなったら、多分俺も末期だ」

「……私は、本当に面倒ですよ。こんな面倒な人の相手をして、すぐ呆れて投げ出したくなるかも」

「それはないと思うな。飛鳥馬より面白い相手は今のところ知らないし」

「何ですか、その言い方……まあ、それだけの覚悟があるというなら、特別に、そこを開けることを許してあげなくも、ありませんけど」


 本当に面倒くさい。

 開けさせたいのだ。自分からではなく、あくまでも、こちらに判断を委ねて。プライドか、それとも、照れ隠しなのか。どちらにせよ、本当に面倒くさい。

 まあ、そんな彼女だから、俺は助けたいと思ったのだろう。向き直って、ドアノブには、本当に鍵が掛かっていなかった。


「……少しも悩まないんですね、君は」


 薄暗い玄関に射し込んだ廊下の照明が、呆れたように笑う彼女の黒髪を、艶やかに照らしている。やっぱり美人だ、飛鳥馬は。初めて見たような気もしたが。


「もしかして、私にわざと呪われたいとか」

「それもいいな。最高に苦しめるやつでよろしく」

「……変態」

「待て待て乗ってやっただけだってのに本気の目つきはやめてくれ」

「ふふっ。じゃあ、その……はい」


 飛鳥馬は小型犬のようにおずおずと歩み寄ってきて、小指を差し出してくる。細くて白い、綺麗な指。

 いや、なんだか思考が色事に偏っている気がするが、別に変なことはない。久しぶりに彼女の顔を見たものだから、少々面食らっただけだ。


「あと、一つだけ」


 こちらも小指を出そうとしたら、飛鳥馬はそう言い出した。


「私の問題に首を突っ込むなら、君も、一人で抱え込まないこと。君のことですから、どうせ、自分の方は何も言うつもりなかったんでしょうけど、そうはいきませんから」


 似た者同士、一人で抱え込む癖をよく分かっている。それをここで出してくるとは、目敏いものだ。


「分かったよ、約束する。ありがとう」


 小指を結ぶ。彼女の指はさらさらしていた。


「そういえば、まだその、赤いですよね、頬。えっと、もしかして治せない、とか……?」

「いや、このくらいなら“再生”させないようにしてるんだ。擦り剥いたりしただけで“再生”させてたら、誰に見られるか分かったものじゃないからな」

「そうですか、それならまあ……良かったです。いや、良くはないんですけど」


 私が叩いたのに、と言いたげにばつの悪そうな表情。


「実は底抜けに優しいのになあ。勿体ない」

「べっ、別に、優しくした訳じゃ……というか何が『勿体ない』ですか。馬鹿ですか?」

「今の流れで馬鹿は関係なくないか?」

「いいんですっ、だから面倒だって言ったじゃないですかっ!」


 飛鳥馬はやや紅潮した顔で、小指を強引に振りほどく。そうそう、こういう女王様然とした態度が飛鳥馬だ。


「……回れ右」

「は? 何で急に」

「いいから、回れ右! さっさと後ろを向きなさい!」


 腕を掴まれて、ぐるんっ! と回される。何がなんだか分からない内に、背中にトンと硬い感触があった。


「……私も、ありがとうございました」


 それは、精一杯に振り絞ったような言葉。


「あの時、助けてくれて。傷だらけになっても戻ってきてくれて。ずっとそのお礼を言いたかったのに、それなのに、君はいなくなって、また私の所為で巻き込んでしまったのだと、ずっと……後悔、してました」


 この三日間の少女の想い。その重さを思い知らされる。そりゃあ、怒る訳だ。


「傍にいることは、認めます。でも、お願いですから、もうあんなこと、絶対に思わせないでください」

「ああ。飛鳥馬に後悔させることは絶対にしない」

「嘘吐いたり、隠し事も?」

「それは、あまり自信ないな。ただ、その時は必ず飛鳥馬のことを考えるって約束する。それで許してくれ」

「……絶対ですよ」


 どうやら、顔を合わせたままでは言いづらかったらしい。恐らくレアな、彼女のそんな顔を見れないのは少し残念だが、背中に感じる重みが心地いいので、これで十分としよう。

 あの夜、飛鳥馬を優先した理由は、これで十分だ。


「おかえりなさい、京君」

「……ただいま、飛鳥馬」


 さて、ここで幕引きとなれば、しめやかに終わったのだが。


「なに茜音を泣かしてんだかなどめァッ!」


 突如として全力疾走してきた樹卯さんの飛び蹴りが、またも腹に吸い込まれる。甘ったるい雰囲気に浸っていた俺はまったく防御出来ず、もろに受けて廊下をまたぞろ吹っ飛んだ。

 感想は、何で? だった。


「てめえ、いい度胸してんなあ! 純粋な(デス)と社会的な(デス)のどっちがいいか選べよあんぽんたんんん!?」

「どっちも嫌に決まってるでしょう!」

「よく言ったぜ正直者! テメーには純粋な(デス)と社会的な(デス)の両方を贈ってやるから覚悟しな!」

「闇に染まった泉の精霊か!?」


 ぎゃあぎゃあと、何故か小学生(成人済み)ともみくちゃになっていると。


「……ぷっ、ふふ、あははっ」


 綺麗な声で大きく笑う少女に、俺達は揃って呆気に取られて固まる。


「あははっ、何ですか、今の吹き飛び方。寮長に、蹴られて……ふふっ、あはははっ」


 その姿は可愛らしく、まるで人形ではなく、年頃の少女のもの。


「……おい、茜音が楽しそうに笑ってるとこなんて初めて見たぞ。京、これ夢か?」

「痛いです」

「そっか、夢じゃないか。そっか」


 夢かと疑った人が頬をつねるように、何故か樹卯さんは俺の頬をつねりながら、破顔して笑う飛鳥馬を眺めていた。どこか嬉しそうに。

 はてさて、始末としては、どたばたで、収拾のつかない展開となってしまったが。

 それでも、目尻に涙を浮かべたまま、可笑しそうに笑う少女の姿は何よりも綺麗で、きっとこれも、幕引きには相応しい。

 ただその笑顔を咲かせただけの、長い序章の終わりであった。





アフターアフター 口は災いの元

「はっ、お前を蹴れば茜音が笑う……?」

「そんな風が吹けば桶屋が儲かるみたいな」

「いいじゃん、蹴られて減るものもないだろ?」

「まあ寧ろ痣が残るので増えるくらいですが、第一、飛鳥馬が泣いたのは今回が初めてでは……」

「ほう? 京お前面白いこと言うなァ?」

「しまった口が滑った」

「問答無用だおらァ!」


 なんだかんだで飛鳥馬はしばらく笑っていた。

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