ユキアネサ 2
べごを連れた女が、太吉の目の前まで近づいて止まった。
太吉は固まったまま黙っている。
女もまた黙っている。
風が雪の粉を舞い上げるように、びゅーっと吹いた。
女は太吉をじっと見ている。
太吉も女をじっと見ている。
風が舞い立つたびに、女の白帷子から何やら甘い香りが漂ってくる。
太吉には、それが懐かしい乳の匂いのように感じた。
――おっ母なら、いいのに。
そんなことを太吉は思った。
女はいつまでも黙って見ている。
太吉は恐ろしくて恐ろしくて、冷や汗が出る思いがした。
女が不意に太吉に向かって、来い。来い、来い。来い。とでも言うように、手招きした。
行かねえ。行かねえ、行かねえ。行かねえ。太吉は心のなかで必死に唱え続けたが、ひとりでに足が女の方へ引っ張られていく。
ただでさえ目の前にいる女と、もう鼻の先まで近づいた。
女がそっと太吉の手を握る。柔らかいが、氷のように冷たい手。
途端に、すーっと爪先から頭のてっぺんまで、冷気が走り抜けた。
女は太吉の手にべごの手綱を握らせて、自分は左手に桶を持って踵を返した。
雪が宙を舞うように、軽やかにふわーり、ふわりと傍の木に歩いていく。
木の枝に覆いかぶさっていた雪をドサッと桶に落としました。
太吉の前に戻ってきて、べごの前に桶を置いた。
べごは待っていたかのように、ぺろっぺろっと舌を巻いて、たちまち雪を平らげた。
べごがもぞもぞとし始める。
女はべごの腹の下にしゃがみこむと、乳を絞り始めた。
キュッキュッ、キュッキュッ――。
雪を腹いっぱい食べたせいか、乳がよく出ること、出ること。
みるみるうちに、桶いっぱいに溜まった。
太吉はその様を微動だにせず見ておった。
女は一度、太吉の方を見て笑みを浮かべると、桶いっぱいの乳を手ですくって、太吉の顔の前に差し出した。
まるで母が赤子に乳をふくませるように、女が飲め、飲め、と。
太吉は恐ろしくて、飲まねえ、飲まねえ、と歯を食いしばった。
女の妙に優しい顔立ちが、どんどん目の前に近づいてきた。
ついに鼻と鼻がくっつきそうに近づいた時――。
突然、太吉の顔に乳がぶっかけられた。
バシャーンッ。
太吉は気を失ってしまった。
次に気がついた時には、冷たい雪野原にひとり大の字になって寝ておった。
風もなく、どこまでも白い幕を張ったような、広い野原にただ一人。
月の光だけが太吉を照らしておった。
女もべごももういない。
遠くで太吉を呼ぶ声がします。
誰の声だか分かるような気はするが、もう誰の声でもいいような気がした。
大人の言うこと聞かねえと、ユキアネサに魂抜かれると言っただろう。
目の前に、こちらを覗き込む大人たちの顔が見えた。
太吉はただ一言、ユキアネサが怖くてソリが滑れるか。と毒づいた。
何も変わらないかと思ったが、太吉は家に閉じこもり、部屋の片隅で何かぶつぶつ言うようになってしまった。
春になり、雪があらかた溶けた頃、ふっと行方が知れなくなった。
その後、二度と戻ってこなかった。
おっ母のところへ行ったのさ。大人たちはそう噂したというよ。




