B&B
店長からの「とりあえず、ダウン脱いでおいで」という言葉に背を押され、アキはカウンター裏のドアからバックヤードに入った。
6畳ほどの共用スペースに従業員用のテーブルと4脚のパイプ椅子があり、壁側のロッカーの横にハンガーラックが置いてある。
左手には店長の事務室があり、右側には給湯室と更衣室、従業員用トイレが並んでいる。
アキはテーブルに置いてあったタオルでダウンジャケットを軽く拭いてから、ハンガーラックにかけた。
ダウンの胸元には、【B&B Q】というロゴが刺繍されている。
どうやらスタッフ用のアウターのようだ。
白いワイシャツに黒いスラックス姿になったアキは、テーブルに置いておいた黒い前掛けを腰に巻き付けて、店舗へと戻った。
「アキちゃん、マスクつけっぱだよ」
「あ、そうでした」
マスクの下から現れたのはなかなかに端正な顔立ちだ。
先日は遊びにきたホストクラブのオーナーからスカウトされていた。
本人は性に合わないと断っていたが。
壁に架けられた時計の針は、10時を回ったところだ。
「店長、新しいお客さん入りました?」
「いやあ、全然。今日はダメだろうねぇ。ご近所の常連さんぐらいだよ」
アキが話しかけた男性は店長のシュウだ。
シュウはカウンターに置いてあったスマホを開くと画面を操作し始めた。
「あ、電車止まってるねぇ」
苦笑いすると、シュウはアキに画面を見せてきた。
この辺りでは降雪自体があまりない上に、この冬では初めての雪だ。
予想外の天候に鉄道会社も対応しきれなかったようだ。
先ほどのタクシー乗り場を思い返すと、おそらく周辺でタクシーを捕まえるのはかなりの幸運を要することになるだろう。
「アキちゃん、帰りの足は大丈夫かい?」
「先週スノータイヤに履き替えたんで問題無いっすよ。ノーマルタイヤがヘタって来たから替えちゃったんですけど正解でした」
「そりゃあ良かった。だったら今日はもう閉めるかな。ちょっとお客さんに声かけてくるから、洗い物よろしく」
そういうと、シュウは店内で談笑中の客に近づいて行った。
大雪とはいえ、今いる客は駅の南口側の商店街の不良店主たちで徒歩でも帰れる。
ただ、帰れと言っても素直に帰るだろうか。
案の定シュウが捕まっている。
なにやら盛り上がっているシュウと常連客を横目にしつつアキがカウンター端のシンクで皿やグラスを洗っていると、店のドアが開き1人の女性が入ってきた。
パンツスーツにコート姿の女性は、アキの姿を見ると急ぎ足でバーカウンターに近づいた。
「アキちゃん!良かったぁ。きっといるって思ったのよぉ。これは運命ってヤツよね!」
満面の笑みで寄ってきた女性にアキはため息をついた。
「いらっしゃいませ。マヤさん。今日はもう閉店なんでお帰りください」
「なにそれ!冷たいわねぇ」
「どうしたんですか?お金なら貸しませんよ?」
「お金借りにきたんじゃなくて、アキちゃんに会いたかったのよ」
「はいはい。会えて嬉しいですよー。トラブルがなければもっと嬉しいですけど」
「今夜はアキちゃんと大人の夜を過ごしたくて来たの」
女性がにっこりと笑った。
「で、本当は?」
「残業してたら、電車止まった。アキちゃんの車乗せて!家まで送って!」
「そんなんだから、残念美人って言われるんですよ……」
「こないだ来た時スタッドレス買うって言ってたのを思い出したのよね」
「よく覚えてましたね。そんな事」
マヤは目鼻立ちがハッキリした美人だ。
身長も高く人目を引く。
そんな彼女に請われれば、大概の男性は二つ返事で願いを聞くだろう。
若干名の例外を除けば、だが。
壁の時計に目を向けると、そろそろ10時半になろうかというところだ。
元々アキは11時で上がりだが、帰宅後やらなければいけないこともあるし、マヤの相手は正直面倒臭い。
どう断ろうか悩んでいるとシュウが戻ってきた。




